僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

滂沱

太陽が出てきて、向かいの瓦屋根が、外国の犬が掛けてるサングラスみたいに日光を乱反射している。要は眩しい。

夜のNHKで、アセクシャルについて特集が組まれていた。

アセクシャルとは性的関心が無い人のこと。この番組で初めて知った。

LGBT等の性に関することは、批判する意図も賛同する意図も一切無い。これから勉強させてくださいに尽きる。

 

僕の関心としては、遺伝子に組み込まれた要素なのか、環境によるものなのか。

この分け方自体に社会的な意味は無くて、単に僕の興味として。

 

このケースで言うと、性的にマジョリティとは異なる存在が、生物として病気であったり障害として、十分条件であるのかってこと。(生物と文化は切り離せないってご意見はごもっとも。ただここにおいては一旦切り離して考えていることをご理解あれ)

 

栄養を摂りたいとか、性交をしたいはきっと遺伝子に組み込まれていると思う。

「生まれつき栄養を摂れない」はきっと病気。女性が女性しか愛せないも恐らく遺伝子のエラー。

けど、アセクシャルの例でいえば、「他人に性的魅力を感じ無い事=遺伝子的なエラー」と直接言えるものではない気がする。一般的な「男」「女」というイメージからは離れている。それがすなわち、手指が生まれつき欠損しているなどの、遺伝子的なエラーと同じ括りになのかと言われたら、違うような気がする。

 

アセクシャルの方を批判したり、攻撃する意図は一切ない。それでも配慮とか知識とか色々足りない発言かもしれない。ごめんなさい。

 

遺伝子の要素と、環境要因がどちらも組み合わさっている(当然どんなことでもだと思うけど)と捉えるのが妥当じゃないかと思う

何が言いたいかって、遺伝子などの生物の基礎となる部分と、環境や文化は混ざり合うっているんだなってこと。

そして「アセクシャル」という言語が生まれていること自体、現代社会が遺伝子など生物的、物理的な側面だけでなく、文化的な側面が大きくなっている証左だと思う。

だから、これからの病気や障害って言われるものは、文化的な側面も充分に加味されなきゃいけないし、加味されていくんだと思う。人類は歩を進めている。

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関東甲信越あたりが大雨らしく、昨晩から雨が降り出した。さっきまで滂沱として降っていたのに、気が付くと晴れている。

昨日は豪華な食事だった。ご飯とお味噌汁、炒め物、お漬物、アボカド、サラダ、煮びたし。ご飯があって、それを調理して、妻と笑顔で食べられる。ごくごく当たり前っぽい光景だけど、膨大な数の奇跡を通り過ぎて食卓に座っている。

 

この夜が刹那的な瞬間だってことも、普通の愛おしさも知ったから、前までのようにお腹がはち切れる程には食べなくて良い。

 

夕食後には、妻の仕事で使うショップカードを作って「これオシャだね」って言いながら、デザインを考えた。妻は余白、空白を使うものが好き。僕はつい情報量たっぷりにしがち。

その後には、夏の夜お決まりの深夜アイスを買いに西友に行った。アイスが食べたかったんじゃなくて、妻と一緒に出掛けたかった。

 

涙腺も思考も、ずっと緩い。

1人で大丈夫かな、勧誘の人が来ても断れるかな、車でケンカ売られたりしないかなって未来を勝手に想像して、胸を締め付けてる。

けど、きっと大丈夫。僕がここに居座り続けるよりずっと大丈夫。そういう論理。