僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

悩み愛好

宇多田ヒカルのライブ映像がYouTubeにアップロードされている。むっちりした体に、横を刈り上げた髪型。「会場は見づらいかもしれないけど、こっちからはちゃんと見えているよ」と言う。一瞬の静寂の後のプリズナーオブラブ。最高にエモーショナブル。なんで惹かれるんだろう、と考えてみる。きっと感情の波がその原因。と考えに至る。

高齢者になると、他力本願になる。自転車で走っていると「僕が見てなかったらこのお爺さん死ぬな」と思うタイミングで飛び出してくる。他人を信じているからなんのか、自分を信じているからなのか、それとも信じる信じないのラインから逸脱した何かなのかは分からない。ちょっと話が飛ぶんだけど、生まれる前と死後って不可侵なのに絶対的。だから、それらの詳細がよく分からない僕らにとってのそれは、触れられない黒々とした一本の揺るぎの無い直線みたいだと思う。見上げられるけど、触れられない存在。高齢者は言わずもがな、死に近い存在。直線に向かって歩みを止められないから、日々着々と直線へと形を変えていっている。直線は絶対で、触れられなくて、変えられない。それに近い存在の飛び出すお爺さん。

何で苦しみに惹かれるのだろう、ってずっと考えていた。悩んでいる人がいたら、助けたくなるし、自分が悩んでいる時はストレスだし、変なホルモンが出てきっと寿命は縮んでいる。それでも悩んだり、苦しむのが好きなのは、生への畏敬の念だと思う。

お爺さんの例で、死は固定的で変われないことだって書いた。もし、死と生が逆の概念だとしたら、生は変動的で変わり続けること。揺れ動くことは、ほぼ例外なくストレスが伴う。よくビジネス書でコンフォートゾーンから脱却せよみたいなのあるでしょ。それに近い。あれは死ぬな、生き続けろって鼓舞だと思っている。

ジョジョの作者荒木飛呂彦さんは、ジョジョで生命賛歌を描きたいと言っていた。それに近いと思う。波への執着は生への好奇で、それは即ち生命への畏敬。

僕はずっと自分を生命を忌み嫌っていると思っていた。だから悩むのが好きだし、苦しむのも好きなんだと。多分それは逆で、命が好きで、生きることが好きで、それらへの絶対的な信頼感が、むしろ悩み愛好家を生むと思う。だから、悩みの中にいることは、生きていることそのものだし、生きていることへの信頼だよ。

引きこもりについて考えてみる①

コロナで皆ひきこもっているらしい。

これを機に皆さまが家に居る良さを知って、会社に行くなんて馬鹿らしよね、そもそも何で働いているんだっけ、ってなって自分の好きなことにもっともっと傾いていってほしい。人が生まれた意味なんてのは、タンポポが綿毛を飛ばして、子孫を繁栄させていることに疑問を持つことと同様で、ナンセンス。もういること、あなたが今いる目の前のことに目を向けた方が、合理的。

ただ、それが出来ないからこそ家を出られない、そしてそれが辛いって人もいると思う。それを見ている家族も同様に辛い。コロナに乗じて、僕のひきこもりに対する考え方を書いてみようと思う。今日はその一回目。僕の経験とその時考えていたことを書く。

 

1.「引きこもり」の定義

専門家でも何でもない僕が引きこもりを定義するのは難しい。単なる無職だって家にずっといたらひきこもりなのか、とか、社会との接点を持てなくなることがそれなのか。

引きこもりとかそういう本を浴びる程読んだ時期もある。恐らく「ひきこもり」「教育」「心理」「脳科学」のジャンルだけで100冊は読んだ。当事者が定義に合致するか、というよりも家族や本人の気持ちの方。今の状況にストレスを感じていて、どうやらそれがたまたま「ひきこもり」という現象に近いのでは、だから脱出するヒントを先に経験している人から学ぶ。それが大事。

