責任感=「ひとり」の認識
昨日のブログ『「親が憎い」は意味が無い』では、親に何で産んだ!って言ったところで、覆水盆に返らずでプランクトンに大声で叫ぶのと一緒だから、無意味だよってことを書いた。
今日もシリーズで書いていく。なので出来れば、前回までのエントリを読んでからがおすすめです。
この僕が対象としている人の言語化シリーズは、結構書くのがしんどい。答えがすごく遠い。回りくどく書いているから。でもその道程を経なくては何となく駄目な気がして、回り道回り道。お付き合い下さい。
現在地点を説明すると
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想定される人物像は?→子供っぽい人→親が憎いよね→憎むのは無意味(今ココ)
↓
ゴール:対象となる人物の言語化
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思いっきり横に逸れているけど、どうかお付き合いください。
ゴールに辿り着くには、膨大な僕の頭の中にある情報を整理して、答えを導き出していかなきゃならない。要は答えはまだわかっていない。
考えながら書いているから、時間がかかる。恐らく哲学者たちもそうやってるんじゃないかな。端的に書いたら2ページで終わるものを「近代ヨーロッパにおける自由への抑圧とは・・・・」みたいに書かない。説得力と言う名の文量。
1.前回のまとめ
前回は、親が憎いというのは自然な流れで、当たり前。でも過去の事実は変えられないから、憎しみを叫んだところで海に吠えるのと一緒で、あんまり意味が無い。ということを書いた。
今回は、じゃあその先をどう考えるか。要はA群からB群へなるためには、子供から大人になるにはどういう心持ちであれば良いのか考えてみる。
2.ひとりの自覚
A群とB群の違いは責任にあるよねって前の投稿で書いた。
産まれた理由が無い、勝手に産んだという親を恨むのは無意味だって気が付いたら、その先も次々に解けていくと思う。
要はA群の人は、自分の命に対して責任が持てない(なぜなら産まれたのは親のせいだから)。命に責任が持てないと何に対しても責任がとれない。人間関係とか仕事とか色々。
親を責めるのは無意味だとすると、命は自分の責任でしかない。そう、人間は1人で生きていて、生命活動は明らかに独立している。そう、僕もあなたもひとりで生きている。
僕が辛くて寝込んでいる時、「誰か助けてくれよ」って思っていた。
でも、気が付いた。助けるのって自分以外いないんだって思ったら、自分で立つしかない!って思えた。
「ひとりで生きているという自覚」がそのまま「責任」と言えるんじゃないだろうか。
3.ひとりの意味
ひとりで生きているというのは、独立や自立という意味であって誰にも助けを借りないサバイバルのことじゃない。でもサバイバルだって植物や動物の力を借りなきゃ生きられない。
僕だって誰だって独立した生命体である。それと同時に誰かの力や植物や動物の命をもらわないと生命を維持できない生命体。
生きていれば何かしらに迷惑はかけているし、それは何かとつながっている証。
だから、どう抗ったって何かと繋がってる。親ともコーラともパソコンとも全部何かの命を原材料にしてできたもので、循環してその中にいる。
だから、ひとりであってひとりじゃない。寂しくない。