僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

唐揚げは崇高なり

父親から電話が来た。妻との関係や僕の状況などを話す。

あくまで湿っぽくならずに、お互いの境界線を越えないようにしながら。

「寂しいけど、他の生活はAランクだからな!アッハッハ!」とのたまう。

父も母と離婚して、ずっと独身。父は彼の母とずっと暮らしている。

それが父の生涯で成し遂げたいことなんだろう。きっと母(僕からすると祖母)と両想い。

 

そして父になる

そして父になる

 



父は、祖父の仕事を継いで(というか財産を受け継いで)、ずっと生きている。お金に困ったことはないだろうけど、自己効力感は低いだろう。それを癒すためには祖母と一緒じゃなきゃダメなんだろう。色んな生き方がある。

じゃあ、僕が自己効力感を持てるような、「やりたいこと」って何だろうって、ずっと考えてきた。

それさえやれば、自由になって、素晴らしい人間になって、賞賛されて、女性にチヤホヤされる。そんな類のもの。

 

遠い未来を想像して、今の自分とのギャップに辟易とする。よくある。

そして、そのギャップに苦しんでもっと動けなくなっちゃう。しんどい。

そんな人は、「夢よりも目標よりも、唐揚げ食べよう!」が今の僕の答え。一見むちゃくちゃだけど、論理的整合性があると思っている。

 

心って、未来も過去も想像する機能がついていないんだと思う。とにかく目先。心は子供だし、めっちゃバカ。

 

よく、マインドフルネスとか瞑想とかで、「今」に集中するって言われている。

それらは、今どんなことしたいかなーとか、何が不満かなーとか自分の感覚を感じる作業だと思っている。

僕もそうだけど、普通に生きていると社会通念とか、常識とか、他人とかすごく気になる。

でも、おしっこしたいとかも「今の自分」が求めていることで、そういった形の無い一般論では測れない。会議中だけどトイレ行きたいから行きたいには変わりが無い。これが大事だと思う。

 

自分以外のものに、おしっこしたいなんて分かってもらう必要が無いし、トイレ行きたきゃ自分で行く。

おしっこ我慢してたら、プレゼンなんて集中できないし、心はプレゼンの成功よりトイレを優先してくれ!って言っているはず。

とにかく目先のことしか、心は感じてくれない。

 

我慢はしなくていいって母がいつも言っていた。子供の頃は、シングルマザーとして生活を成り立たせるために我慢して働いていた母がそう言っていたから、「我慢はするもんなんだな」と受け取っていた。

 

けど違うのね。我慢はしなくていい。これが金科玉条であり、人の1番すべきこと。おしっこは我慢しない。唐揚げは食べる。

 

今したいことをする、というと世界一周!とか、貧しい子供を救いたい!って崇高で漠然としてて壮大なやつが出てきがちだけど、きっと心はそんなことよりも、10分後の美味しいものを食べるのが優先。

崇高なのがダメなんじゃなくて、まず今の自分を満たそうよってこと。

 

今できることを頑張ってやろう!じゃなくて、今頑張らなくても、我慢しなくてもできること。それをやらないと、心は満たされない。

 

だから今日、唐揚げを食べた。お金ないけど、いいや!まず満たしてみよう!って食べてみたら、「夢を叶えるためにやらなきゃ」と思っていたことが、すんなりできた。

毎日、「今日も出来なかった」とゲロ吐きそうになっていたけど、すんなり出来た。これ快感。

 

今日やったそのことも、目先の利益のため。明日美味しい唐揚げを食べるために、少しやってみよ!って自然とできた。

目先の満足に流されるなって僕も思うけど、それに流されなきゃ、心からクレームが来る。クレーム処理を怠ったら、僕はどうしようも出来なくなって、泣いて寝るしか出来ない。

それは嫌。

 

 



 

 

唐揚げの先に、思い描く未来が待っている。