僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

シカと麓の当たり前

富士山を見に行った。一番は何でも偉い、富士山はすごい。河口湖のあたりの車のナンバーは「富士山●●●」。おばあさんが乗ってるピンクのデイズもそのナンバーだと何だか誇らしげ。写真を撮って、自撮りもしていたら大分歳が離れていそうな夫婦に写真を撮ってと言われた。もちろん。と答える。もちろんって答えるのが好き。off course よりwhy not が好き。「当たり前だろ人に優しくするのは、むしろ優しくさせてくれてありがとうな」って心の中にいるコロラドのおじさんが言って喜んでる。僕も嬉しい。曇りなき充足感。

夜に車を運転する。レンタカー御誂え向きの銀色軽自動車。カーナビもETCもなし。ドリンクホルダーは後付けされたエアコンのせいで丸部分の2割しか使えない。実質ゼロ。携帯でナビを聴きながらひた走る。時々、急に「右方向です」と言われて焦る。後ろからも車、スピードはそこそこ、辺りは真っ暗。贅沢に付けたエアコンは暑い。体の汗腺が開く。汗腺になのか感情になのかに呼応し、フロントガラスが曇る。見えない。あぁやばい。おじさんは知っている。最終奥義ハザードランプの存在を。何とかやり過ごす。

途中立ち寄った温泉の休憩室で、おやきくんそっくりのおじさんがテレビを前にくねくね踊っていたり、陰毛を完全に除去した僕の股間を凝視されたりしたけど、まぁ何となく過ごした。

夜、山道を走っていると遠くに白い影がいくつか見えた。お揃いのパーカーを着た外国人親子かな。こっちをみている。近づく。違う。シカだ。お揃いのウェアと親子だってことは当たっていたけど、シカだ。

これぶつかったら10:0だよな。厳しい。と思って、ふと止まる。ジュウゼロは、責任や瑕疵の大きさを表すもので、そもそもが有る、を前提にしている。シカはそもそも無い。車壊しちゃったから草でもどうぞなんてシカは言わない。だからジュウだ。それが当たり前で議論の余地が無い。

河口湖あたりについた時、僕は「うわあああすげえええ」とひとしきり叫んでいた。街を行く人は、なんて恵まれているんだろう。富士山の街に生まれた誇りを、気高さをもっと見せてくれ。富士山の麓にいるんだ君たちは!!そう思ってふがふがしてた。

富士山を見て、写真を撮ってインスタにもFacebookにも写真をアップした。いいねもついたし、コメントも来て返信もした。

帰り道、行きに下ってきた坂道を登る。後ろに日本最高峰がある。登る途中でも、登り終えてからも、首は捻らなかった。

自分勝手の普遍性

周りが気になるよな自分。自分勝手なのに。といつも思う。誰だって勝手に酸素を吸って二酸化炭素を出して、お肉を食べてうんこを流す。誰しも自分勝手の化身。敬愛する人の言葉を借りると、誰しも罪人であり、貢献者である。

どこか企業が、成人男性の生活全てのデータを取る代わりに、生活保護時位の給与を出すという。何もしてない、けどデータは差し出している。お金が発生する。何もしないけど、ただそこにいる価値。レンタル何もしない人もそう。世の中世知辛い一方で、寛容。

もし世界の基本線が人は貴賎無く、等しく尊いんだとしたら、価値を提供してない(と思われる)人であっても等価値で、その価値、人に与える影響は必ずあってそれを認め合うのが大事。もう、●●しないと認めないって言うの無しにしない?違う存在を認めた方が良くない?

じゃあ自分勝手じゃない人って利他的な人のことなのだろうか。24時間走ろうが、カンボジアに学校を建てようが、街頭で募金を募ろうが、利他的じゃなくて利己的だと考えている。大学生の時、インドのホームレスの体を洗うボランティアをしたと語る人がいた。話のインパクトと正比例して、彼の顔は全く光を帯びていない。セリフだ。ただシューカツのためにやったんだ。彼がその体験談で望む会社に入れたかは分からない。ただあからさまに利他っぽいことも、喜ぶ顔が見たいんです、っていう利己的な目的がある。行為は利他を含まない。それを●●は美しい、金稼ぎは汚いとか言っちゃう方が下賤下賤。行為は必ずどっかで繋がってるから大丈夫。みんなにとって分かりやすくて、みんなにとって心地が良いものが美しいんじゃないよ。

「コロナの影響で経営が苦しい。痛みを分かち合いたい」と給料カット。ええええええ契約守らずに分かち合うって言うの??元々下がった給与が更に下がった僕らの痛みはどこにいくの??自分でペロペロすんの??

