僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

ギバーとかテイカーとか

土曜日はボランティア。日曜日も所属しているフットサルチームの試合をサポートしに行った。選手登録をしていないから、試合には出られない。写真を撮ってほしいとのことだったので、妻と一緒に行った。

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写真を撮ったり、僕が作った選手紹介のチラシを観客に配ったりした。試合中はベンチから大声で、鼓舞した。

 試合には勝って、嬉しい瞬間に立ち会えた。得点のシーンではみんなでハイタッチして、「おっしゃーー!!」って叫んだ。

試合後も、仲の良い選手から「色々ありがとうございます」とお礼をされた。

 

ボランティアも、イベントを支える一部。フットサルでの写真やチラシも、長い目で見るとチームの運営に必要なこと。

どちらも必要とされているから、必死にやった。この状況で僕に求められているのは、役割に徹すること。メタ的な視点で考察(と意見)をしがちな僕だけど、この2日に限っては無しにした。

 

奉仕が好きな人と、奉仕されるのが好きな人がいると思う。

アダムグラントが提唱した、ギバーとテイカーみたいな。僕がギバーなのかテイカーなのかは、診断方法を知らないから分からない。

 

ボランティアをするのも、悪い事じゃない。ただ、しんどかった。

フットサルチームをサポートするのも、悪い気はしないけど試合に出たくなった。試合に出たい僕が今ここにいるのに、チームジャージを着てカメラを構えている自分が堪らなく嫌になった。

選手登録をこのチームではしないと決めている僕がいるんだから、それが全てなんだけど、試合に出ないでいるのに会場に足を運んで、へらへらしているのがダサすぎた。

一番ダサいのが、こうやって終わったことを文章にして発信することだって知っているけど、そうするほか行き所がなかった。

 

僕をギバーじゃないと断ずるのは簡単。テイカーなんだね、本当の成功者はギバーなんだよって。

だけど、だけど、フットサルに関してはプレイをしたい。村人Aとか、カメラマンBにはなれない。だから、我慢してカメラを取り続けるのはもうしない。それがテイカーでもマッチャーなんだろうと、関係ない。誰だそんな定義づけして喜んでるの。アダムクラントだ。

知り合いのプログラマーが、「自分は一生プレイヤーでいたい」と言っていた。

一生プログラミングをやり続けると。

格好良いし、好きならばそれが絶対良いと思う。僕は、大変な作業は自分以外がやればいいと思っているし、飽きっぽいから一生同じ分野をやり続けるのはできない。

好きなことを飽きるまでやりたい。飽きたら、その時に好きな人に譲って、っていうのを繰り返したい。