僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

無に惹かれるか

Tシャツの下に黒いタイツを着てみる。ラッパーっぽい。おいそれとNORTHFACEの黒いニット帽を浅めに被る。ロゴは正面じゃなくこめかみあたりにしておく。31歳にして初めてのストリートファッション。ダボダボのジーンズは持っていないので普通のを履く。おお、若い。シャツにニットなんてスタイルが僕にとって普通だから、〇〇っぽいがつくと小恥ずかしい。だけど属性が自分に着くと安心するのも事実で、本当に若い人からすると若作り、僕よりもおじさんからするとラッパー。っていう属性を携えて街に繰り出してみた。

世の中は、僕のような取って付けたようなラッパースタイルじゃない、本格派のパリピが動かしていると思う。アイフォンのアプリを使って集まり、音楽がガンガン鳴るホールで一緒にテキーラを飲んで、くっ付いたり離れたりする。お金も物も人も全部動く。彼らは家でお湯を飲んで過ごさない。そんな属性の人達の周りには「有」が溢れている。携帯電話もショットグラスもDJも、着飾った女性も全部「有る」もの。やらない善よりもやる偽善っていう言葉みたいに、彼らは行動することにあるいは楽しむことに傾注して生きている。僕はそんな「有」の溢れる環境を想像して、有限だからこそ楽しんでいる。終わりが来るからこそ楽しむ。そしてそれが今を生きるってことなのかなって思う。

ただ、「無」に惹かれる節もある。心は空っぽの方が夢詰め込めるの歌詞のように、心は無の状態だと平穏に包まれる。断捨離やミニマリストが流行っていて、物に執着するのをやめたい、無に近づきたいって思想は市民権を得ている。これは憶測なのだけれど、日本人は「無」に惹かれやすい。足るを知る、無我の境地。日本人の慎ましさと、奥底に秘められた「有」に対する欲望が反対に「無」へと誘いこむのでないか。ここからは更なる私見の極みなんだけど、「無」に対する興味や欲望はすなわち「死」に対するそれと同様だと思っている。物が有るのも、テキーラサンライズを飲めるのも命があってこそ。死んじゃうと飲めない。大学院生の頃、Eaglesに嵌っていてバーでテキーラサンライズばかりを頼んでいた。そして、気になっている女性に「Eaglesの曲にもあるんだよ」なんてうんちくのようなダサい知識を披露していた。

「有」が命によって担保されているのであれば、「無」はその逆。「死」であると。よく、自殺志願の人が急に大切していたものを捨て始めると言う。「無」への希求や関心は、「死」への接近だと思う。だからって、今だけを生きて、後は野となれ山となれと言いたいんじゃない。どちらへの興味もあって然るべきで、その揺らぎこそが生きていることなんじゃないか、と思う。

 

こだわりと線引き

ジョンレノンが「想像してごらん世界がひとつだったなら」とBluetoothイヤホン内で囁いている。国とか思想のこだわりで線を引くのはしんどい。世界はもっとおちゃらけてていい。僕の功績だって誰かに蹴っ飛ばされて良い。本当に素晴らしい功績があれば、違うのかも。いやよく考えたら無かったわ。「ノーベル賞が何の役に立つんだよ!!」って貶された科学者は多分え?そうなの?って純粋に驚く。

そう、おじさんが素直な顔する時って面白い。おじさんは、生きる中で最適化された役割を見出して、状況に応じてその仮面を使い分ける。と思う。上司と会話する時の顔、家族等々。その仮面の間隙を突いた時に可愛いらしい顔が見える。その顔が見たくて突然殴りかかったらどうなるんだろう。と考える。

知り合いの47歳の男性はいつもキラキラした目をしている。1人で歩いている時は3割増し。お腹は突き出てしっかりハゲている。背中もお腹も毛むくじゃら。けど可愛い。10個ほどある同じパンツと肌着のセットにはカタカナで記名。リュックも帽子もコートも全部青色。洗顔は名前が書いてある方を表面にして。拭いて拭いて、ジャブジャブジャブと3回。2セット。