同じところの別の人の話「コロナの(以下同文)以降の給与は支払わない」えええええ契約書交わした意味あるの??サイン書いて「これはお互いに一通ずつ持っておこう」って言ってたのなんだったの??誠意云々なんて言わないけど、履行しようぜ契約を。

それでもlife is beautifulで、きっと世の中うまくいくし、契約破棄の人を恨んではいない。彼なりの理由があってそれをうまく説明できなくて、ええーーいってやったのだろう。知らんけど。辛いと保身に走っちゃうよね。

 

タピオカで学んだ違いについて

タピオカミルクティーを飲んだ。犬のマークが入ったかわいいお店。ファンデーションを濃い目にキメたマスク姿の女性が黒糖ミルクティーのLサイズを渡してくれる。「袋はつけますか」と聞かれて一瞬逡巡した。「何のための袋なのか」「これはタピオカを飲むときに必要なものなのか」それらの回答を出そうとして頭がフリーズしたところ、先ほどよりも強くて速い語調で「袋つけますか」の強打。その間僅か3秒足らず。さながらワンツー。「要らないです」と言っておたおた店を離れる。待てよ、なんだタピオカの店ってそんな立ち食いソバみたいなスピード感とレスポンス要求されるのか。カップルが、え~どうしよう~って泣く泣くひとつを選んで、インスタ写真撮ろうよ~ってくねくねする場所だ。そんな奴等にレスポンスで負けていようはずがない。おじさんだからか、僕がおじさんだからか。そうだろうな。

よく考えると、僕と彼女にある隔たりは「袋はタピを持って帰るために使うもの」という認識。まじで分らんかったよ。ごめんな。

知り合いのおじさんと一緒にお風呂に入った時、直前にニュースでやっていたコロナウィルスで日本人が揶揄されている話題から、人種差別の話になった。黒人が悪いじゃなくて、黒人の中には悪い奴もいる。日本人であってもそれは同じ。もしかすると教育レベルの差によって確率は変わかるかもしれないよね、そんなこと。全くの安全地帯から俯瞰すると素敵に正しい、誰も傷つかない言葉がぺらぺらと出てくる。I am justice。ただ、それは浴槽に浸かってふやけた僕が捻りだしたもので、実際の場面を想起していない。札幌にある狸小路で、黒人にぼったくられた高校の同級生は今でも黒人が嫌いかもしれない。まぁその同級生も何故だか分からないけど黒人並みに黒かった。僕の人生の七不思議のひとつ。

女性と男性の違いもきっと沢山ある。理論的か感情的かなんて言い尽くされている。けど、僕だって女性の違いを認められない部分がある。人種差別への意見と女性への意見が全く違う自分が悲しい。だから、少しでも違いを認め合えた証に、今度タピオカを飲む時には「袋はいらないですよ」と、ジェントルマンのように言おう。

無に惹かれるか

Tシャツの下に黒いタイツを着てみる。ラッパーっぽい。おいそれとNORTHFACEの黒いニット帽を浅めに被る。ロゴは正面じゃなくこめかみあたりにしておく。31歳にして初めてのストリートファッション。ダボダボのジーンズは持っていないので普通のを履く。おお、若い。シャツにニットなんてスタイルが僕にとって普通だから、〇〇っぽいがつくと小恥ずかしい。だけど属性が自分に着くと安心するのも事実で、本当に若い人からすると若作り、僕よりもおじさんからするとラッパー。っていう属性を携えて街に繰り出してみた。

世の中は、僕のような取って付けたようなラッパースタイルじゃない、本格派のパリピが動かしていると思う。アイフォンのアプリを使って集まり、音楽がガンガン鳴るホールで一緒にテキーラを飲んで、くっ付いたり離れたりする。お金も物も人も全部動く。彼らは家でお湯を飲んで過ごさない。そんな属性の人達の周りには「有」が溢れている。携帯電話もショットグラスもDJも、着飾った女性も全部「有る」もの。やらない善よりもやる偽善っていう言葉みたいに、彼らは行動することにあるいは楽しむことに傾注して生きている。僕はそんな「有」の溢れる環境を想像して、有限だからこそ楽しんでいる。終わりが来るからこそ楽しむ。そしてそれが今を生きるってことなのかなって思う。