定義についてただ言えるのは、家族を含む社会との接点を持とうと、本人が思えなくなった時にひきこもりが完成すると思う。ひきこもった人は、どうにかしたいけど、どうにもできない、時間が過ぎていく、時間が過ぎていくからもっと焦る、のループ。時間が過ぎれば過ぎるほど焦りは加速度的に増していって、自分の力ではどうにもできないと、諦める。要は絶望するのよ、人生に。自分の命に、自分の置かれている環境に、自分以外の全ての人が羨ましくて、自分が世界で一番に不幸だって感じ続ける。それは言うまでもなく、苦しい。ちょっと脱線するかもだけど、世の中で苦しんでいる人がいると、自分の幸せもめぐり巡ってちょっと損なわれる。だから、僕の出来ることで苦しんでいる人の助けになったら、僕の幸せにちょっとつながる。そう信じている。

 

2.ひきこもった時期

 

僕が引きこもった時期は、明確にお伝えができない。先に書いたようにどこからがそれ、と提示するのが非常に難しいから。今でも時々は「自分でひきこもりだったのかな」とも思うし、今でも「あれ、僕まだひきこもりじゃね」って思うこともある。

まぁ僕の体感は置いておいて、数字で示してみる。

 

2018年 3月 〇〇株式会社退職

 

2019年 11月 〇〇りんご農園アルバイト開始

 

履歴書から引っ張ってきた。この二つの空白が僕の期間。最長で考えると20か月。1年と8か月。29歳8か月から、31歳4か月。

長いような、短いような。世のなかには、15年以上ひきこもっているって人もいるらしく、辛さにむしろ慣れてくる瞬間もある。引きこもっている人が楽しやがって、と見える時もあるのは確かで。ただ、一方で見えないところで頭を掻きむしって、枕に頭を打ち付けて悶えている瞬間が必ずある。だから、楽しやがってと見ないで欲しい。ちゃんと苦しんでいるからこそ、楽に見える瞬間がある。「苦しむ→ちょっと楽」が順番で来て、あんなに苦しんだから今ちょっと楽に感じるのは、ある意味ご褒美タイムだと思っていて、この「楽」を感じ切ろうと思っていた。その時には「ちょっと楽」を利用して、次のステップに移行するのはむしろ考えられなかった。だって、動こうとすると失敗するかもしれないし、自信も無いし、恥ずかしい。

 

3.何を考えているか

ひきこもりの人って、何を考えているんだろうって、永遠の課題。それが出来れば、こんな状態になっていない。ただ、何も考えていない、という批判はすごくすごくナンセンスだと思う。いや、そう謗りたくなるのも分かるんだけど、冷静に考えるとそんな訳ない。自分のことを考える時間はたっぷりある。人は何かに没頭していると、自分に対して考えが及ばない。ひきこもりの人は、その「何か」が「自分のことを考える」となっていて、自分のことを(主に批判的に)考察することに没頭している状態。

僕の例で言うと、「あ~この状況なんとかしなきゃ」「じゃあ何する」「アルバイトでも始めるか」「車も無ければ技術も無い」「それでも大丈夫なんじゃない?」「きっと駄目だ、だって〇〇〇~(過去の失敗)があったから~」のループ。一個も前に進まない。

 

4.家族についてどう考えているか

これも大事な論点だと思う。家族からすると、何でこうなっちゃったんだろう。どうしたらいいの。とぐるぐるし始める。僕は、ひきこもっていた当時妻がいた。長野県で妻と2人暮らし。妻が自営業で働いて、僕はずっとベッドにいて帰りを待つ。寂しくて、無力で、情けなくて、妻に合わせる顔なんて無いんだけど、会いたい。そして、接点を持てる可能性があるのが妻だけだから、感情の全てを妻に対してぶつけてしまう。僕が信じている自立は、「複数の依存先がある」状態を自立と言う話。日本の「普通」は普通に良い大学を出て、普通に働いて、普通に結婚して、普通に家を建てて~、ってなっていると思う。全く正反対の僕でもそう思うんだから、きっとそういう風に言語化せずとも、行動でやれている人はもう体に染みついている「普通」。批判の意志は全く無いのだけど、その「普通」と引きこもっている人の乖離はもの凄い。冷静に考えると、高学歴高収入で絶え間なく働き、家族を養っていけている人はどれだけいるんだろうか。「普通」は幸せの一つの形で、皆がそれに向かう必要は無いと思っている。