直接関係ないかもしれないけど、もらった色紙は捨てる。嬉しくないわけじゃない。もう既にあなたとの思い出は僕の中で宝物になっていて、色紙にペンを使ってわざわざ書く必要が無いだけ。覚えている。

仮面とキラキラ。そんで線引き。その人のこだわりと、こだわり方があるだけで大した差じゃ無い。

とある高校生。リフトから誰かが落ちたと叫び、スキーを外して助けに向かう。きっと彼らにできることは無い。それが事実。けど、命大事。それが根本にあったのよね。ゲレンデの真ん中にスキーを放りだすのは褒められたやり方じゃない。他の人に咎められて怒り心頭の彼らは、僕の胸ぐらも掴む。僕もやり方は下手くそだと思う。けど気持ちは分かったよって言う。伝わらない。興奮してるから。

想像する。ジョンレノンが望んだ線引きの無い世界。みんなが手を繋いででいるんじゃなくて、胸がぎゅっと締まるような息が出来なくなるようなコミュニケーションは、無くなっている。想像の中だけでもそうあってほしい。

ピエロにラップキス

訛りを極力避けて生きてきた。だべ、しゃっこい、鍵かった?はご法度。そう僕は北海道出身。東京に憧れる母に育てられ、その母は北見市を恥ずかしがる祖母に育てられたから当たり前かもしれない。都会なのか田舎なのかなんて、めっちゃ誤差。知り合いの60台男性は、日本で雨が一番降る山間の集落に生まれ、山猿みたい(自分で言ってた)な生活をマジでしていたらしい。物を買うときは帳簿。大学はおろか高校も出ていない。40年以上同じ仕事を立派に勤め上げ、今は趣味のスポーツと飲酒で指先をプルプルさせながら生きている。この間は尿道に管を差したまま飲み会に現れた時は驚いた。すごい。優しくて大好きなおじさんは、妻子がいない。めっちゃ優しい、ゆえのシャイ。シャイゆえの非モテ非モテゆえの孤独。孤独ゆえの優しさ。優しさは寂しさと裏表で、ヒリヒリする。ジェイソンステイサムがバイクを盗難しながらも追っ手から逃げるくらい。優しさを有り難く頂きながらも、裏側を心配して、でもそれを悟られないようにする。お互いのために。何もラップ越しにキスしたから、このおじさんを気にしているんじゃない。飲み会のノリにおじさんが乗った。僕とならお互いギリアルコールパワーを借りて、いける!そう判断したんだと思う。長年の喫煙で唇の色は悪くなって、白髪で坊主頭の額は驚くほど狭い。優しいのに顔めっちゃ怖い。でも、なんか心が通じ合えた。と思う。魔法のラップキス。

恋らしきものをしたのかもしれない。これが恋なのか、性欲なのかは分からない。ただ言えるのは恋と依存は近くて、アドレナリンとドーパミンがドバドバ。躁鬱。31歳になっても返事が来ないかな、送ったらまずいかなってドキドキする。おじさんから学んだんだ。シャイは孤独を生むって。

ラップキスと同じ日、台湾人が気になる女の子を呼び出し、周りを固める日本人。リンチさながら。けど皆好意という名目があるからニコニコ。囃し立てる。リンチ終了後、彼は僕に「our relationship is over 」と言った。あ、彼女との間ね。ホワイジャパニーズピーポー。こういうのは時間を掛けるべきだと、周知のものにしてはならないと憤る。勇敢な彼はプロポーズの振をしたりお金を持ってるか確認したり、一通りピエロをやった。偉い。その後ですんごい怒ってた。ただ、彼には別のターゲットがいる。ピエロはその余裕ゆえかもしれない。孤独じゃない、は心を満たしてくれて、満ちた心は許しを生む。そんなことを学んだ。

