僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

背景に哲学はあるのか

今日は雨。気持ちは少し回復。さっきまで雷がなっていた。

昨日はラーメンとレバニラっていう町の中華屋さんみたいな夕食だった。

 

ここ最近、ビジネス書とか自己啓発っぽい文章を読んでいたけど、なんか違うなって思い始めてから読んでいない。

その違和感って何だろうって思った時に、「行動が全てである!」みたいな内容だって気が付いた。

僕はもっと前段階の話が欲しい。その人はなんでそういう行動をしたのかとか。背景、哲学。もっと下らなくて気持ちの悪い、トラウマにも近いであろう心の根っこ。それが見たい。

 

確かに、行動でしか自分も他人も世界も変わらない。ホリエモンは、思考する前にやった方がいいって言う。多動の特性を活かして生きるのは賛成。

けど、僕は行動!行動!行動!って息継ぎなしで出来るほど強くないし、行動に、意味とか価値を見出したい人。そうやって生きている人と仲良くなりたい。

 

自己啓発書を書いた人は、行動!行動!ってやって上手くいった人。ポジショントークを否定するつもりはない。向いているのは、仕事を仕事と割り切れる人達だと思う。

 

心が揺れ動いて、モヤモヤした末に行動に移って、それがうまくいった。その成功するまでの葛藤が見たくてたまらない。

きっと僕は背景がある人が好きだし、哲学がある行動が好き。

 

 

お疲れモード

昨日、沢山泣いた。

小さなことから妻と喧嘩して、今の状況を全部ひっくり返してぶつけ合った。

 

不満は溜まる。僕は妻に母を見て、妻は僕に父を見る。当然違うから嫌になる。それを状況のせいにして、愚痴がどんどん巨大化していく。生活を満たすのは、小さな不満を見過ごせる余裕を作るためだと思う。

金持ち喧嘩せず。とは言ったもの。

 

状況を変えるために思い切った行動をする選択肢と、妻と向き合って自分を育てる選択肢。

どちらもやりきれない。半端者だから、優しくされるとすぐ図に乗って甘える。

ああダメすぎる。

全部自分のせいだけど全部他人のせい。

 

今日は文章はここら辺にして気が付いたことを箇条書きにしてみる。

沢山に泣いてつかれちゃった。

 

・YESしか言わない方が絶対楽しい

営業も新聞も何も言わずNO!だとノリ悪い。NHKは除く。

 

・結婚はそれそのものを越えたそれぞれの形がありそう

もう、2人の欠点を探し続けるのやめよう。卒業、卒業。

 

・ツルヤの細麺のラーメン美味しい

ちゅるっとして美味しい。

 

・自分探しも自分の欠点探しも完了させることが大事

着地点を見出さないと、永劫回帰。どっかで終わらせた方が良い。って思った。

 

・僕がやりたいことをお金に変換するにはどうしたらいいんだ

ロジカルでアイロニカルでメタ的でっていう人がお金を稼ぐのは無理なのか。いや、絶対形はあるはず。

 

台湾で一番美味しかった鶏肉を揚げたやつ。

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時間は無料か

昨日から今日にかけてたくさん寝ている。

昨日は昼寝も3時間くらいして、24時就寝。今朝は11時に起きた。

少しショックな出来事があると、すぐ過眠になっちゃう。非定型鬱じゃないのってツッコミが入るけど気付かない振り。

毎晩やっている瞑想もキャンセル。毎朝やっている床掃除もごく軽く。こうなってしまったらやり過ごすしかない。

やり過ごしている間にも、僕は歳をとっていて、どんどん老いる。理想の自分から遠のく。今世で間に合うのかなって絶望しそうになる。

 

でもやり過ごすしかできない。時間はほぼ無料。お金を支払わないという意味で無料。

だから、落ち着いた振りでもいいから、自分を整えるしかない。実質無料である時間を消費しかできない。未来への先送り。

サッカーを見ていた。松本対札幌。宮沢という選手は、落ち着いている。ボールを持っても慌てない。ターンして散らす。一方で、落ち着いている間に相手は帰陣しているから、ゴールを取りたい前線の選手にとっては、もどかしい。決定機の数が大事だから時間のうちどれだけ前線にボールを運べるかが重要。けど時間を使って、ボールを落ち着かせる宮沢。