脱線した。どう家族にどう思っているか、だ。一言で言うと、心の底から大事に思っている。それは間違いない。僕はケンカもしたし、ぶっ殺してやりたいとも思ったけれど、大事じゃなきゃそう思わない。「この人なら唯一の依存先になってくれる」と思っているから、頼る。どうしようも無い自分が頼れる唯一の人、大事じゃない訳ない。

 

人生の目的は反逆にしかなりえない

東京に来ている。新幹線を使って、地下鉄に乗って新宿御苑にいる。7日間で8400円のホテル。友達と3人でいくらになるのか。ちなみに朝ごはんまでついている。

 東京は上田市よりもコロナがやばい。地下鉄に乗ったら、向かいに座ったサラリーマンが座る前に窓を開け、マスクをしていなかった僕を見て席を移動した。(ちなみに車内はガラガラ)閉塞感、とはこのことかと思う。テレビを見るとコロナコロナコロナ。Twitterを開いてもらコロナコロナと政権批判。うーん、ちょっとうんざり。

刃牙のアニメを見ている。格闘技好きとしては興味深いのだけど、一緒に見ている外国人は「oh、fuck」と再三呟く。なんでか、ちょっと変だからだ。何で変か。きっと作者の異常性だと思う。言葉にするには作者を知らなすぎるし、それを語るには余りにも含蓄がありすぎる。けど、敢えてするなら「意外性のある、でも馴染みのある面白さ」。キモさ、と言っても良い。公園でストレッチする謎の老人。ファミリーレストランに現れるボロボロな格好でドリンクバーを摂取する若者。電気が殆どついていない、年金込みの経営をしている喫茶店。これらって面白い。他人と違いすぎるのってファニー。元々人は違う個体として生まれ、人として生きるためのルールを学び近接していく。そして大人になるにつれ、特に変な人は徐々に変な人として分岐していき一般人と一線を画し、皆死へと収束していく。時間を横軸にし、縦軸を個性とするとしたらいびつで大きな山型を描くのが、人生だと思っている。個性のふり幅はすなわち個性の発揮で、個性の発揮はキモさであり、それは魅力だと思う。ファミリーレストランに長居する人は、一般の価値尺度から判断するとキモい。だけど、魅力がある。

常人とかけ離れている一方で、誰しもがある個性という観点からは誰しもと親和性がある。分かるけどできない。できないけど何となくわかる。だから魅力。キモさは魅力。

 

それで、更に発展させると、キモさは自由だと思う。抑圧の無い、心情の発揮が自由だから。キモさは魅力であり、自由さ。キモさ=魅力=自由。だからキモさは自由で、自由もキモさ。

だから、敢えてきもくなる必要は無いんだけれど、自分の中にある人と違う部分は、明らかに人生の目的と近くに存在している。分かるか、この理論。

元々個性があって、他人とは違う存在。ゆえに(発揮させればの話だけど)違いは時間と共に大きく振れていって、どんどん加速度的に変わる。その一定ラインを越えた時、多くの人が理解は出来ないけど、なんとなくそうありたい、自由でありたいっていうのが魅力の正体。

