僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

不安から回避へ移行する

夜からタリーズに来た。

テスト前なのか、高校生らしき人が沢山。皆、ジャージ上下でイヤホンを付けてポニーテール。

鞄が乱雑に置いてあって、その上に教科書が山ほど載っている。オレオとかカントリーマァムとあのゴミを隠そうともしていない。

知り合いめっちゃいる!!と騒いで入ってきた男子3人組は、注文をしないで何やら動画を見て盛り上がる。

なんでこんなイライラしてんだろ、と思う。

ルールを守ってないってことは、多分後付けで、いつも通り静かで読書と作業ができるスペースじゃないことに怒ってるんだと思う。

認めたくないけどそういうこと。

店を出ることも考えたけど、湧いてくる雑念は自分の中のものだよなと思い本を読むことにした。

 

愛着シリーズの2冊目。岡田尊司さんの「愛着障害の克服」。

 

 シリーズものって、大抵同じようなことを書く。

なので読む必要は無いのかなって普段は思う。けど、この愛着障害シリーズについては、むしろ同じ内容を違う角度から言語化してもらうことで、何度も何度も自分の中に取り入れたいなと思っていたから、むしろ歓迎。

 

 

また本書からの引っ張ってくることになってしまうんだけど、愛着障害には種別がある。色々あるらしいんだけど①不安型と、②回避型についてまず書く。

 

不安型と言われるものは、生育期の愛着に問題があって、過剰に気を遣い、人の顔色を窺いすぎてしまう、自分や自分がした行動に対して低い価値しか無いと思ってしまうタイプ。女子に多いよね。きっと。

上田に来てからの知り合いで、まさにストレートにこのタイプがいる。お父さんに認められたくて頑張っているけど、なぜか満たされたない。好きだと言ってくれる人に、簡単にベッドを共にする。それなのに「彼氏」はいたことが無い。

一度、彼女と話をした時「どうしても不安で満たされないの!どうしたらいいの!」と真剣に言っていた。その時の僕は、この人はこういう風に周りに吐き出して、波が収まったら何事も無かったようにするから、放っておくしかないと思っていた。

 

もう一個愛着障害のタイプは、回避型といわれるもの。

これは、愛されなかった経験や、強い喪失感によって、感受性や共感性をオフにして自分を守ろうとするタイプ。超然としている人とか、やたらヘラヘラしている人に多いと思う。

僕がこのタイプで思い出すのは、札幌にいた時の上司にあたる人。穏やかで、人当たりが良くて、何事にも動じない。でも、目が死んでいて、ふとした時に悲しい表情をする。何事にも動じないっていうのは、それだけで結構人気が出るもの。事実、その人は部下から慕われていた。

 

というのが、2つのタイプの説明。

そんで、僕は愛着障害シリーズを読んでいて、ずっと念頭にあったのが「不安型は、回避型に転化していくんじゃないか」ってこと。

もしかすると一般化できない話かもしれないので、僕の事例を記す。

 

僕は当たり前のように不安型に類されると思う。

たっぷり苦しんでいるし、色んな本を読んで、自分に当てはまるものが無いか沢山調べた。その中で●●障害とか個別のものじゃなく、根源的な要因として納得できたのが愛着障害の不安型。

 

引っ越しを決めた頃から、母親と連絡をとっている。

最初は良かった。これまで満たされていなかった「話を聞いてもらう」というところが、満たされて心地良い。だけど、徐々におかしいなと思い始めてきた。というか、何か起きたとしても彼女は安定はしている。というか安定だけしたふりをしているなと思うようになった。

僕が何を言っても、オウム返しで手法としては正しいのかもしれない。

なんだけど、何か心がこもってないというか、何かをみない振りしているという感じ。

それで、この「愛着障害」シリーズを読んで思った。彼女は不安型から回避型に移行しようとしているんだ。超然とした態度で、誰が何を言おうと気にしない、捉われない。そういうこと自体に捉われている状態。それがきっと回避型っぽい感じになる。

最初、それに気が付かず、模倣しようとした。僕も超然としたい。僕も自分が自分であり続ける、そんな彼女になろうとした。

だけど、少なくとも僕はそれで満たされない。愛着の問題を避けて、心を保全する生き方(回避型)じゃなく、心を誰かと通わせて生きたいと思うようになった。

 

愛着障害の不安型と回避型が移行していくんじゃないかという仮説について、もう少し一般化して書いてみようと思う。当シリーズを読んでない人でもわかるように書いているつもりなので、諦めず読んでいただきたい。

 

人って、年を取ると多くのことがどんどんどうでも良くなってくる生き物だと思う。というか、自分の心地良さと、周りの目を比較して前者を選択するようになるものだと思う。

老人が50歳の頃に買った服を着続けるように、僕が楽だから靴下を履かなくなったように。

これを、大人になるってことの意味だと思う。でも、きっとその大人っていうイメージは「疲れた大人」であり、「心がすり減って悲しい大人」であるように思う。

そこに、不安型から回避型へ移行する妙味が隠されていると思う。

不安な気持ちでいることは、自身の心にとって確実に不愉快なこと。それを解消するためには、不安を感じなければ良い。

だから、心の感受性を弱めて、その部分についての会話は、シャットアウトもしくは、「これはこうなっているから」と断じて、コミュニケーションを取ろうとしない。

きっと、不安型の人にとっては、画期的。だって、ガードさえすれば自分が自分でいられるんだもの。

けど、不安型なのか、回避なのかの違いであって愛着に課題があることには変わりがない。変化していくことについては、賛成なんだけど、不安型からの脱却が、回避型(っぽい)やり方であるのか、それとも愛、愛着、「安全基地」によるものかどうかの違いだよな、と思う。