日本が嫌いと言わないようにしたい

コロナウィルス。まじファック。中国インバウンドを狙ったボスと、ボスのことが大好きな同僚の機嫌を損ねさせて、雰囲気が悪い。悪かった。

ある朝、イヤホンで音楽を聴いていたら「挨拶くらいしたら」とウーハーボイスで言われた。怒ってた。

うん、挨拶はした方が良い。人が人を認識した合図であり、発声練習であり、自分と相手の調子を測れるバロメータだもんね。

挨拶のための挨拶はルールフォールールで、空気に徒手空拳を喰らわせる位には無用。だと思う。いや待てよ。どんな時であっても彼女の世界で挨拶は、必要なのかもしれない。トイレットペーパーくらい。例え地震発生中でも「(グラグラ)おはよ(グラグラ)うございます(グラグラ)」とする程に重きを置いていたなら仕方のない話。僕が悪かった。

 

「日本人なんだから日本人らしくしてほしい。」と言われた。

日本人らしい振る舞いとは、何か簡潔に説明せよ(30点)の設問。基本的には暗黙知を十全に機能させる。行動の前後には逐一報連相をし、もしその際、年齢や役職等が上位だと思われる人が嫌な顔をしたら、その件に関しては今後せずとも良い。またその要不要の基準は日によって機嫌によって変わるため、必ず年齢や役職が下位の者が、その方法を含めて試行錯誤すべし。と答える。難しいね。疲れちゃうね。おじさんはね子供おじさんだから、複雑なことわかんない。

挨拶も、日本人らしく、も文化と言ってしまえば無罪放免。世界のほとんど全ての事象は文化にさえなれば議論の対象にならない。挨拶をする文化、年上をたてる文化。慣習としてやってきたから、そこに議論や改善の余地は無い。って思想。じゃあ文化vs文化はどうなるんだろう。日本文化vs中国文化。道端に唾を吐くか吐かない対決。結果は圧倒的なサポーターの声援など地の利を活かしたホームチーム日本文化の勝利。となるんだろうか。僕はならないと思う。文化は文化。人は人。みんな丸い地球に住んでる人でかつ違う人のだから違う生き物。

一方で、侵してはならない領域がある。尊厳の部分。「●●(中国人の蔑称)と⚪︎⚪︎(白人の蔑称)がくっ付くとロクな事がないんだよなぁ〜」は僕の感覚ではアウト。人種差別は、脊髄反射でダメ。人の変われない部分を歴史的な問題で型に当て込んで、あれこれ言うのはナンセンスの極み。気にくわない中国人も白人も沢山いると思うけど、それを人種で括るのがダメ。

日本人らしく殊勝にしないあいつ(僕)はダメ、話しかけないでおこうぜ、何なら仕事辞めさせようぜ、は文化vs僕。文化で、個人の尊厳をぶった切る。多勢に無勢。10年位前の洋画で1万vs11人みたいな映画があった気がする。見てないけど。そんな使い方。

だけど、日本が嫌いとは言わない。勝手な括り方だから。人種差別に近くなっちゃうから。だからコロナが悪い。と言う。悪者になってもらってすまん。コロナ。

 

 

頑張るを考えてみた

日々忙しい。沢山の雑事と雑談に対応していて、自分の時間が取れない。朝起きて、なんか色々やってたら、あ、あなたそんな風に僕を巻き込むの?僕とやりたいの?そうなんだ〜?あーれーという間に1日が終わる。濃厚接触エブリデイ。

それでも、それでも自分の好きなことをやって、成し遂げるにはどうしたらいいんだろう。と考えた。脳内googleがページの先頭に出した答えは「頑張る」。

あれ、頑張るってなんだろう。考えてみる。

 

 

1.頑張るの古典

「頑張る」って、汗水を長時間&長期間垂れ流すっていうイメージ。部活もそうだし、板前修業もそうだと思う。(実際はやったことが無いから分からない)

