僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

子供の役割

カフェで読書中、目の前で高校生カップルがイチャついてる。

陸上部と思しき彼女は、ハーフパンツから日に焼けた大腿四頭筋をのぞかせる。

遅れて来た彼氏は、野球部のリュックを背負った坊主頭。顔が少し長くて、鼻にホクロがある。

彼氏は勉強する彼女の足に手を置いたり、いきなり顔を近づけたりまぁ要はイチャついてる。

周りの目が気になっていない訳じゃない。そうだったら、もっと濃厚になっているはずだから。

学生時代、帰り道にお洒落なカフェで勉強なんてしたことがない。それに彼女つきでなんてもってのほか。

この経験値は、社会人になってからは取り返せない。長い下り坂を2人乗りした自転車でゆっくり降るなんてことは、大人には起きない。せいぜい渋滞にハマった車内で、君を助手席に乗せて、ジワリジワリとアクセルを踏み込むくらいのものだ。

 

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人には役割があると思う。

前僕の部屋まで来たお巡りさんは、多少理不尽なことがあっても懐柔する役目。生活安全課の刑事は、事実を認識して事を運ぶ役割。

2人ともちゃんと全うして、家を出ていった。

僕の役割は何だろうかってつい考えてしまう。

今いるカフェでの僕は、高校生にとって「スパイス」であり「客A」である。

そういうんじゃなく、もっと素敵なのが欲しい。役割、やくわり、ヤクワリ、Yakuwari …。

 

とある女性がいて、あなたは明るいよ。と言う。ハッとした。僕はこの数年、自分を暗い人間だと勝手にイメージしていた。

そういうえば、女性の知り合いは暗い人が多い。あ、助けようとしてたんだ、って思った。

暗い女性は、悩んでいる。だから僕が肩代わりしてでも、全て投げ打っても、僕が何とかする。

冷静になれば、破茶滅茶な論理は何故僕に通じたかと言うと、母の存在だ。

母は明るい。でも悩んでいることも、寂しいことも表に出さないけど知っている。でも僕が実家にいる間は、その仮面を外させてあげることができなかった。親も人間で、母と息子いえど、男と女。誰にだって素顔見せるわけじゃ無い。

 

僕はそれが分からなかった。「なんで少し見えているのに、話してくれないの」「僕じゃあ話す相手じゃないの」ってずっと思っていた。

それが正直に言って、今も悲しい。僕だけが気づいていて、目の前にいる大事な人を助けられなかったから。

お付き合いがある女性は「助けがいのある女性」。母で出来なかったことを再履修するために。

 

傲慢と無知とヒーロー気取りとがごちゃまぜになって、「助けたい」が出来上がっていた。僕の子供としての役割。

そう、僕にとって子供の役割は「助けたい」。もっと言うと「ヘルプを出していいんだよ」。だと思う。

僕の正直さは、障害レベル。悲しいことは悲しい。だからあなたも表現していいんだと思う。僕が子供時代によく泣いたのは、このことを訴えていたんだと思う。僕は母の弱いところを見て、母は僕を甘え坊と見る。共依存の形。

 

助けてを求めて、感情をもっと出して、が僕の中にいる子供が他人に訴える、主な部分。主訴。

子供の役割を捨て切ろうとは思わない。

ただ、母に「助けたい」と思うのはもうしない。助けて欲しければ、助けてと言えるだろうし、僕も同じ。

だから、子供の僕に、今まで役割を頑張ってくれてありがとうって言う。

随分引っ張らせちゃった。

これからは大人の僕が引き継ぐから、見ていてね。

 

さっきのカップルの顔の距離が、だんだんと近づいていく。しようと思えばキスだってできる距離。

 

その調子。感情は出していい。