時間を消費してゆったりする選手とも言える。

試合結果は0-0。もしかすると時間を消費しすぎたせいかもしれない。

焦りもあるし、期限のあるものもある。環境を思い切って変えるという手もある。けど、大事な決断は良い日常の中でしかしちゃいけないと思っている。

焦ってどうしようもなくなって、選ぶ選択肢は得てしてうまくいかない。

穏やかでステキな日常の中で、それを選択することでプラスアルファになると思った時にだけ大きな決断はできる。そう思っている。だからやり過ごす。

このやり過ごす論理と、脳が出す焦りのアラートのバトル。

あとこれを何回やれば、ずっと幸せな気持ちでいられるんだろうか。

うまくいってもうまくいかなくても、この周期があるなら何をしても変わらない。むしろ努力するだけ無駄じゃないかって考えが頭を過ぎる。

 

それでも前へ。って今は言いたくない。

「合理化」の意味

昨日、妻が何か楽しいことしたいねって言ったので、僕は普段飲まないセブンアップをゴクゴクゴクって飲んで、7×7はしじゅーくだよねぇ!!って笑いたいって言ったらウケた。

その提案ができるのはサイゼリヤだろうということで、夕飯はドリンクバーとイタリアン。

セブンアップは無かったけど、トニックウォーター(甘い)のに氷を沢山いれて、「しちしちしじゅーく!がははは!」と言って乾杯した。

 

沢山食べて、胃がもたれていたから朝食兼昼食はスープパスタ。スープを作って乾麺も同じ鍋で茹でて食べる。美味しかった。

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昨日書いた「内省を攻略せよ」では

 

yashimaryoz.hatenadiary.jp

 内省は答えが出ないものしか内省足り得ない。よってネガティブになりがち。

なので、思考材料を、行動や思考などによって獲得し、内省から論理的思考に移ろうというのが昨日の記事。

 

そんで、今日書こうと思っていたのが合理的な思考について。「合理的」の意味と言っても良いと思う。

現代社会において「合理的」は大人で、「非合理的」は幼稚だと思っている。自分の行動に対して合理的に判断ができるようになったら大人になれたって言っていいんじゃないかって思っている。その根拠について書いていきたい。

 

合理的の意味は辞書で言うと、「道理に敵うさま・能率的」。

 

大学時代、労働経済という授業で、派遣労働の問題について取り上げたVTRを見て感想を書け、という課題があった。

田舎出身の優しいカッ君の書いた課題のタイトルは「合理的な社会が生んだ現実」。さぁ何を書くんだろうって思ったけど、ここでいう「合理的」は「経済的合理性」という「道理」に敵うさま。派遣労働者を雇用すると、正規雇用の社員を遣うよりも、1時間あたり1000円のコストカットになりますよ、みたいなこと。

 

「合理的」の意味は、↑の例でいうと、A社は〇〇という現場において、お金を沢山使って、人を育てるという選択もありながら、経済的な合理性を選択した。という含意がある。

要は他の多種多用ある選択肢のなかから、この場で適用させる「道理」を自分で選択する必要がある。これが合理的になるうえで非常に重要。

 

ちょっと例を。

僕のタリーズでいつも注文するのは、エスプレッソ。僕にとっては合理的。

僕がタリーズで重視するのは、値段が安さ。味が好きかどうか。

タリーズという範囲では、この2つを道理にしている。だからエスプレッソ以外のものは頼まない。という具合に、自分で自分の道理は決められる。

これが妻の場合、「糖分を摂取したい」っていう道理を敵えるために、ある程度のコストを払ってなんとかかんとかマキアートを頼むのも「合理的」。

 

道理には、善悪の基準がないと思う。僕の道理では派遣社員を遣うのは嫌。けど、僕が大企業の切迫した部門担当者だったらするかもしれない。

存在するのは、置かれた環境と自分の嗜好でしか選択することができないから、自分以外の誰かから選択した道理を揶揄されるのは、大抵の場合意味がない。

 