付言すると「多くの人と同じである」が個性の人もどうやらいるっぽい。わからんけど。

そこから、もう一個考えた。自由ってなんだ。と。子供のころから自由になりたい、そのためにはお金が必要、そのためには起業とかそういう道しかない、と思っていた。

その人生の目的の根幹にある、自由ってなんなんだろう。あ、いた、エーリッヒフロムだ。自由からの逃走だ。彼の言いたいこととは違うかもしれないけど、自由は拘束の無いこと、すなわち肉体あっての精神の自由。牢獄あっての囚人の自由。〇〇じゃない何か、だ。フロムは主体的な自由が云々と言っているけど、自由は〇〇から自由になるという形でしか存在し得ないと思う。もしかしたら、それが生からの脱出という意味なのか、貨幣経済からの出立することなのかもしれない。でも、僕にはそれがフロムが批判的に言う主体無き自由が、本来の自由なのかなと思う。なぜかって、人はだれ一人本人の意思で生まれてこられない。だから、他人の意志の拘束をそもそも受けて命を始める。だからこそ、〇〇からの、という主体無きものとの闘争を辞められない。何が言いたいかって、自由は反逆行為である、ということ。生への疑問をフィルターで濾して濾して、残ったものをよく覗いてみると、望んでいるのは自由である。。そしてその自由は、反逆行為だ。生への反逆だし、社会への反発。決して闘争せよと言いたいのではない、自由であれと。人生は自由を求める自分と、それに抗する社会とか常識とかとの死というゴールに必ず辿り着くまでの道程だ。

 

他人の快適は自分の不快で、その逆もありけり。

昨日、台湾人に言われた。「自分の言葉を違う言葉で言い換えられるのは、ある程度以上、脳を使える人じゃないとできない。だって〇〇さんは僕にスノーボードを教える時も、会話もずっとヤシマさんの翻訳が必要だったでしょ。思い出してみて、▲▲さんは日本語しか使わないけどヤシマさん無しでも会話になってたでしょ。」

驚いた。気が付かなかった。確かに、ルールが大好きな知り合いの女性は、外国人が困った顔をしていても、日本語で同じ言葉を繰り返していた。方法を変えるって難しい。窮地に追い込まれれば追い込まれるほど、体に馴染んでいる方法を採用する。思い起こすのはフットサル。大抵の人は出てくる技に限りがある。足の裏でボールを転がして股を抜く、足の外側で横にボールを出すカットイン。至極当然なんだけど、技は状況に応じて使わないとその効果は充分に発揮されない。でも、相手に寄せられて困って、頭が混乱したとき出てくるのは、それら。脳がストレスの反応とその処理で固まっているから、状況に応じた適切な判断ができない。

だからいつものやつ。父親が、毎朝行くコーヒー屋さんも、母親が上京の度に行くホテルも、理由はコスパじゃない。行ったことがあるからだ。自らを快適にするために、人は動く。品川を最初に訪れた時の母は不快だったろう。山手線に乗ってみて、エレベーターに乗って、寝てみて快適さを獲得したんだと思う。カットインも、喫茶店も、ホテルも外側から見たら、変かもしれない。ただ、その人の快適さがある。それは忘れてはならない。

インドネシアの屋台で働くおばさん達は物理的に手の届く範囲でしか、生きていなかった。僕の言った注文をまばたきするみたいに瞬時に受け取って、息を吸うみたいに袋に食べ物を入れて、息を吐くみたいに僕に放って寄越した。それが済むと一秒も待たずにまた汚い店でアイフォンをいじり始めた。「何でこの人はもっと稼ごうとしないんだろう」「なんでこんな対応なんだろう」。僕の正常からすると、醜い程に無知で、悍ましい程に馴染んでいる。ちょうど子供が部屋を散らかしながら遊んでいるみたい。当人は楽しくともそれを見た自分には不快感を伴う。

知り合いのおじさんに言われた。「ヤシマさんは他人のことみんな馬鹿だと思っているでしょ」。ショックだった。快適さの中にいる人を、不快な奴だ、愚かだ思っていて、しかもそれが伝わっている。「他人の快適は自分の不快」現象は確かにある。

ずっと考えている。自分とは何なのか。自分につける固有名詞が欲しくなる。忙しい人、格好いい人。自分の中にある一貫したものを探そうとして、今日家を出るときにも「僕は家をでたい人なのか」と脳が勝手に処理。違う。エラーだ。幾星霜とまではいかないけど、30年以上で積み重ねた行動を細分化するとほぼ無限。今も携帯を充電しながらパソコンを打っている。人差し指が動かせる人ではある。タイピングができる人でもある。家を出たのはデータの一個で、確定値じゃない。家を出た日もあれば出ない日もある。データには必ず揺らぎがある。だからこそ観測をする。事実、僕は家を出たい人でもある一方で、家にいるのも大好きな人だ。人差し指を動かせる人も、タイピングが出来る人も沢山いる。才能を発揮して特殊なる個を発揮する。そんな自分が見たいんだろう。傲慢だ。ひとりの人間だから。自分はスペシャルワンだって信じて疑っていないから。自己認知は自己承認から始まってゆっくり回転する。その狭間に、自分と他人の違いっていう碍子があって、時々ストップする。要は他人を俯瞰して蔑むと、僕の動きは止まる。

