僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

悩みの総量

昨日の夜は久しぶりにフットサルの練習に行った。

一対一の練習やら、試合やら、久々すぎて体が付いていかない。けど、心の方は成長を遂げているらしく、ミスしても凹まない。誰かがミスをしても怒るなんて感情は微塵も出てこない。

帰り道、イオンによってアイスでも買おうかと言って寄ったら、昨日のブログに書いた知り合いがいた。お腹が痛くなってトイレに駆け込んだと。

 

じゃあ、と言って別れようとしたら、にやにやして付いてくる。あれ、どうしたんだろう。「いやー大変なんですよ」なんて言っている。この場面、もうクロージングじゃないの。

あ、違う、話を聞いてほしいんだ。

 

そこから2時間、話をみっちり聞いてああでもないこうでもないって対案を出す。

愚痴って、聞いてほしい気持ちは分かるけど、それ自体が嫌ならやめればいい。それが嫌だとしても自分の利になるなら、頑張ってやればいい。それのどっちか。

それができないからこその愚痴なんだと思うんだけど、まだそういうことやり足りないのかぁって思ってしまう。

 

きっと、彼の本心は「嫌なことがあって、それ自体も含めて楽しんでいるんだけど、客観的に見たらすごく大変で、超優秀な俺じゃないとできない。それを誰か聞いてくれ~!」だと思う。

 

ほとんどの問題が、自分でしか答えが出せないことだと思う。

それを自覚していない人は、あぁでもないこうでもないって他人に吐露して、悩んで、苦しむ。悪いわけじゃない。

でも、苦しみたいんじゃない?自分を罰したい欲求があるんじゃない?って思う。

出会ったが百年目、そのお手伝いさせていただきます。という感じ。

 

僕は悩むことについて、一周をしたと思う。

苦しいことにすら気が付かない(生まれてから20代半ばまで)→あれ、これ苦しいかも(28歳くらいから)→寝込む(29歳くらい)→悩みの言語化(30歳)→自分で答えをださなきゃ(今年3月くらい)→じゃあ愚痴とかって意味ないな(最近)

と言う具合。

 

フットサルも、料理もなんでも、当然プロフェッショナルじゃないし、半端だと思う。だけど、悩むことに関しては恐らく誰よりも真面目に向き合ってきた自負がある。

 

悩む総量が閾値を越えた瞬間、意味とかがなくなってくるんだと思う。部屋の電気のスイッチを無意識で押すような、思考を挟まないあの感じ。

芸術家に、「なぜ絵を描くんですか?」と聞いたら、「意味なんかないよ」って答えると思う。部活動でスポーツを長年一生懸命やってきた人に、そのスポーツが好き?って聞いても、好き!とは答えないと思う。そんな領域。

僕も、悩むことは好き「だった」。今は、語弊はあるけど、良い意味でどうでもいい。

関心が無いんじゃなくて、むしろ好きなんだけど、体の一部になっているというか、生活の一部になっている。お米一粒一粒に、いちいち感動しない、そんな具合。

時間が解決するんじゃなくて、総量が解決するんじゃないか、そんなことを考えた。