僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

お盆にしたこと①

ブログを書くのを一回辞めてみた。

その間の4日間は、これまで書き溜めていたものを載せて、一応毎日更新は形のうえではできている。

じゃあ、その間何をしていたのか、気になりますよね。きっと気になるはず。

この話は格好悪い。ただ嘘偽りが無いだけで、外に向けて発信するようなことではないと思う。けど、いつか誰かの心に引っ掛かればって思って書いてみる。

 

お盆で、家に1人になった。その間引っ越しの準備をしたり、適当なカレーを作って食べたりしていた。毎日寝られなくて、朝方まで起きていて、昼前に起きる。買っておいたボトルコーヒーで無理やり目を覚ます。暑いから体の外側は元気なんだけど、内側に元気が無いから、カフェインの力を借りる。そうすると必ずお腹を壊す。そういえば5日間くらいずっとお腹を下していた。

3日目くらいからしんどさが顕著になった。それでも、このお盆休みの間を利用して引っ越しまで漕ぎつけようと頑張ったけど、どうにも動けない。動けないから事態は変わらなくて、事態が変わらないことに焦って、焦るからどうしようもならなくて、めそめそしていた。

お盆休みが終盤に差し掛かったある日、家でアマゾンプライムの映画を観ていた。「僕だけがいない街」。藤原竜也が主演の漫画原作映画。

タイムリープ(?)を繰り返して、近しい人を助けようとする映画。タイトルが良いなと思った。僕だけがいない。僕も、この世の中に存在してもしなくても、なーんにも変わらないだろうなぁって思っていた。外でピーチク鳴いてる鳥も、カタカタ音のする軽トラに乗ってるおじさんも、僕が居なくなったって気が付かないだろうなって。

よく、都会は孤独だっていうけど田舎だって孤独だ。周りに助けを求められる人がいなければ、声を上げなければ無いのと一緒。ただ、社会には声を上げるのにも規範がある。仲良くしていたから、状況を逐一教えていたから。それを飛び越えて、「助けて」は運良く拾う人がいたとしても、それが出来ていたらこうなってないっていう論理で打ち消される。

上田に来た時、最初に訪れたのは市役所。そこにお世話になった方がいる。

やる気に満ち溢れていて、明るい。僕が求めていること以上の仕事を何もなかったかのようにこなしてくれる。こんな人がいますよって紹介してくれたり、今の僕がいるのはその方がいたからともいえる。

けど、その方にも僕は顔向けできない。時々行くフットサルの会場で見かけるけど、説明をするのも言訳をするのも億劫で、挨拶すら戸惑う。沢山良くしてもらったからこそ、悪いことは話せない。あなたのお陰で、こんなに上手くいってますよ、って言いたい。けど、実際はそうじゃない。というか、僕の知らないところで既に色々吹きこまれている。内容は知らない。

 

 

2chの創設者ひろゆきさんも、人が生きている意味は熱交換の媒体ですよ。と言っていた。俯瞰してみればそうなる。意味とか、意義とかそういうものは人が勝手に後付けした、人生を全うするためのストーリー。その意味の無い作り話を如何に全うしたかが人が言う価値であって、本質的な価値は須らく無意味(というか熱交換)。そんなことを考えていたら、家の鍵ががちゃがちゃと音がした。

上半身裸で、机の上は汚い、隠したいものもある。もっと帰ってくるのは先だと思っていたし、映画のラストシーンの余韻に浸って、涙ぐんでいた。裸涙ぐみおじさんを見られたくない。というか、見た方も嫌だろう。だから焦った。

とりあえず片づけて、服を着て、部屋に入った。察してくれたのか、帰宅した方はゆっくり入ってきてくれて、その状態を見られずに済んだ。

 

 

そうしてベッドに転がったら、猛烈に焦燥感が襲った。帰ってくるまでに居なくなるはずだろ、無為に過ごして良いはずがない、って誰にも言われてないのに焦って焦って、思考力を失った。

だから、もう家を出ようと思った。もう家を決めるまでは、家に帰らないでおこうと。

タオルと着替えなど3日分くらいをリュックに詰めて、バイクに乗った。

とりあえず、ネットカフェに行って、東京に行くバスを調べた。目ぼしいバスは無い。

ホームレスっぽいことを何日かしたことがあるけど、体力と精神が予想以上に削られる。これが旅だったら違うと思う。次の日はどこいこーかなーって楽しみになるけれど、動機が逃避だと自己追及が否応なく始まって、ネットカフェにいても、バイクに乗っていても自分が自分を責め続ける。それがしんどい。

母親と連絡を取ったんだけど、僕からすると気の無い返事。一緒にいないし、僕じゃないし、僕がどう思っているかなんて分からない。母親が出来るのは、僕の悲しみに飲み込まれず淡々と返事をするだけ。それは分かっていても、涙が出てきた。なんで、僕は誰にも助けられないんだろう、なんで僕はこんな状況になっちゃってるんだろうって、悲しかったし寂しかった。

辛いのはもういいだろうって、何度も考えた。何度も考えて、辛いことに焦点を当てるんじゃなくて、今できることに目を向けようって思った。けど、その気力が湧かなかった。

いのちの相談窓口が検索結果の一番上に出てくる言葉を何度も検索した。グーグルでは、そういう情報を敢えてヒットしないようにされているらしく、僕が求めている答えは出てこない。

ずっと居心地が悪い。タバコを吸っても、オレンジジュースを飲んでも、カラオケに来たギャルをエロい目で見ても、僕の心は納得しないし、寂しさと悲しさが積もり積もって溶けていかない。

ここにずっとはいられないって思って、漫画喫茶を出た。居心地が悪いから。そこはクーラーが利いてるし、漫画も読めるし、パソコンもあるし携帯の充電もできる。外部の条件でこれ以上求むことはない。でも、僕の心の居心地が悪い。こうしちゃいられない、こうしちゃ生きられないって思って、「どうにかなるか」っていう希望でもなく、じゃなくて「------」っていう風に心を無音にして、お金を払って外に出た。

 

バイクに乗りながら、泣いた。自分が可哀そうで、誰か助けてくれよって。

ただ、僕は生きている。死んでない。それだけが事実で、バイクの両輪はアスファルトを掻いて前へ前へ進む。ウィンカーを出せば右手の前にある灯りがチカチカする。

僕の心臓も膵臓やら肝臓やらも、社会的なことは一切関わりなくただ働いてくれている。

僕には少ないながら、その人が死ぬまで付き合うだろうっていう友達がいる。その人が言っていた「人間はとりあえずで前に進むんですよ」という言葉を思い出して、とりあえずアクセルを回す。右手に呼応して、軽い車体がぐんぐん進む。たったそれだけのことなんだよな、と思った。

どうなるかなんて分かんないけど、今行ける、一番居心地の良い場所に帰ろうと思った。

アパートの前に差し掛かって、エンジンを切る。惰力で駐輪所まで進んで、ワビコちゃん(バイクの愛称)ありがとうね、と言って鍵を閉める。

とりあえず、家に帰った。