僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

鴻上尚史さんにドキドキ

昨日は土曜日。いつものツタヤとタリーズのコンボで本を読んだ。最近、僕の中で流行っているのは鴻上尚史さん。

 

鴻上さんの書く本の内容も文章も好き。還暦を過ぎても初々しさを失わない言葉選びから、勝手に瑞々しい感性をお持ちなんだと想像している。

瑞々しいって表現が大好き。若さが好きなのと近い。ほとばしる生命力をどうコントロールするのかがまだ分からない、その未熟さが可愛くもあり美しくて儚くて好き。

逆に、乾いた心は嫌い。いつでも心はジュクジュク潤っていると決めつけているから、無味乾燥な表現をする人が好きになれない。人のグチャグチャした部分が見たい。

 

無駄とも思える、瑞々しさへのこだわりは何なんだろう。「赤ちゃんが好き」は、小さい生き物の可愛さと、純真さへの憧憬でしょ。近いけど、違う。

どこかで何人も子供たれって思ってる。つまらない大人になるなよって。

 

腹の中でくそがって思いながらする接客も、サラリーマン哀歌を歌うような人も嫌。

我慢が嫌いなんだと思う。我慢が出来ないし、している人を見るのも嫌なんだと思う。我慢するくらいなら苦しめよって思ってる。

 

「我慢」と「苦しみ」は違うんだ。今気が付いた。我慢は苦しみの後にくるもので、苦しみを忘れようとして出来ずにいる状態。

苦しんだのであれば、それを解決していけばいいじゃんって思っているから、我慢しつづけるのが嫌いなんだ。それと真逆の性格を持つ「瑞々しさ」が好きなのはそれが理由か。

 

 

 そんなこんなで、昨日は鴻上尚史さん「孤独と不安のレッスン」を読んだ。

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

 

 

印象深い点をいくつか。

友達100人できるかな」の歌は罪深いと書いてあった。無邪気な子供は大きな声で歌えるけど、大人になったら歌えない。僕は友達と呼べる人は3人くらいしかいないから、作曲者の意図は通じなかったんだろう。

この子供への圧力って何だろうって、料理をしながら考えていた。ニンニクの皮を剥いている時に、「大人が果たせなかった願望を、まっさらな子供に託しているんだ」って思った。だとすると相当気持ち悪い。

白いキャンバスだからなんでもできる。なんでもしていいよ!なんなら友達いっぱいいて世界にも飛び立って、宇宙にも行ってって。その時点で白さは無くっちゃう。

 

同調圧力の話も言及されていた。ムラ社会では、水の使い方等の規範が守られなければ即食いっぱぐれる恐怖があったから、守る=生きる 守らない=死 であったと。

オードリーのオールナイトニッポンに出ていた弘中アナウンサーは、「結婚が幸せ」「1人は寂しい」っていう同調圧力が気になるから革命家になりたいと話していた。

 

人類の歴史はほとんどが飢えと病気との闘いらしい。戦争よりも多くの人がそれによって死んでいる。そりゃ守らなきゃ死ぬんなら守るよね。そんで守らない人がいたら排除するよね。スマホもそうだけど、人もアップデートしなきゃいけない。固執しちゃあかん。

 

孤独についても書いてあった。これも僕が書いたブログ記事の

 責任感=「ひとり」の認識 - 僕を考える

 

と似ている。鴻上さんが良いことを書きすぎていて、僕の存在価値が無いのかってドキドキしちゃう。でもそんなことないはず。魅力はそれぞれある。