 

どうやら僕は頭が良い。良くも悪くも。

 

シカと麓の当たり前

富士山を見に行った。一番は何でも偉い、富士山はすごい。河口湖のあたりの車のナンバーは「富士山●●●」。おばあさんが乗ってるピンクのデイズもそのナンバーだと何だか誇らしげ。写真を撮って、自撮りもしていたら大分歳が離れていそうな夫婦に写真を撮ってと言われた。もちろん。と答える。もちろんって答えるのが好き。off course よりwhy not が好き。「当たり前だろ人に優しくするのは、むしろ優しくさせてくれてありがとうな」って心の中にいるコロラドのおじさんが言って喜んでる。僕も嬉しい。曇りなき充足感。

夜に車を運転する。レンタカー御誂え向きの銀色軽自動車。カーナビもETCもなし。ドリンクホルダーは後付けされたエアコンのせいで丸部分の2割しか使えない。実質ゼロ。携帯でナビを聴きながらひた走る。時々、急に「右方向です」と言われて焦る。後ろからも車、スピードはそこそこ、辺りは真っ暗。贅沢に付けたエアコンは暑い。体の汗腺が開く。汗腺になのか感情になのかに呼応し、フロントガラスが曇る。見えない。あぁやばい。おじさんは知っている。最終奥義ハザードランプの存在を。何とかやり過ごす。

途中立ち寄った温泉の休憩室で、おやきくんそっくりのおじさんがテレビを前にくねくね踊っていたり、陰毛を完全に除去した僕の股間を凝視されたりしたけど、まぁ何となく過ごした。

夜、山道を走っていると遠くに白い影がいくつか見えた。お揃いのパーカーを着た外国人親子かな。こっちをみている。近づく。違う。シカだ。お揃いのウェアと親子だってことは当たっていたけど、シカだ。

これぶつかったら10:0だよな。厳しい。と思って、ふと止まる。ジュウゼロは、責任や瑕疵の大きさを表すもので、そもそもが有る、を前提にしている。シカはそもそも無い。車壊しちゃったから草でもどうぞなんてシカは言わない。だからジュウだ。それが当たり前で議論の余地が無い。

河口湖あたりについた時、僕は「うわあああすげえええ」とひとしきり叫んでいた。街を行く人は、なんて恵まれているんだろう。富士山の街に生まれた誇りを、気高さをもっと見せてくれ。富士山の麓にいるんだ君たちは!!そう思ってふがふがしてた。

富士山を見て、写真を撮ってインスタにもFacebookにも写真をアップした。いいねもついたし、コメントも来て返信もした。

帰り道、行きに下ってきた坂道を登る。後ろに日本最高峰がある。登る途中でも、登り終えてからも、首は捻らなかった。

自分勝手の普遍性

周りが気になるよな自分。自分勝手なのに。といつも思う。誰だって勝手に酸素を吸って二酸化炭素を出して、お肉を食べてうんこを流す。誰しも自分勝手の化身。敬愛する人の言葉を借りると、誰しも罪人であり、貢献者である。

どこか企業が、成人男性の生活全てのデータを取る代わりに、生活保護時位の給与を出すという。何もしてない、けどデータは差し出している。お金が発生する。何もしないけど、ただそこにいる価値。レンタル何もしない人もそう。世の中世知辛い一方で、寛容。

もし世界の基本線が人は貴賎無く、等しく尊いんだとしたら、価値を提供してない(と思われる)人であっても等価値で、その価値、人に与える影響は必ずあってそれを認め合うのが大事。もう、●●しないと認めないって言うの無しにしない?違う存在を認めた方が良くない?

