僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

やりたいことの正体

雨が降っている。梅雨ってこんなに長いんだっけと思うけど、去年のことを思い出せない。

やだなぁ、雨。

こんな天気だから、本をよんでいた。加藤諦三さんの「自立と孤独の心理学 不安の正体が分かれば心はラクになる」。

不安や焦燥感などその他諸々の、不完全感は、幼少期に母親との愛着欲求が満たされていないからであると書いてある。

淡々と○○であったから○○な心理状態となり不安が襲う。と書いてあって、そのどれもが僕に当てはまる。

 

「過剰な虚偽の愛」という言葉がでてくる。ちょっと長い引用。

「自分の心の冷たさを隠して過度の愛情をあるふりをするということもしばしば起きる。(中略)子供の方も自分が愛されていると思い込もうとする。親の方が愛していると思い込み、子供が愛されていると思い込み、いつまでも親子関係が深くかつ閉じこめられていることがある」

「つまりは子供は愛情豊かな親に育てられ、愛情豊かな家庭に育っていることを感謝しなければならないということになる。(中略)これは子供にとって地獄である。しかも天国にいると信じ込まなければならないのである。」

母も僕も愛情を注いだ(注がれた)と思っている。でも、母はその母からの愛着欲求が満たされていないから、愛し方を知らないんだと思う。

本書では「欺瞞に満ちた親子関係」とショッキングな言葉を用いて書かれている。けどショッキングな事象なのにも関わらず、当人達はそれに気がつけないのが、厳しい問題だと思う。

愛するって難しい。愛もお金も交換だから、最初が肝心。初期装備で愛情を持っていたら、それは見えない無敵の鎧であり、剣。

お金であれば、「被害者」であるとか、「何も持っていない」というのは見えやすいストーリーとなって、逆にインプレッシブなこと。

でも愛は、どれくらい持っているかは自分にも他人にも見えづらく気づけない。そして、自分に対して「自分は愛されていたのか」と問うのは、自分で自分の存在価値をはかるもので、多くの場合疑いになる。

「なんかうまくいかない」「気持ちがふさぐ」って気持ちは、本来自分の価値とは関係ない。けど、「どうしてだろう」と、起きたことに検証をして、次起こさないようにするのは必然であり、止めようがない。

 

本書で「欺瞞に満ちた親子関係」が子供にもたらす結果を以下のように書いている。

「このような人たちは社会的に孤立する。淋しい。働くことを嫌がる。何をするのも楽しくない。敵意を抑圧しているから他人の不幸だけが楽しみになる。いつも不機嫌に苦しむ。いつも重苦しい気持ちでやりきれない。したいことができないで、したくないことをせざるを得なくなる。会いたい人と会えないで、いつも一緒にいたくない人といつも一緒にいることになる。とにかく全てが矛盾してくる。」

これ僕じゃん!となった。全部当てはまるし、最後の「とにかく全てが矛盾してくる。」なんて、心臓を打たれたような衝撃。

こんな本を読むのも、心を検証するのも、辛いからであって、辛くなければ必要が無い。

そうして要因を理解したところで、万事うまくいくわけでもない。

でもやめられないし、せざるを得ないし、やりたい。

だから、やる。今の状況も辛いし、検証作業もしないで済むならやりたくないけど、しないではいられない。これが努力のあるべき姿。

辛いけど、何なら嫌いだけど、やっていること。やりたいことの正体。