夜なべして手袋を編んだ母さんは、きっと頑張っていると思う。僕の中の「頑張る」の一種類。その中でも古めかしいイメージを構成に貢献している。

小学生の頃、亡くなった祖父が読んでいた巨人の星。汗にまみれ、涙を流しながら、それでも立ち上がるシーンはきっと僕の「頑張る」を組み立てたと思う。

さっきこれを書く前、「⚪︎⚪︎するためには頑張らなきゃな」と思った。言葉が出てくると同時に自分の行動がイメージとなって現れる。最初はwork hard、古典的な、長時間猛烈ファイアー頑張る姿が出てくる。ただ、僕の頭の中には、これらのイメージがあるのと同時に、それらを否定したいという感覚である「効率的」も一瞬遅れて現れる。

話は逸れるのだけど、言葉を想起した最初のイメージを経験が覆すっていうことない?僕は年齢を重ねるにつれて重層的になってきている。友達が男性の大きい声に委縮するらしい。何故か聞くと「小さい頃父親に怒鳴られていたからだ」「パブロフの犬のようにこれは反応だから変えられない」と言う。その感覚は彼にしか分からないもので

簡単に共感なんてできない。だけども、きっとその恐怖感を層を違うもう一個の層で塗りつぶせたら楽になるのかな、なんて考えていた。

 

2.自分のために効率良く頑張る、他人のために見栄えよく頑張る

前項の頑張る、は「とにかく目の前のものをやり遂げる」と目に炎を蓄えてやるタイプ。大リーグ養成ギブスのインパクトは強烈。20年以上、僕のイメージに巣食うって並大抵のことじゃない。

ただ、目がメラメラし始めたと同時に「こりゃ違う」と「もっと効率的に」が脳裏を過る。もっと違うやりかたはないか、苦しい思いを出来るだけ少なく済ませる方法無いのか、なんていう思考回路が働く。この思考過程は、僕の見てきた世の中の範囲ではあまり人気が無い。と思う。あくまで僕の世界の中でなんだけど、土埃にまみれて!泥をすするように(これは言われたことがある)!!這いずって!!が僕を含めた日本の多くの人にとって好ましい。

 知り合いの大学スキー部の話。童貞の1年生を4年生の女性が公衆の面前で色々イジメるらしい。羨ましい・・・とおじさんになった僕なら思えるけど、大学1年生だったら童貞であろうと童貞じゃなかろうとしんどすぎる。

それは(恐らく)部内の年齢や学年などの序列による支配を受けているのが問題だと思う。後輩は当然、スキーが下手で年齢も下。だから、辱められて良いという考え方とは距離を置きたいと思う所存。

ただ、その部活を支配する人にとっても、言い分はあるはず。「これをやるからこそ社会で生きていける」「辛いことがあったから幸せを感じられる」等々。基本的に間違っていないと思う。僕だってこれらの頑張る論理は、真実の側面があると思う。

ただ、ただ、そのやり方だと思うのよ。頑張るは当たり前、だけど頑張るのは部活や技術の範囲までであって、その他人間関係の理不尽を特定の人間が受け続ける構図は、イカれてるとしか思えない。

少々脱線した。頑張るのはなんなのかだった。

5年前のサッカー業界は、運動量が重視されていた。だから、豊富なスタミナ、肺を4つ持つ男という異名の選手が沢山いた。同時に、距離を走れば、という誤解も生まれたと思う。ガムシャラに攻撃に参加した後、守備に戻る、ボールを奪いに体を投げ出す。美しい、と思う。人が奮闘する姿は誰の心も動かす。スポーツの醍醐味。ただ、心を打つのは観客。心を打つ観客の姿を見て、自分も心を打つ連鎖反応もあるけど、ひとまず置いておく。誰のためにやるのか、自分のためでしょ、違うの?少なくとも誰かのため「だけ」には人は動けないと思う。

どう人に見られるか、見栄えを追い求めるのは、誰にだってできることじゃない。

まず、自分。自分がなぜそれをやっているのか、それをやって得たいものは何なのか、それに辿り着くまでの最短距離はどこにあるのか、模索するのは悪いことじゃない。

但し、他人からの見栄えは悪いかもしれないよ。「ガンバの遠藤はちんたらしてる」と泥臭いのしか好きじゃない人はいる。

 