サラリーマンが好きでもない相手にニコニコしているのは、「相手を立てることで自分と会社を好きになってもらう」が、その場で選択した道理だから。自分で選んでいれば、ね。

 

自分が今、この場所でどうしたいか?って選ぶのが大事で。その基準である「道理」にまっすぐに突き進めば、それが合理的で、能率的にもなる。

 

その場で何を優先するべきか、瞬時に脳が判断してくれて道理を導き出してくれる。生きるのが楽になった。おすすめ。

内省を攻略せよ

最近、内省する時間が減っている。

1か月前までは、自分がどうあるべきか、自分がどうしたいのか等々、自問自答の時間が起きている時間の半分くらいを占めていた。

ここ2週間くらいにおいては、何をするにしても考えずに挑戦できている。失敗も多いけど。

もうちょっと詳細に書くと、行動をする際に一瞬色々過りはする。「これでいいのかな」とか「大丈夫かな」って。だけど、その思考を鼻息をフンってやって一緒に飛ばす。そうすると元通りになって行動に移れる。

毎朝やっている床掃除も、今日は昨日のフットサルの疲れがあるよな、って一瞬過る。そしたらフンッ!自分の部屋の床掃除をやっている最中も、別にキレイだからいいんじゃないって自分が言う。鼻息フンッ。

 

思考にも2種類あると思っている。ひとつは「論理的思考」で、もうひとつは「内省」。

論理的思考は、基本的に大好き。1時間でごはんを作るためには、まず圧力鍋でごはんを炊いて、もう一個のガス台でスープに取り掛かる。2つのガス台が埋まっている間、サラダと炒め物になる野菜を切って、ボウルに置く。肉は後から。という具合に、瞬時に組み立てて実行する。これがこうなっているから、こうなるという組み立て。

 

一方内省は、漠然とした不安が主戦場。未来はどうなるんだろう。ノストラダムスの予言は当たるのだろうか。僕はこれからどうしよう。などなど。始めた瞬間から迷宮入りが確定している。

内省は、僕にとって非常に好きなものでもある。実体のない真理を追究する哲学も好きだし、自分がどう感じるかについて自分を問いただして、言語化するのが大好き。

内省の特徴は、答えが今は出ないこと。僕をはじめとする真面目な人々は、内省から行動を考えちゃう。先に書いたとおり、「うーん」って考えるのは大抵答えがでない。だから、どうしよう答えでないじゃん!やばいやばい!ってなる。こんなに時間を費やしているのに、こんなに考えているのに。って僕はなりがち。

それを突き詰めすぎると、生きるか死ぬかの2択がどうしても待っている。その決断を毎日できるほど人間は強くできていない。だから、内省はしんどい。僕は鼻息で内省を吹き飛ばしている。

 

もうちょっと、内省や思考について書きたい。

 

論理的思考も内省も含めた「思考」全般は、組み合わせ作業だと思う。

自分の中にある知識、経験、思い込み、願望等々、それらの組み合わせる作業で、答えを出すのが「思考」。

「論理的思考」は、さっきの例で言うと「料理をつくる」前提があり、「何を作るか」も決まっている。要は思考材料が揃っている。だから後はそれを組み合わせるだけ。

何が言いたいかって、「内省」は思考材料が揃っていないがゆえに「内省」足り得るんだってこと。

どうするか決めるための材料が無いものを、悩んだって永遠に答えは出ない。米がなかったら炒飯は作れないのと一緒。

その足りないピースを探すための知識や経験など、行動をして探してみたら、自問自答で悶々とするのが終わるのかも。

全てを論理的思考にして、合理的に思考ができると、決断をするのがすごく楽だと思う。思考を当てはめるだけの簡単なお仕事。思考の合理化については明日、書いてみたい。

 

一方で、内省をしないと、組み合わせ作業の大事なパーツである「思い込み」や「偏向性」が分からないっていうツッコミが僕の中で沸いた。地獄から抜け出そうとしたら地獄が待っていたという最悪のケース。

 

確かにその通り。

けど僕は内省で自分を探したこともあるけど、結局は「自分が関わってきた人で出来ている」って気が付いた時に、自分にどんなバイアスがあるか自覚できたと思う。

 

