僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

聳立

聳立・しょうりつ。立つこと。この難しい漢字、何かのキノコっぽい。

 

過去と未来のちょうど中間地点に位置して、止まる。起きてから、そんな感覚。

 

ブログを書き始めて、3か月くらい。80記事に届いている。

徐々にだけど、僕が関わりたい人の層が見えている。だから、Twitterのダイレクトメッセージを開けてみた。

ブログは継続した。次は、直接話す。段階はこれだと思っている。

お悩み解決!とか、そんな偉そうなものじゃない。僕だって悩んでいるし、しんどい時間は結構ある。

 

本音を言うと、僕はこの世界で生きていこうと思っている。ブログを書いているのも、Twitterをやっているのも全てそれにつながる。

まずは自分の開示が先。僕が開示しているから、あなたも良ければお願いします。がこのブログのスタンス。

 

若くて辛い人を助ける仕事をしたいんだ、って親に言ったことがある。反応は、「え・・・。」という感じ。

そして、それを兄に伝えたらしく、「助ける」の傲慢さを説かれたこともある。

助ける人がいるから、助けられる人を存在させるんだよ。ってことだと思う。

病院があるから、病気がある?精神科があるから、精神を病む人がいる??

しんどいを言葉にするから、しんどくなる???

僕の立場は逆。病気があるから病院ができて、精神を病む人がいるから精神科があるんだと思う。

 

確かに、助けるは傲慢。助けてあげたいも傲慢。しかもその理由が、自分が苦しんだからだと尚更傲慢。じゃあ、エスプレッソを提供する仕事は傲慢じゃないのかって考えた。

デミタスカップ一杯の黒い液体に、自分の人生やこだわり、それら全てを抽出する。そこに傲慢さは見えづらい。

でも、「興味の対象」として捉えたら、どうだろうか。「デミタスカップ」「心」それらに貴賤はあるだろうか。きっと無いんじゃない。

 

助けて「あげたい」の部分にひっかるんだろう。そんな弱弱しい、日和った感覚と社会を生きていくというのは併存しないよ、助ける対象がいないと成立しないものは、自分の弱さでしかないよ。と言うことだと思う。

 

そう、僕は弱い。物にもお金にもそれだけの想いを込められない。動機が心でないと、満足できない。もっと言うと、満たすべき序列があると思っている。

お金でも心は満たされるし、綺麗な女性と一緒に歩いてもそう。満たされる。けど、心は、心でしか完全には満たされないと思う。

 

昨日の記事でも書いたけど、心を言葉で開示することがナンセンスだよっていう批判もあると思う。以前、次は背中で示すんだよって占い的な人に言われたこともある。
yashimaryoz.hatenadiary.jp

 分かる。ダサい。一々、心とか精神とかグダグダ言うのはナンセンスだと思う。背中で示せ、態度で表せ。そう言いたいのは分かる。

婉曲じゃない?それ?今まで、格好良い大人の背中を見てきて、世の中の理と自分との乖離が起きているから、辛いんじゃないの。

言葉という態度も、あると思っている。どうかそれを認めてほしい。

 

想像の上で、色んな批判が起きる。被害妄想。批判されるの怖い。

だって、すみません。あなたの価値観にそぐわない行動して。としか言えない。

会話は成立しない。もっと言うと、あなたの正しさを求められても、僕も正しいと思っているから、平行線。実力行使をして、僕を止めるしか方法は無いと思う。嫌だけどね、そんなことされるの。