3.言葉としての頑張る

 僕は頑張る、頑張れの言葉を使う。現在のベストを尽くしてみて、という意味で使う。もっと努力しろ、じゃなく、当人の心を奮い立たせるために頑張って、を使う。

今現在のベストを尽くすのは、とっても大事。大抵は、今現在のベストって大したことない。ただ、理想の姿になるにはベストを積み重ねるしかなくて、その今できたことを認めるしかないと思っている。そう思っているから、ベストをまで促すことはする。2回くらいまでは「もうちょっとできるんじゃない」って言う。だけど3回目くらいからは、今日はここまでだよねと思う。嘘でも仮病でも、本人の申告ならそれが本当でベスト。

自分にかける言葉としても「頑張ろう」を使う。

知り合いのリンゴ農家を営むおばあちゃんは、「今日も頑張ろう」と下半身は四股を踏む前の体勢、両のこぶしを握り上に突き出して言う。

人は弱いから、いつもこれくらいでいいやって思っちゃう。毎日思うし、2時間に1回は思う。それがベストなのか怠けなのかは誰にも分からない。自分にもわからない。だから、鼓舞する。そうしてベストと怠け、表裏一体の基準値を少しでも上げようとする。

 元々、頑張れって言うなよと思う方だった。自分の弱さを認めることと、自分の中の理想を追い求めるのは相矛盾する。そりゃ頑張れなんて意味が無い、他人の言葉は雑音。両極のどちらを選んでも良いんだけど、その行為が終わったあと気分が良いのはきっと少しだけでも理想をギリギリまで追い求めた時なんだと思う。それゆえの頑張れ。

りんごを沢山頂いた。とりあえずカウンターの上に置いておく。りんごの模様は目を凝らして見ると結構奇抜。派手な赤色を下敷きに薄黄色の筋模様や斑点。人が着る服に採用したら、草間彌生くらいのビックアーティストでないと似合わない。シマウマのゼブラ柄は、承知の通りライオンなどの捕食者に狙われないようにするため、風景に馴染むようにできているらしい。奇抜なのに、目に馴染む。面白い。リンゴやシマウマは数が沢山あるから目に馴染むのか。それとも「自然のものは体に馴染む」というネットワークビジネスの人が喜びそうなワードで解決するのか。

量でも、自然派志向であっても、「脳内で起きていること」という視点が加わると僕にとって納得しやすい。脳が一定量に達すると馴染むと判断するらしいよ、脳は自然のものが馴染みやすいらしいよ、というと途端に真実味が増す(僕にとって)。脳大好きマンの僕が、脳の働きに、人のほとんど全てが詰まっている。そんなことを書いてみる。

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1・はしがき

このブログを始めた頃、「自分とは」という疑問を持って書いていた。(決して今だって解決したわけではないけれど。)熊沢さんが書いている、ティーンエージャーに有りがちな「アイデンティティとは」みたいな問題。そうなんだけど、僕にとっては何か違うなとは感じていた。長い間、自分とはという疑問を持ちながら、何となく、流されるまま大学に入って、大学院に行って、就職をして、長野に来て、結婚して、離婚して、引きこもり状態になって、家族から見放されて、ホームレス状態になって、死にかけてまでして、ようやく辿り着いた。「僕の前頭前野は機能をしていないんじゃないか」

 

2.人間たるには

「自分とは」という疑問は生の苦しみで、哲学であり、心理学でもある。何なら全人類が抱える永遠の課題。人生只々生まれて死んでいくんだと悟りを啓けたのであれば、自分に対する呼称は必要は無いのかもしれない。ただ、ほとんどの凡人にとって、自らを紹介する枠組みみたいなものは欲しい。少なくとも僕は。大学生である。とか、こういうことが得意である。とか。その区切りが無いと、病床に伏せるまで自己紹介で語る言葉も無く死んでいくことになる。それって結構辛い。「自己紹介が出来ない」を地でいっているのが、●●ちゃんママ(パパ)とか、どこどこの奥さんみたいな人。子供や夫(妻)の所有物にされることが、自分を紹介する唯一の言語。共依存とも近い関係性。