「自分が関わってきた人で出来ている」理論は、「相対化」と他人がいる感覚」で成り立っている。

 

妻よりも僕はぐちぐち考えるのが得意だなとか、キャプテンよりも外国に行きたいって思考が強いな、とか。相手を見て、自分がどういう人間かが分かる、みたいなこと。これが相対化。

 

もうひとつ。思考を含めた所作の中に「他人がいる感覚」。僕は最近靴を揃えている。妻に教えられてできるようになった。だから揃える度に妻を思い出す。

目玉焼きを焼くときは、兄を思い出す。油を多めに引いていたな、とか。この表情は父親のやつだな、とか、昔の上司のものだな、とか結構頻繁に思い出す。

「相対化」と、「他人がいる感覚」を含めた「自分が関わった人で出来ている」という言葉を、咀嚼して自分の気づきにできたら、きっと内省は省略できるようになるんじゃないだろうか。

 

酸菜と宇多田ヒカル

昨日は半ズボンでランニングをしても汗ばむくらい暑かった。短いソックスにsuccer junkyっていうスポーツブランドの上下。ロゴがジョジョのイギーみたいで可愛くて好き。上は蛍光オレンジで下はグレー。それにサングラスを掛けて走っていたら小学生にじろじろ見られた。

朝は寒かったから、妻と夜は酸菜鍋にしようかなんて話していた。夜もしっかり寒くなって、鍋に向いた気温にちゃんとなった。

酸菜鍋というのは、中国の酸っぱい白菜の漬物を入れた鍋のこと。時々行く中華料理屋さんがあって、そこで出されていたのをコピーした。

この料理は、中国では春節のお祝いで食べられるらしい。調べたら大きい壺に沢山の白菜がみちみちに詰められていて、美味しそう。

発酵に、ロマンを感じる。キムチも野沢菜も酸菜が好きなのも発酵ロマンへの憧憬か。

菌を増やして、風味を変えるって要は腐らせること。こち亀で新人時代のキャラ設定だった中川が、納豆を腐敗した食べ物ですよね、と揶揄していたのを思い出す。

 

塩で味をつける、とかスパイスで辛みを!みたいなのと一線を画す、菌を増やしての風味付け。人の手で、かつ人の手が届かない領域に任せて、菌を増やす。あぁこの矛盾と奥ゆかしさがたまらない。

発酵への「憧れ」は、僕にとって「手の届かない、菌任せ」の部分がそれなんだと思う。ワンピースを目指す海賊しかり、アイヌの金塊を目指す不死身の杉本しかり。まだ見えていない、手の届かなかった代物。発酵。

好きなものの理由を自分に問うのって面白い。発酵は85%くらい言語化できたと思う。

何で好き、って聞くって他人にやると野暮だし、人に聞かせると「知らんがな」ってなるから言えない。

 

でも僕が面白いんで、もう一個書いてみたい。宇多田ヒカルについて。

僕が最初に買ったCDは、B`Zの「今夜月の見える丘に」。ドラマの影響。多分その次に買ったのが宇多田ヒカルの「COLORS」。僕は日本人の音楽をあまり聞かない。好んで聞こうとするのは宇多田ヒカル玉置浩二井上陽水。 

 

COLORS

COLORS

 

歌が上手い下手とかは、置いておく。めっちゃ上手だと思うけど技術的なことは分からない。

僕に響くのは、彼女の「切なく孤独な声で歌われる独自的な歌詞が日本語で聞こえてくる」のが嬉しいからだと思う。だから彼女が英語で歌う唄には興味が全然ない。

英語でいいんだったら、ジャンルは違うけどHeather Headleyとかを聴く。 

ノってきたから、「切なく孤独な声で歌われる独自的な歌詞が日本語で聞こえてくる」

を分解して考えたい。

まずは「切なく孤独な声」の部分。いつかのインタビューで、彼女が「私の歌は、部屋で一人イヤフォンとかで聞くタイプの歌」と言っていた。

そう!それ!みんなで大声で歌い合わせるのは、世界にひとつだけの花とかがいい。彼女の女性性が強くて、かつハスキーで、未熟さも感じさせる声が僕の心のどこかにある、寂しい部分に引っ掛かる。

