僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

現在と過去と未来について

人、環境、自分、それぞれを変えたい衝動が細かくいっぱいおきる。

源はなんだろうか。このままじゃダメっていう不安由来なのか。それとも変わりたいっていう希望からなのか。

不安も希望も、大抵、過去か未来への想像で起こると思う。

 現在じゃなくて、過去と未来を言葉にして表現する行為。行為そのものが、過去と未来。言葉でしか現れないから、よく考えてよく考えて出した言葉は、ネガティブなものになりやすい。

自己啓発の書籍を読んでいると、現在に目を向けろ!という文言をよく目にする。

僕もそう思うんだけど、ややこしいから「なんで?」「理由は?」って聞きたくなる。

 

なんで今日の記事は、現在と過去と未来について考えてみた。

 

まず、現在について。

現在の自分も社会も、ここにこのような状態で存在するのは必然でしかなくて、是非や善悪が介入する余地が無い(はず)の、単なる事実。

人は「現在」という時制でしか行為できない。行為を言葉にした途端に過去や未来になるから。「現在」は言葉にしようがない、評価や価値から隔離された事象なんだと思う

 

 そして、過去と未来。

戦争があったことで戦歿者が沢山いたのは、悲しい過去。そりゃそうだって思う。

 過去は「過去においての現在」という事実が積み重ねで出来上がっているのに、言葉にして表現すると、即座に価値判断のもとに晒される。

未来について語るのも同様。 未来には自動運転の技術が確立されて、自動車事故がゼロになる。良い未来。これも妥当っぽい。

未来も現在という事実が堆積し続けたものでしかないのに、言葉にすると簡単に「良い」とか「悪い」と表現される。

 

 これらをまとめると、「過去」と「未来」が持つ性質は、語るしかできないもの

 

必然という名の不可避な現在で構成され続けている過去と未来なのに、過去と未来については、言葉での表現しかできず、必ず行為には辿り着かない。

 これが、言葉じゃなく現在思考で行動するしかないんだよ!みたいな、自己啓発書の言いたい意味だと思う。

 

もう少し考える。

「現在」と「過去」「未来」を人が使う際、行為と言語の断絶が起こる。それは「過去」と「未来」が時制による支配を受けているから。

もしこの言葉遊びを採用するのであれば、現在は完全無欠。というよりかは、評価も価値も言葉も時間も無い、永遠の孤独の中に存在する。

ジョジョに出てくる、プッチ神父素数を「1と自分でしか割ることのできない孤独な数字」と言ったのに近い。

 

あれ、そうすると、現在に集中できた時、それが悟りとか無我の境地とかそういうやつ?