意識高いって言わないで
昨日はブログを書いてTSUTAYAに行ってエスプレッソを飲み、元を取るかの如く本を読んでいた。
最近、意識が高いと揶揄されるのかもしれないと被害者意識がでてきている。エスプレッソを飲みながら、本を読んでふむふむとする。これ嘲笑の対象?心のなかのギャラリーが「意味とか主義とか理由とかwwww」って笑う。
意識高いこと自体を嘲笑うのって、結構やばくないか。頑張ってね!で良い気がするけど。
まぁそれはおいておいて、昨日読んだのは吉野源三郎さんの「君たちはどう生きるか」
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マンガ版のやつ。元々は岩波文庫で出ていたのかな。
僕が書いていることやこれから書こうとしていることが、形は違えど記してある。1982年著だから僕が生まれる6年前。大分先行されてるなと思った。
けど世の中には自己を鳥瞰するのが苦手な人は沢山いて、手引きはまだまだ必要。大好きな作品だけど吉野さんがコペル君に託した言葉は、まだ日本を変えていない。
僕の友人も変えていない。ってことは僕らの普通は昔の普通。こんなに昔の本が褒め弥そされるのは、内容が普遍的なのと同時に現代としても新しいからなんだろう。
こういう手引きには多くの種類がある。自己啓発やビジネスやスピリチュアルやらなんやら。全部に目を通した経験があるし、恐らくどれからも影響を受けている。
教示タイプの本には全部が同じことを伝えたくて書いているなと思っている。
最近、僕が書いているA群・B群、子供・大人の話。それを沢山の人が紆余曲折、縦横無尽に色々な角度から読み解いてみたり、登壇して教えようとしてみたり、そういうものだと思っている。
それは抽象的だから「どう生きるか」だし「大人とは」「社会との関わりかた」「自分とは」って玉虫色の変化。だから分かり辛いし、届かない。
答えなどどこにも無い、と平井堅が歌うように。
A群・B群、子供・大人論議であったり「自分とは」の問いは生きている限りついて回る。そしてそれには苦しみが伴う。
欧米人が聖書を読むように、ムスリムがラマダンで神に額づくように、僕は子供の頃から心の拠り所とその根拠が欲しかった。こんなに苦しんでいるのに、誰も教えてくれないのは理不尽。自分で学ばなきゃ身に付かないからって理由なのも分かっている。けど、僕はそれを消極的な放置だと感じる。
同じ苦しみを誰しもが続けているのは馬鹿らしい。
今の僕はその問いを言語化して、説明して、どうやって楽になるか示したい。
まさに空想から科学へ。だ。