僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

責任なんてくそくらえ

 

漫画暗殺教室で、好きなシーンがある。無謀なケンカに挑もうとする生徒に、殺せんせーが「プライドの刃は捨てなくていい。一度置くだけです。」というシーン。そう言われた生徒は、頭を下げて、ケンカを回避する。

 

 

好きな言葉や共感した言い回しって、量が必要だと思う。自分1人だと心許ないから、近い考えの言葉を探す。それが積み重なっていったら、それは自信であり、いちいち訴えることのない自分の中の正義になると思う。

 

そんな本の1つ。ドルフィニスト篤さんの「悟りハンドブック:<私>を思い出すこと、それが悟りです!」を読んだ。

 

仏教でいう、悟りの境地とは、目に見える全てが自分が発端となったものであり、自らが神であることを自覚することらしい。

「悟り」というと、何ものにも干渉されないみたいな超越したイメージ。

 

 この本では、自分を自覚することが悟りであり、よく言われるような仙人的なイメージのものではないと。

因みにこの本、イルカが表紙に書いてあるから、ふざけた内容なのかなと思ったけど、すごく良い。お暇のある方はぜひ読んでほしい。

 

悟りとは違うのかもしれないけれど、ふと、「あ、自分のせいじゃないな!」と思った。

あれもこれも、うまくいかないのも、バスの順番を平気で抜かす赤いマフラーをしたあいつに好きな女の子をとられたのも。

大人は責任だし、自由も責任だって以前書いたことがある。論理上はその通りだけど、抜け道を見つけた。

というより、責任はどう果たすのか、果たされることはあるのか、という疑問がわいてきた。

 

どういうことかっていうと、犯罪をした人が、刑務所に入れられて更生を促すために労役に着く。

刑務所に入った人の再犯率ってもの凄い高いってどこかで聞いたけど、要は心根が変わっていないってことなんだと思う。

だから、労役刑につかされたところで変わらない人の心を、人が変えるなんてそもそもが難しい。それが前提。

 

それで、「責任」ってどうとろうか。車をぶつけちゃった人は、お金を相手に払って修理したり、病院にいったりする。でも、それってあくまで代替であって、そのものじゃない。

やっぱり「責任はとれない」。がそもそもだと思う。

コーヒーをこぼしてしまったら、クリーニング代をだしたり、新しいコーヒーを買えば済む。でも、気持ちは変えられない。いい意味でも悪い意味でも、起きた現象は変えられない。こぼれたミルクを悔やんでもしょうがないよね、みたいな英語のことわざがあるように。

こぼれたコーヒーという事象は、起きてしまっているがゆえに、取り返しが絶対につかない。

 

600文字も使って、「責任はとれない」を説明したけど何が言いたいのかって、責任はとれないんだから起きてしまったことを否定的に捉える意味は無いってこと。

 

コーヒーこぼした。以上。

車をぶつけた。以上

お金が無い。以上。

 

みたいに、それだけのこと。人がその事象にこれ以上言及する必要は、そんなに無い。

 

ただ、他人に迷惑をかけた場合は見た目上、「うわあすみません」とか言っておいた方が良い。相手がこの原理を知っているとは限らないから。

僕もコーヒーぶっかけられて「え、起きたからしょうがないじゃん」って態度だったら多分怒る。あくまで、心持ちとしてってことで考えてほしい。

「コーヒーこぼしたぁふえええ」ってクヨクヨしたって意味は無いし、辛い時間が長いだけ。クヨクヨも辛い時間も、それにすら自分に責任は無い。

少なくとも、僕はそう思っている。周りからしたらクズかもしれないけど、自分が良ければそれでいいんだと思う。

 

ただ、責任が無い≠自分事じゃないということは、気を付けている。

目の前に起きたことは、自分がいるから起きていて、感情も出来事もひっくるめて、僕が責任者。けど、責任を感じて、長い時間よくよする必要は無いってこと。

 

よく、自分の中のイメージが高すぎるから、苦しむという。色んな本にそう書いてある。

どんなイメージが正確かは誰にも分からない。僕だって、バロンドールを獲りたいしフィジークの大会に出て優勝したい。高い理想。

そういう自分もいるし、もっともっと意識の低い、クズな僕もいるなって思った。

ネット上には出せないようなことだっていっぱいしているし、〇〇だって行きたいし、〇〇〇だって〇〇したい。(伏字はご想像ください)

もっと、自分のふり幅を知って良いんだと思う。

子供に優しい笑顔を見せたあと、道路に唾吐いてしまう自分がいてもいいと思うし、沢山食べたあと甘いものを食べちゃう自分でもいいと思う。だってしたいんだもん。

 

自分を知って、自分ってこうなんだなーって思ったら、楽。