脱線した。その「自分とは」に欠かせない脳の働きが、理性、客観性、報酬系統などを司る前頭前野にあるらしい。詳しくはない。そこの働きの強さというか、神経回路が出来ているかどうかが、ヒトを人間たらしめる理由になっている気がする。

最近の子育てで重要視されているのが、非認知能力というもの。これは「目的に向かって忍耐強く行動を出来たか」「感情のコントロール」「社会性」といった、テストの点数のような数字で表せない能力のことを言う。詳しくないので(2度目)、断定めいたことは言えないのだけれど、この非認知能力と前頭前野の関係はかなり強力にあると思う。更に言うと、LSDとかADHDなどの発達障害と呼ばれるものも、前頭前野の働きが深く関わっていると思う。(特にADHDの人の特長として「自己理解」が弱いというのもあるらしい!)

よく、男は18歳になったら親元をでるんだと言う。「親との関係性だけに固執せずに、社会を個人の肌で感じ、自分の能力を発揮させることに注力する準備をしてくださいね」ということだと思う。それを短くまとめると親にいつまでも甘えてるんじゃないよ、とか実家暮らし!とかの簡単に他人を謗る言葉ができあがる。

僕の場合、前頭前野の発達に少々の遅さがあって、それゆえに親や兄弟は「手のかかる奴だ」となっていたと思う。恐らくなんだけど、スポーツも前頭前野を鍛えるにはうってつけ。スポーツは、思考と体を一致、フィールド全体を把握、他人と協調などの前頭前野を使うことばかり。あんまりしてきてない。上述のものに加えて、母子家庭、末っ子、親の趣向・形質など諸々の条件が複雑に絡み合って、今の僕が成り立っていると思うようになった。

 

3.おすすめは瞑想

それで、前頭前野を発達させるためにはどうしたら良いのか。スポーツも良いし、読書も良い。一番のおすすめは瞑想。僕ら悩みやすい人間は、思考はそもそもが「なぜ」とか「どうなるだろう」「どうしてこうだったんだろう」というものがほとんどで、疑問の占めるパーセンテージが多いと思う。なので、思考をする=疑問となるので、思考を始めてしまうと、ネガティブに世界が支配される。千葉雅也さんは「意味の無い無意味」で、全てのものが無限に意味を持っているので、無限に思考できる。だから行動をするのには、思考を一旦でも止めなければならない。と書いている。ネガティブな人間にとって思考を止めることは、社会で生きていく必須要件。それが出来ないと、誰とも会わずに栄養だけ点滴で送ってもらって、永遠に映画と読書を繰り返す人間になってしまう。その疑問発進の思考を止めるのが、瞑想であり、瞑想による前頭前野の発達であるように思っている。あらゆる情報が駆け巡っている世の中だから、反応せずにはいられないのが本当のところ。だからこそ、反応をしない、思考を介在させない訓練が、僕にとって生きやすさにつながりそう。

思考停止した人間になるな、現状に甘んじた人間になるなと自分に言い聞かせている。思考を止めずに、常に新しいものを生み出し続ける。そういう人間が素晴らしく、そうでない人間は駄目。そう絵本作家のあの人も、色々な会社をやっている社長さんがそう言っていたから。ただ、この年齢まで生きてきて「思考停止」すらできないのが僕なのか、という答えに至った。気が付いたから、思考停止も出来るようにしていく。大事なのは思考と思考停止のバランス。

生きているだけで

冬がやってくる。上田市はピカピカに晴れていて、さも冬なんてありもしないかのよう。当たり前なんだけど、春が来て夏が来て秋が来た後に冬が来る。春夏秋冬よね。四季が明確な日本に産まれて30年以上経ったけど、これまで季節を感じたことが無かった。どういうことかと言うと「何か寒くなくなったな」(春)「何か暑いなおい」(夏)「寒くなってきやがった」(秋)「まじくそ寒いじゃん」(冬)という具合に、その時の気温等は感じてはいるんだけど、一個前の季節を覚えていない。季節を感じるというのは、数か月前の気温や緑の色に思いを馳せること。Tシャツを着た自分を、ダッフルコートを羽織る自分を思い出す。その俯瞰が出来ずに、場当たり的な肌感覚だけで生きてきた。

