「自由」の使い方あれこれ
昨晩はあまり寝付けず睡眠が足りない。曇天のせいもあって少々士気が低い。
最近は、夕食のサラダに自家製人参ドレッシングをかけている。人参とサラダ油と酢と砂糖をミキサーに入れて粉砕するだけ。見た目も味も良い。
昨日も一昨日に引き続き、本を沢山読んだ日になった。
勉強をする目的があると、人はふんがー!!ってならずとも知識は入ってくる気がする。それが僕には新鮮。
今日読んだ本
— 八島遼三郎 (@kamichibetu) 2019年4月24日
・児玉克順「世界でいちばんやさしい教養の教科書」
これだけ浅く広くは著者がマジで凄い。
・吉田裕子「大人の語彙力が使える順で身につく本」
知ってる言葉多かった。自慢。
・リチャードカールソン「読むだけでいいことばかり起こる法則」
今に集中するの大事。
世界史をほとんど勉強したことがないので、児玉克順さんの「世界でいちばんやさしい教養の教科書」は、もの凄く勉強になった。特に神と人間の関連が面白い。
中世以前は神に供物を捧げるなどして、あらゆる場面で「神」が行動指針であった。中世の封建制においては、権力者が「神」を後ろ盾にして市民を統治していたらしい。
その後の西欧諸国による帝国主義も「神」の教えを他国に押し付けるという形で進められたし、現代の国民国家においても「正しさ」は「神」と関連付けられて語られることが非常に多い。
僕が思ったのは、世界の歴史の中での「正しさ」は殆どの時間「神」を通して使用されているんだなと。
個人主義的な合理主義的な社会と言われて久しいけれど、それでも多くの人が「神」に縋って生きているし、大企業に勤めて家を買って子供を産み育てるという「大きな物語」的な世界に正しさを求めて生きている人も数多くいると思う。
権力者に威張られるのも嫌だし、船で知らない人達が乗り込んでくるような時代も嫌。今は、個人がある程度認められる現代に僕は生きていて。幸せの最先端にいる感覚。そう思うと嬉しい。
自由の言葉の意味についても、その本に書いてあった。
LibertyやFreedomは、「解放」「制約の無い」という意味。日本語では「何をしても良い」という意味で使われがちだと。
僕が公共施設で働いていた時の話。所ジョージ好きな上司が、イベントで余った飴を来館者に「ご自由にどうぞ」と書いて置いておいた。
アフリカンドラムをしている利用者が、それを見て両手いっぱいにとってポケットに詰め込む。そして仲間達のポケットにも詰め込む。
僕は「いやいや~そういうのじゃないでしょ~」と言ったら、彼は「いや、自由って書いてあるじゃん」と。
「飴は自由と書いてあったらどこまでが自由として認められていているのだろうか」という議論はサンデル先生に任せる。
飴事件は、まさに「解放・制約の無い」と「何をしても良い」の違いだと思った。
前者は、自由に行動をするために自らを統御するという含蓄があって、後者にはデストピア的な悪意の発露として使用されてしまう。
よく、自由と責任はセットだと言う。僕が書いた以前のブログでもそれに近いことを延々と書いた。
超要約すると「大人になるには自由に行動を選択しその責任をとれることが必要である」となると思う。
きっと僕も「自由」を「何をしても良い」として使用していた。だから「責任をとる」とわざわざ書いたんだと思う。
日本においても「自らの統御」という意味合いを込めて「自由」という言葉が使われないと、いつまで経っても「何をしても良いんだ」と、選択肢が無限に湧き出てくる苦しみに苛まれると思う。千葉雅也さんの言う「意味のある無意味」。
僕が言う「大人」「子供」論議も自由の概念が大きく関わる。「自由」がゆえに何者にもなれない苦しみ。何とかこの事象に食らいついて、関わっていきたい。
神にも共同体にも会社にも社会にも正しさを見出せないのが、僕は普通だと思う。逞しくなろう。