僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

不安と耽溺

人生は不安との闘いだなと思う。

小学生くらいから、自分に自信が無かったと思うし、自信が無いゆえに強い振りも沢山した。

毎日、どんな風に生きるかも選択だし、結果がどうなるか分からない。

だからこそパターンを学習して、ある程度結果が予想できるものを人は欲しがる。

 

コーヒーの種類によって、ぞわぞわするものとそうでないのがある。皮膚下に何かが駆け巡るような不愉快な感覚。酸化した豆で淹れたものは、当然のようにぞわぞわするし、煎りが浅いものもそうなりやすい。

最近の研究結果では、外でコーヒーを飲むときはエスプレッソもしくはアメリカーノにするとぞわぞわしづらい。エスプレッソに使うのは深煎りなのもあるだろうし、抽出する際、熱を加える(?)のも大きい気がする。

こんなパターンも回数を重ねて発見し、ぞわぞわを回避する。

 

はじめてのパターン認識

はじめてのパターン認識

 

 

僕はおそらく生まれつき多動な傾向。

ひとつのパターンを一生繰り返すっていうのはきっとできない。

同じじゃなくて、もっと良くなる!もっと良くなる!ってやっていきたい方。

 

だけど、上田に来た3年の間で随分自閉の方に引っ張られたと思う。

自閉って言葉の通り、自分を閉じること。言葉にしないで、言葉の裏側にあるのが自分なんだっていう自己矛盾した自己表現。ただでさえ言葉という足かせをはめられているのに、自分の殻に入り込んでいってしまうと手が付けられない。2重のガード。

けど、遂行矛盾ともとれる自閉ガードは、矛盾しているがゆえに固く自分を守ってくれるんだってことにも気が付いた。だって、矛盾している人に対して深追いできないでしょ。

 この自閉ガードも僕が次!次!となるのも、きっと不安がゆえなのよね。

前者は自分を見られるのが不安で、後者は固着してしまうことへの不安。

前にも書いたけど、僕には固まって動けなくなることが一番怖い。多分死ぬより怖い。

だから、動きまくりたい。でも、動いてみよう!!っていうのだけじゃ上手くいかないっていうパターンを悪い意味で学習してしまった。だから、頭が真っ白になって動きが止まる。止まるのが一番怖いはずなのに、動けなくなる。自閉と多動の狭間で、頭がぐわんぐわんする感じ。気持ち悪い。

 

今日、届け物をするために郵便局に行った。おじさんが2人窓口に居て対応してくれる。これを「ゆうぱっくで送りたいのですが」と言うと、それには反応せず「これガムテープ上から貼ったらダメなんだよー!」と答えない。伝票を張り付けるのに、ガムテープが貼ってあるとくっつかず具合が悪いらしい。「じゃあ上から紙貼りましょうか」と言うと「だから貼れないんですよ」と。

窓口おじさん2人で、3秒くらい悩んで透明なテープを伝票の上から貼ることで解決する様子。あれ、なんで困った声だしたんだろう、この人達。って思った。

その後も、送る品目のところに「そうざい」と書いたら「これだと雑貨と同じなんですよ、具体的に書いてください」とうるさい。雑貨が何で駄目なのか、僕は知らない。どうしようかとニコニコしてたら、横の先輩らしきもう一人のおじさんが「アルコール類は入ってないですよね」と聞く。「はい」と答えた。

送り先の住所を液晶に入力する際も、おじさんは「あー!」とか言って、上手くいかない様子。入力し終わって「アルコール類は入ってないですよね!?」と怒り気味に再度聞く。「こちらの方に答えましたよね」と言うと、何も言わなかった。 

 

アイリスオーヤマ ポスト レッド PW-400

アイリスオーヤマ ポスト レッド PW-400

 

 

このおじさんは、きっと郵便局と言う場所に耽溺してるなと思った。

不安じゃなくて耽溺って感じ。

自分の行為が相手にどう思われるか、じゃなくて自分で定めたルールを如何にして守れるか、それに対してイライラだったと思う。

帰りのバイクに乗りながら、「羨ましいなおい」と大きい独り言を吐き出した。