ただ、「無」に惹かれる節もある。心は空っぽの方が夢詰め込めるの歌詞のように、心は無の状態だと平穏に包まれる。断捨離やミニマリストが流行っていて、物に執着するのをやめたい、無に近づきたいって思想は市民権を得ている。これは憶測なのだけれど、日本人は「無」に惹かれやすい。足るを知る、無我の境地。日本人の慎ましさと、奥底に秘められた「有」に対する欲望が反対に「無」へと誘いこむのでないか。ここからは更なる私見の極みなんだけど、「無」に対する興味や欲望はすなわち「死」に対するそれと同様だと思っている。物が有るのも、テキーラサンライズを飲めるのも命があってこそ。死んじゃうと飲めない。大学院生の頃、Eaglesに嵌っていてバーでテキーラサンライズばかりを頼んでいた。そして、気になっている女性に「Eaglesの曲にもあるんだよ」なんてうんちくのようなダサい知識を披露していた。

「有」が命によって担保されているのであれば、「無」はその逆。「死」であると。よく、自殺志願の人が急に大切していたものを捨て始めると言う。「無」への希求や関心は、「死」への接近だと思う。だからって、今だけを生きて、後は野となれ山となれと言いたいんじゃない。どちらへの興味もあって然るべきで、その揺らぎこそが生きていることなんじゃないか、と思う。

 

こだわりと線引き

ジョンレノンが「想像してごらん世界がひとつだったなら」とBluetoothイヤホン内で囁いている。国とか思想のこだわりで線を引くのはしんどい。世界はもっとおちゃらけてていい。僕の功績だって誰かに蹴っ飛ばされて良い。本当に素晴らしい功績があれば、違うのかも。いやよく考えたら無かったわ。「ノーベル賞が何の役に立つんだよ!!」って貶された科学者は多分え?そうなの?って純粋に驚く。

そう、おじさんが素直な顔する時って面白い。おじさんは、生きる中で最適化された役割を見出して、状況に応じてその仮面を使い分ける。と思う。上司と会話する時の顔、家族等々。その仮面の間隙を突いた時に可愛いらしい顔が見える。その顔が見たくて突然殴りかかったらどうなるんだろう。と考える。

知り合いの47歳の男性はいつもキラキラした目をしている。1人で歩いている時は3割増し。お腹は突き出てしっかりハゲている。背中もお腹も毛むくじゃら。けど可愛い。10個ほどある同じパンツと肌着のセットにはカタカナで記名。リュックも帽子もコートも全部青色。洗顔は名前が書いてある方を表面にして。拭いて拭いて、ジャブジャブジャブと3回。2セット。

直接関係ないかもしれないけど、もらった色紙は捨てる。嬉しくないわけじゃない。もう既にあなたとの思い出は僕の中で宝物になっていて、色紙にペンを使ってわざわざ書く必要が無いだけ。覚えている。

仮面とキラキラ。そんで線引き。その人のこだわりと、こだわり方があるだけで大した差じゃ無い。

とある高校生。リフトから誰かが落ちたと叫び、スキーを外して助けに向かう。きっと彼らにできることは無い。それが事実。けど、命大事。それが根本にあったのよね。ゲレンデの真ん中にスキーを放りだすのは褒められたやり方じゃない。他の人に咎められて怒り心頭の彼らは、僕の胸ぐらも掴む。僕もやり方は下手くそだと思う。けど気持ちは分かったよって言う。伝わらない。興奮してるから。

想像する。ジョンレノンが望んだ線引きの無い世界。みんなが手を繋いででいるんじゃなくて、胸がぎゅっと締まるような息が出来なくなるようなコミュニケーションは、無くなっている。想像の中だけでもそうあってほしい。

ピエロにラップキス

訛りを極力避けて生きてきた。だべ、しゃっこい、鍵かった?はご法度。そう僕は北海道出身。東京に憧れる母に育てられ、その母は北見市を恥ずかしがる祖母に育てられたから当たり前かもしれない。都会なのか田舎なのかなんて、めっちゃ誤差。知り合いの60台男性は、日本で雨が一番降る山間の集落に生まれ、山猿みたい(自分で言ってた)な生活をマジでしていたらしい。物を買うときは帳簿。大学はおろか高校も出ていない。40年以上同じ仕事を立派に勤め上げ、今は趣味のスポーツと飲酒で指先をプルプルさせながら生きている。この間は尿道に管を差したまま飲み会に現れた時は驚いた。すごい。優しくて大好きなおじさんは、妻子がいない。めっちゃ優しい、ゆえのシャイ。シャイゆえの非モテ非モテゆえの孤独。孤独ゆえの優しさ。優しさは寂しさと裏表で、ヒリヒリする。ジェイソンステイサムがバイクを盗難しながらも追っ手から逃げるくらい。優しさを有り難く頂きながらも、裏側を心配して、でもそれを悟られないようにする。お互いのために。何もラップ越しにキスしたから、このおじさんを気にしているんじゃない。飲み会のノリにおじさんが乗った。僕とならお互いギリアルコールパワーを借りて、いける!そう判断したんだと思う。長年の喫煙で唇の色は悪くなって、白髪で坊主頭の額は驚くほど狭い。優しいのに顔めっちゃ怖い。でも、なんか心が通じ合えた。と思う。魔法のラップキス。

