脚本家の幸せ
kreg visselman という男性歌手がいる。
ギター一本にハスキーで寂しそうな声。すごく良いと思うんだけど、日本でのCD発売はおろかグーグル先生に「kreg visselman」と聞いても、工具みたいなのとか(きっとkregは工具のことらしい)、ヴィッセル神戸のことがでてくる。
primemusicでも当然でてこないから、仕方なくyoutubeで聞く。「if you think You knew me once」は名曲。英語で何言っているかほとんどわかんないけど、僕の心に響く。
2分15秒あたりで、ベレー帽を被った女性がクッキーを渡しに来て、彼の肩を叩くシーンがある。笑顔で首を振るヴィッセルマンの表情を見て、僕は毎回泣く。
Kreg Viesselman - If You Think You Knew Me Once (official video)
物語である。人にはそれぞれの物語がある。僕の琴線に触れたのは、ギターや悲し気な声、北欧っぽい感じ。そういう背景が既に涙する素地を作ってる。
それで、物語には役者が必要になる。ハイデガーが言った「世界劇場」というのも同じこと。ハイデガーは、人は役割と言う名の配役があって、ある意味それを演じているだけ。そこから自由になるには云々と書いているけども、ここでは割愛。
多分、役割だよねっていう話は以前にも書いたと思うので、役割を規定する脚本部分について、書こうかなって思っている。
脚本って、役者がどう喋るのか、どう動くのか決める。
脚本があって演出家がいる。演出家は、台本を書いた人であろうとなかろうと、役者の演技の感じをみてワーワー言ったり怒ったりする。「北の国から」の倉本聰さんなんかは演出家の有名どころよね。
セリフのひとつでも解釈があって、役者が家で台本を読んで「ここは悲しいシーンだな」って思って、稽古で悲し気に喋ってみたら、演出家が「このシーンは、別れなんだけど希望に満ちているから、単に悲しいじゃないの!!!」って怒られがち。
札幌にいた時、演劇の団体をいくつも見てきた。
僕は演劇に関しては素人だから、何も言えないけど演出家たちは、「っぽさ」を求めて演出をしている人がほとんどだったと思う。
それっぽさなんてやっていたらつくものだし、そんな自分を認めていなきゃできない作業だから、結果として「っぽさ」を求めていたとしても、恥ずかしさとそうありたいのせめぎ合いに勝っているんだから、良き事と思う。
札幌という狭い範囲でも、色んな演出家がいて、怒っちゃうのよね。役者が思い通りに動いてくれないと。
当然、演出家は役者を思い通りに動かすのが役割で、役者は演出家に思い通りにされるのが役割。なんだけど、演劇というフィールド上で、かつ脚本という縛りがあるのにも関わらず、個人に対してのところにまで踏み込んで、叱責しちゃう。
「あれ、稽古まだ終わってないのに、あの娘は先に帰るんだ~」と思っていたら、後から聞くと演出家に責められて降板になったと。
しょうがないことといえばしょうがないけど、いやー僕は嫌い。怒るとか、めっちゃ嫌。
コミュニケーションって特に日本では演出家と役者みたいにやると思う。言葉の裏を読んで表現し合うみたいなの。
悲しいから、悲しいって言うんじゃなくて、その人がなぜそういったのか、背景にある動機が何なのか見つける作業。
僕は笑えてくる。
悲しいんでしょ?悲しいって言えば良いんじゃないの?って思う。
その間のクッションってなんなの?クッションあればあるだけ、自分の心が満ち足りないってことじゃないの。
いや、言えない状況があるってのは分かる。めっちゃ分かる。けど、言いたいことをダイレクトに言えないってストレスじゃない?
ひとつひとつの動機を、毎回言葉から察して返すのがキャッチボールなの?って思う。発達障害は、言葉の裏の意味を取るのができないっていう。僕も取れないというか、取らない。絶対上手くいかないから。長い目で見るとね。
すごく脱線した。脚本の話。
どんな行動でも、結果は既に出ているというか、自分の感情はもう決まっているものだと思っている。
コンビニでガムを買う時に「なんかモヤモヤする」って思っていたら、きっとやる気の無い態度の店員が現れると思う。脚本モヤモヤだから、役者もちゃんとモヤモヤをやってくれる。というか、モヤモヤとしていると勝手に勘違いする。これが本当のところ。
楽しい感情の人が見たら「楽しそうだな」って思うのと同様に、モヤモヤの人は他人もモヤモヤとして見る。
巷でよくある引き寄せの法則では願望が実現する!!みたいに言っているけど、自分の頭が勝手にそう解釈しているだけだと思う。
だから、頭の中にある脚本がめっちゃ大事。幸せって思うと、今日が幸せになる。
これをもう少し敷衍していくと、世界は自分中心に回っているってことになると思う。
物理的な中心がどこにあるかは知らないけれど、自分から見た世界の中心は、自分以外にあり得ない。
世界をどう見るかで世界は変わる。
現在の政府を批判したい人は批判する事柄を見るから、左翼団体に入る人になるだろうし、天皇が大事だっていう人は国を守ろうと街宣車に乗る人になる。
ちょっと関係ないかもしれないけど、昨日僕の後ろで面白い話をしている人がいた。
老齢男女2人。多分同じ宗教に入っている人で、政府や市場原理主義を否定した話を展開し続ける。特に女性のITに対する否定感はすごい。いわく、スマホを契約したけどauがそれを使って私のことを盗聴しているんだと。ITだから、どこで何をしているかすべて漏れちゃうから怖いんだと。
分からないけど、グーグルとかamazomはビッグデータを得ていると思う。僕は喜んで提供する。Gmailでの情報も、amazomでの買い物情報も。だって無料でメールを使わせてもらっているし、amazomの便利さはすごい。このすごい企業が、誰も知り得ていないビッグデータを使ったら、僕らの生活をもっと快適にしてくれるっていう期待感がある。もしかすると既存の倫理感からは逸脱しているかもだけどね。
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それで、さっきの2人の話。多分問題は、スマホでも政府でもなくて自分の心を否定する何か。それが心に巣食っているいるから、見るもの全てが自分を攻撃してくるように見えるんだと思う。
小学校の頃から、何となくだけど世界で一番大事なのは心だよなって思っていた。
ずっと言葉にできなくて、今もそれにトライし続けている。
今回のブログでは、脚本と言った。要は心をどういう状態に置くか。悲しい出来事があるから悲しい心でいることが出来るのなら、その逆も然り。
ネガティブ対ポジティブの対立構造として考えるなら、必ずネガティブが勝つと思う。死のパワーに人間は勝てないから。だからポジティブは努力して獲得することだと思う。多分、自由とか大人ってそれを獲得した人のことを言う。
見えやすいことはネガティブで、見ている自分もいずれ死ぬ存在だから、生活にポジティブを探すのって難しい。目に入る情報は変えられないけど、それをどう捉えるか、どう自分のものとするかって、変えられる。あ、めっちゃ普通のこと言ってる。
努力とか嫌いだし、根性論も大っ嫌い。誰だってそうだと思う。でも心をネガティブにしない≒ポジティブにすることに関しては努力が必要だと思う。
毎日意識して、言語化して、そうやって忘れた頃に、獲得できてた!そんな感じだと思う。