彼女は言わずと知れた藤圭子の娘。何も知らないけど、藤圭子は所謂母親役は難しい人だったんだと思う。テレビで急に海外に連れていかれて、いつ戻るかもわからなかった。と話していた。でも娘であるヒカルは、才能も声も引き継いで生まれてきた。母親に対する愛憎入り混じる感情が、切ない声へと転化しているんだと(勝手に)思う。

ここまでが声の部分。

 

次は、「独自的な歌詞」。

僕が宇多田ヒカルが好きと公言する決定打になったのは「花束を君に」。

歌いだしの歌詞、「普段からメイクしない君が薄化粧した朝」は、何回聴いてもぞわぞわする。

「幸せになろう」のサビの部分。「幸せになろうオフィシャルな野望」。ここも大好き。メロディーも言葉も何てことない(失礼)のに、そういえば幸せを願うのは公式的だよな、ってはっとさせられる。

キャッチーな言葉も、難解な意味も込められていないのが大多数。なのに、言葉の組み合わせだけで、こんなにもオリジナリティが発揮されているのが彼女の凄さ。

歌詞作りで、日本語を日本語のまま考えた曲と、日本語を英語で考えた歌があるんじゃないだろうか。何も情報が無いただの勘。バラードは日本語っぽい。それ以外は英語っぽさを感じる。僕は前者の歌が好き。

以上が、宇多田ヒカルを好きな理由の説明。

 

結局のところ、彼女の歌は母に向けられて書いているんだと思う。孤独だよ、って。だからこそ愛を歌っても寂しくなる。

その部分の感性が、僕は異常に繊細にできている。だから響くんだと思う。

ダウンとアロマ

父親から、モンクレーのダウンが送られてきた。2回くらい着たけど仙台で使うには機能が高すぎて暑いらしい。

ありがとうと電話をしたら、なんと10万円以上するらしい。すごい。ダウンに10万。そしてそれを2回で譲る。

ちゃんとBEAMSの洋服カバーに入った、黒いダウン。とっても格好良い。着てみると、仙台では暖かすぎるのが分かる。ふと、腕当たりの匂いを嗅いだら洋ナシのような洋酒のような匂いがする。加齢臭だ。おやじ臭だ。

 

特別嫌ではないけど、自分もこうなるのかという悲しみに襲われるのと、もしこれを着ている時に美女とハグをする機会があったら躊躇ってしまう。それはアカン。

だから、匂いを取るスプレーみたいなので拭いた。取れない。もう一回掛けて放置してみている。

 

僕は、洗剤の匂いが苦手。柔軟剤を使いたい妻とは早くから別々にして洗濯している。今日は布団カバーと枕カバーとシーツとベッドパットを洗濯した。干すと、狭いベランダが布でいっぱいになっている。

 

僕の部屋はベッドと小型のテレビと本数冊とカメラしか置いていない。寝るだけだし物が多いと気が散るから。良く言えばシンプル。悪く言えば独居房。

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思いつきで、瞑想用に使っているアロマオイルを入れた水をろうそくで温めて良い匂いを充満させるやつ(名前は分からない)を部屋でも炊いてみた。

 

何て言うアロマオイルか分からないけど、僕の中で母の匂いだって思っているやつ。

 

前にも書いたかもしれないけど、父と母のイメージが伊勢志摩で倒れてから変わった。

なぜかは分からない。以前はどちらも僕を嫌っているイメージ。けど今は、父は震災以降の枯れた姿で、母は今より若くて痩せている姿。どちらも微笑んでいる。両親が僕を認めてくれるんだったら、僕は何をしていても大丈夫って思えた。

 

不幸ダッシュと満たされぼんやり - 僕を考える 

 

この記事でも書いたけど、親に愛されたいっていう飢えで原動力にして生きることもできる。最近までそうやって生きようとしていた。

でも、僕は愛されているイメージに何故かなった。もう飢えてない。

倒れた以降続いていた、頭のぼんやりも治まっている。だから、僕は「満たされぼんやり」から「単純に満たされている人」になった。

 

きっと忘れっぽいから、僕は愛されているんだって入る度に気づくよう、ドアにダウンをかけて、アロマオイルを導入したんだと思う。