心が子供か、子供が心か
細谷功さんの「無理の構造-この世の理不尽さを可視化する」を読んだ。
細谷さんの本は初めて読んだけども、これは名著な予感がする。
気に入った部分は沢山あるんだけども、その中からいくつかを。
まず「知の非対称性」について。「知」というのは、具体と抽象を行き来するものだと。論文で使われる演繹と帰納を繰り返して、知となっていく。
その中で、具体的な事象は当然それそのものであって、ランプはランプでしかないし、エプロンはエプロンでしかない。
僕らはバナナというものについて知っている。それを抽象化していくと黄色いもの・果物の一種・エチレンガス・フィリピン等々、沢山の関連する情報を収集していつでもバナナに関する情報を引き出せる状態。「果物は甘い、だからバナナは果物か」、「黄色いものはバナナか」(問いが下手すぎる)といった問いと答えを数多く経て、「バナナ」というものを抽象化していく。
それが知というものであって、「バナナはバナナだよ。」は具体と抽象を行き来していない。
それがなぜタイトルにある「理不尽さ」と繋がるかというと、知の不可逆性にあると著者はいう。
一度、バナナという言葉を使い始めたら、「甘くて黄色くて、ゴリラが好きな果物で、フィリピンで沢山作られている果物」という冗長な説明はできない。もとに戻れないという意味で不可逆性。
それが、バナナを知らない人にとっては説明がされないと分からない。でも本人はバナナを知っているから、言葉を使いたがる。そこに軋轢が生じてしまう。まぁ僕の説明よりも本書を読んだ方が15倍くらい納得できると思う。
もう一個だけ。「見えている人」と「見えていない人」の話。
僕の友達で、格闘技とスキーとフットサルをやっている人がいる。ただのサラリーマンと自称しているけど格闘技は教えるレベルだし、スキーはレッスンをしている。フットサルは僕の方が(ひそかに)上手いと思っている。
仕事とスポーツ3つ。プレイするだけでなくて、書類仕事やボランティアなどの雑事が彼のところに舞い込んでくる。当然、寝る時間が無くなるほど忙しい。
僕は忙しいのは嫌いなので、「なんでそんな詰め込むんですか」と聞く。
彼は「忙しいとか忙しくないとかで考えていないんですよ」「普通の人と僕じゃあ見えている世界の範囲が違うんです」と言う。
本書では「見えている人」は、自分が分かっていないことを分かっている人。「見えていない人」を分かっていないこと自体を分かっていない人、という風に区別する。
僕がよく使う、無知の知であり、知らないことを知っていること。知っていることが沢山あるがゆえに、知らないことや分からないことが見えてくるのが「見えている人」で、分からないことが分からないのが「見えていない人」。
心屋仁之助さんが言う「前者」「後者」は、この見えている人と見えてない人に近いと思う。俯瞰できるかできないか。そんな違いだと思っている。
もう少し踏み込んで考えてみようと思う。
「見えている人」と「見えていない人」にはどちらも利点と欠点がある。きっと応用力やメタ認知機能、発想力という意味では「見えている人」が優位なんだろうけど、そんなものは人の根本的な価値に寄与しない。
一方で、「見えていない人」に関しては、近眼的な集中力があると思う。見えているがゆえに散漫になる。俯瞰できるから、他と比較できることは良いことだけじゃない。
ある意味、「見えている人」と「見えていない人」を行き来することのできる「見えている人」が最強なんだと思う。
どちらか一方を選べと思いがちだけど、概念において一方だけを選択するのはきっとできない。だから思い切って両方の良いところを取った方が良い。アウフヘーベン。
こうやって自分を観察したり、あれこれ考えるのが得意だと思っている。
そういえば、小さい頃から心が大事ってずっと思って生きている。
色んな心理系の本や、自己啓発の本を読んでいると「根拠のない自信」や「あなたはあなたのままでいい」っていう言葉が出てくる。
基本的にその通りだと思っていて、自己信頼や自己肯定感に理由を求めると、諸行無常の鐘の響きによって崩される。
けど、何で自分を認められないんだろうってずっと思っていた。僕には価値が無いんだ、とか認められない僕は何もできないとか。そんな風に思ってずっと布団に包まっていた。
でもこのままじゃいけないって、色んなことを試した。
瞑想や、精神科に行ったり、自己催眠・暗示をしたり。色んなブログも読んだ。大島信頼さん、前田大輔さんらの心理の本はもちろん、発達障害・自律神経系などの医学から側面のもの、哲学、仏教、神道の宗教関連の本も読んだ。
母親との関係性に問題があるんだって思って、連絡も取ってみた。
グーグル先生にも沢山頼った。「しんどい 理由」とか「生きる 意味」「自分 価値」で検索。出てきた小賢しいブログを読んで「ちげーんだよなぁ」って携帯ポイっとして枕に顔をうずめていた。
加藤諦三さんの本(だったか忘れた)けど、人は心にクリスタルを持っているんですという文言があった。それは何をしているかや、どんな見た目であるとか、そういう価値じゃなくて、人がそれぞれに持っているもので、何をしてもしていなくてもその価値は変わらないものだと。
僕の心にヒットした感があった。気が付いたというよりも「あ、そうだった」って思い出したような感覚。
きっと、その言葉が特段凄い訳じゃなくて、色んな試行錯誤によって、「自己信頼」みたいなものの言葉やイメージが僕の心に蓄積されていった。これまで経験した「挫折」で心の奥底にしまい込んでいたのを引っ張り出す作業。
子供の頃はたっぷりあった自己信頼が、大人になるにつれてスカスカになって一旦ゼロになった。でも、記憶は残っている。自分が大好きなんだっていう思いや、自分って天才なんだっていう思いは頭の片隅に残っている。
僕にとってその沢山試行錯誤した行為の全てが、「こういう表現もあるよ」「こういう手法だったら思い出すかな」とか、自分の心にいる小さな僕に、「でておいでー」と繰り返し行う作業。
たまたまそれが「クリスタル」という表現によって閾値に達した。
僕の中の子供の心がめっちゃ喜んでいるのが分かる。何もしていないのに、顔がニコニコする。そんな感じ。
きっとだけど、心は小難しいことは分からない。「好き」とか「嫌い」とか「快」「不快」とか、理由じゃなくてその感覚のみを使って運営されている。
子供の時に出来上がるのが心なのか、心というものが子供っぽい性質を持っているのかは分からない。
僕がこんな文章を書くのは全部自分のため。文章を書くのが好きだし、自己表現最高って思っている。
でも、どこかで「誰かの心にヒットしろ」って思いながら書いている。