恋らしきものをしたのかもしれない。これが恋なのか、性欲なのかは分からない。ただ言えるのは恋と依存は近くて、アドレナリンとドーパミンがドバドバ。躁鬱。31歳になっても返事が来ないかな、送ったらまずいかなってドキドキする。おじさんから学んだんだ。シャイは孤独を生むって。

ラップキスと同じ日、台湾人が気になる女の子を呼び出し、周りを固める日本人。リンチさながら。けど皆好意という名目があるからニコニコ。囃し立てる。リンチ終了後、彼は僕に「our relationship is over 」と言った。あ、彼女との間ね。ホワイジャパニーズピーポー。こういうのは時間を掛けるべきだと、周知のものにしてはならないと憤る。勇敢な彼はプロポーズの振をしたりお金を持ってるか確認したり、一通りピエロをやった。偉い。その後ですんごい怒ってた。ただ、彼には別のターゲットがいる。ピエロはその余裕ゆえかもしれない。孤独じゃない、は心を満たしてくれて、満ちた心は許しを生む。そんなことを学んだ。

日本が嫌いと言わないようにしたい

コロナウィルス。まじファック。中国インバウンドを狙ったボスと、ボスのことが大好きな同僚の機嫌を損ねさせて、雰囲気が悪い。悪かった。

ある朝、イヤホンで音楽を聴いていたら「挨拶くらいしたら」とウーハーボイスで言われた。怒ってた。

うん、挨拶はした方が良い。人が人を認識した合図であり、発声練習であり、自分と相手の調子を測れるバロメータだもんね。

挨拶のための挨拶はルールフォールールで、空気に徒手空拳を喰らわせる位には無用。だと思う。いや待てよ。どんな時であっても彼女の世界で挨拶は、必要なのかもしれない。トイレットペーパーくらい。例え地震発生中でも「(グラグラ)おはよ(グラグラ)うございます(グラグラ)」とする程に重きを置いていたなら仕方のない話。僕が悪かった。

 

「日本人なんだから日本人らしくしてほしい。」と言われた。

日本人らしい振る舞いとは、何か簡潔に説明せよ(30点)の設問。基本的には暗黙知を十全に機能させる。行動の前後には逐一報連相をし、もしその際、年齢や役職等が上位だと思われる人が嫌な顔をしたら、その件に関しては今後せずとも良い。またその要不要の基準は日によって機嫌によって変わるため、必ず年齢や役職が下位の者が、その方法を含めて試行錯誤すべし。と答える。難しいね。疲れちゃうね。おじさんはね子供おじさんだから、複雑なことわかんない。

挨拶も、日本人らしく、も文化と言ってしまえば無罪放免。世界のほとんど全ての事象は文化にさえなれば議論の対象にならない。挨拶をする文化、年上をたてる文化。慣習としてやってきたから、そこに議論や改善の余地は無い。って思想。じゃあ文化vs文化はどうなるんだろう。日本文化vs中国文化。道端に唾を吐くか吐かない対決。結果は圧倒的なサポーターの声援など地の利を活かしたホームチーム日本文化の勝利。となるんだろうか。僕はならないと思う。文化は文化。人は人。みんな丸い地球に住んでる人でかつ違う人のだから違う生き物。

一方で、侵してはならない領域がある。尊厳の部分。「●●(中国人の蔑称)と⚪︎⚪︎(白人の蔑称)がくっ付くとロクな事がないんだよなぁ〜」は僕の感覚ではアウト。人種差別は、脊髄反射でダメ。人の変われない部分を歴史的な問題で型に当て込んで、あれこれ言うのはナンセンスの極み。気にくわない中国人も白人も沢山いると思うけど、それを人種で括るのがダメ。

日本人らしく殊勝にしないあいつ(僕)はダメ、話しかけないでおこうぜ、何なら仕事辞めさせようぜ、は文化vs僕。文化で、個人の尊厳をぶった切る。多勢に無勢。10年位前の洋画で1万vs11人みたいな映画があった気がする。見てないけど。そんな使い方。

だけど、日本が嫌いとは言わない。勝手な括り方だから。人種差別に近くなっちゃうから。だからコロナが悪い。と言う。悪者になってもらってすまん。コロナ。