 

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1.自分

哲学や心理学が好き。その大元にあるのが、自分を分かりたい。っていう思い。数年前までは、他人を理解したいって思っていたけど、どうやら他人を理解するには自分を理解する必要があるらしい。じゃあ自分を知るのってどうやるんだろう、ってグーグルで調べてもみた。とにかく沢山の映画や本を体に入れれば、変化するのかなとやってみた。一匹狼で気難しい店主がいるどら焼き屋さんを舞台にした映画を観ては、小さい店を出せばいいのかと本気で思う。児童虐待の映画では、恫喝された子供に自分を重ねてしまう。そんな風に一個の映画に対して、一個の自分が浮き出てくる。幾度となく自分を投影しては、見えない自分を見つけた気持ちになって、沢尻よろしくハイに。数時間後にはそうじゃないのかもしれないって疑い始めて、ダウンする。そんな毎日。

自分がいないって、何でだろうって一日8時間は考えた。きっと世界記録。自分って何なんだろう種目の日本代表になれる。

 

2.疑い

長野に来てから、何も考えないで喋ることを身に着けた。どうやらその方が上手くいく。最初は「何も考えていない自分」を演じる方に気を注いでしまったせいか「何も考えていないでしょ」と指摘された。よくやりがちなミス。なりたい姿そのものでなく、なりたい姿を演じている自分になってしまう。

とある知り合いとの話。その人は地元のサッカークラブが好きで、それが生きがい。生きがいであるのどうかを疑ったことが無いし、そもそも疑う理由が無い。自分がそれを好きだから、以上の理由を自分に対してする理由がどこにあるんだろうかという話。

他人を納得させるためには「郷土愛」とか「サッカーを如何にして愛しているか」を、論理的に説明する必要がある。ただ、それを説明する機会は全く無い。好きなものに対して、なぜそれが好きなのかと問う他人は、殆どの場合敵意を持っているだろう。

その知り合いが、子供が産まれるらしい。僕は聞く。「決して疑いとか非難とか否定でないんだけど、もしどうして子供を持つのって聞かれたら何て答える?」と。彼は「どうしてって、別にそういうものだと思っているから」と言う。そうだよねと言って、彼が生まれていない子供に対して愛情を注ごうとしているかの決意を聞いた。小さい子供を見ると「かわいい~!」となると。男性もホルモンバランスが変わるのかもしれない。

「ヤシマさんは、きっと疑ってしまうんだよね。例え宗教に入ったとしてもそれ自体を疑ってしまうからどうにも苦しくなるだと思う」と彼に言われた。全くもってその通りだと思う。

 

3.生きているだけで

世の中で数少ない、尊敬している人と話す機会があった。その方の家に数日泊まって、どれだけ迷惑をかけただろうかと、恐怖に近い感情を覚えながら家を後にした。そうすると、その人からメールが来た。「ヤシマさんが家に来たことは、客観的に見て僕と妻に迷惑を掛けていないわけではない」と。やはり、となって背筋にびりびりと怖気が走った。恐れながら下にスクロールすると「一方で、ヤシマさんの知的好奇心の旺盛さは、過去の悩んだ僕の時間を肯定した。人は皆生きているだけで罪人であり、功労者である」と綴られていた。肯定でも無く、否定でも無くただこの世の理を書いただけなのかもしれないけれど、その言葉が僕にとっては響いた。

生きているだけで人は二酸化炭素を排出して、南極の氷を溶かす手伝いをしているらしい。中学生の時にビデオで見た。その一方で自分の存在が、意図しないところで誰かに感謝される。飛行機に乗って氷にドライヤーを当てに行ったんでもなければ、感謝されようと思ったのでもない。ただそうしたいからそうしただけ。お得感がすごい。