じゃあ自分勝手じゃない人って利他的な人のことなのだろうか。24時間走ろうが、カンボジアに学校を建てようが、街頭で募金を募ろうが、利他的じゃなくて利己的だと考えている。大学生の時、インドのホームレスの体を洗うボランティアをしたと語る人がいた。話のインパクトと正比例して、彼の顔は全く光を帯びていない。セリフだ。ただシューカツのためにやったんだ。彼がその体験談で望む会社に入れたかは分からない。ただあからさまに利他っぽいことも、喜ぶ顔が見たいんです、っていう利己的な目的がある。行為は利他を含まない。それを●●は美しい、金稼ぎは汚いとか言っちゃう方が下賤下賤。行為は必ずどっかで繋がってるから大丈夫。みんなにとって分かりやすくて、みんなにとって心地が良いものが美しいんじゃないよ。

「コロナの影響で経営が苦しい。痛みを分かち合いたい」と給料カット。ええええええ契約守らずに分かち合うって言うの??元々下がった給与が更に下がった僕らの痛みはどこにいくの??自分でペロペロすんの??

同じところの別の人の話「コロナの(以下同文)以降の給与は支払わない」えええええ契約書交わした意味あるの??サイン書いて「これはお互いに一通ずつ持っておこう」って言ってたのなんだったの??誠意云々なんて言わないけど、履行しようぜ契約を。

それでもlife is beautifulで、きっと世の中うまくいくし、契約破棄の人を恨んではいない。彼なりの理由があってそれをうまく説明できなくて、ええーーいってやったのだろう。知らんけど。辛いと保身に走っちゃうよね。

 

タピオカで学んだ違いについて

タピオカミルクティーを飲んだ。犬のマークが入ったかわいいお店。ファンデーションを濃い目にキメたマスク姿の女性が黒糖ミルクティーのLサイズを渡してくれる。「袋はつけますか」と聞かれて一瞬逡巡した。「何のための袋なのか」「これはタピオカを飲むときに必要なものなのか」それらの回答を出そうとして頭がフリーズしたところ、先ほどよりも強くて速い語調で「袋つけますか」の強打。その間僅か3秒足らず。さながらワンツー。「要らないです」と言っておたおた店を離れる。待てよ、なんだタピオカの店ってそんな立ち食いソバみたいなスピード感とレスポンス要求されるのか。カップルが、え~どうしよう~って泣く泣くひとつを選んで、インスタ写真撮ろうよ~ってくねくねする場所だ。そんな奴等にレスポンスで負けていようはずがない。おじさんだからか、僕がおじさんだからか。そうだろうな。

よく考えると、僕と彼女にある隔たりは「袋はタピを持って帰るために使うもの」という認識。まじで分らんかったよ。ごめんな。

知り合いのおじさんと一緒にお風呂に入った時、直前にニュースでやっていたコロナウィルスで日本人が揶揄されている話題から、人種差別の話になった。黒人が悪いじゃなくて、黒人の中には悪い奴もいる。日本人であってもそれは同じ。もしかすると教育レベルの差によって確率は変わかるかもしれないよね、そんなこと。全くの安全地帯から俯瞰すると素敵に正しい、誰も傷つかない言葉がぺらぺらと出てくる。I am justice。ただ、それは浴槽に浸かってふやけた僕が捻りだしたもので、実際の場面を想起していない。札幌にある狸小路で、黒人にぼったくられた高校の同級生は今でも黒人が嫌いかもしれない。まぁその同級生も何故だか分からないけど黒人並みに黒かった。僕の人生の七不思議のひとつ。

女性と男性の違いもきっと沢山ある。理論的か感情的かなんて言い尽くされている。けど、僕だって女性の違いを認められない部分がある。人種差別への意見と女性への意見が全く違う自分が悲しい。だから、少しでも違いを認め合えた証に、今度タピオカを飲む時には「袋はいらないですよ」と、ジェントルマンのように言おう。