僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

暇に関して

昨日は、夜中にアイスを買いに行って、寝っ転がりながら食べた。夕食はすき家だった。しかもメガ牛丼。

関係無いけど、すき家の牛丼って何盛りを頼んでもご飯と牛肉のバランスが、常に悪いと感じる。お肉は少ないのに、ご飯がしゃばしゃばになっていて、一体何を食べているんだろうかと言う気になる。

その点松屋は、優れている気がする。どのメニューも食いしん坊の気持ちを存分に理解したつくりになっていて、何を頼んでも「これよこれこれ」となる。

それでも、すき家って沢山ある。きっと狙っているのは、飲食業界のスーパーヒーローいなんだと思う。一部の隙もない完全無欠さ、全年齢に好かれる公正さ。

そう思うようになったのが、すき家のCM。牛丼屋なんて、深夜に男1人で食べに行くか、飲み会終わりの大学生が行く場所を求めて辿り着く場所。

なのに、CMでは確かバナナマンの設楽さんと、安めぐみさんが夫婦の役で出演して、子供と一緒に食事に行く。お父さん扮する設楽さんは、「うな牛にしようかな~」なんて言う。

僕が見るすき家にいる家族は、大抵が母親とその子供。きっとお父さんが何らかの事情でいないか、その日の夕食時だけお父さんが不在なのかどちらかだと思うんだけど、必ず母親とその娘。そして、彼女らは俯いてもそもそ食べている。今のところCMで、ゼンショーが狙っている効果は出ていないように思う。

すき家の話、もう一個だけしたい。すき家ラジオというのが、店内でかかっている。少しの毒気も無いDJが「今日のナンバーは希望の轍!!」とかって言ってる。アンパンマンを見せられているような、外連味のなさ。

再度言うけど、僕にとって牛丼屋は男がもそもそ胃袋に米と肉を入れに来る場所。間違っても家族団らんの場所じゃない。なのに、スピーカーからは「すき家レディオ!今日も暑いですね!」。実際にいるのは暗い顔の母娘か、小太りのおじさん。けど、流れているのは全年齢対象の誰もが聞きやすいラジオ。ギャップが心地良い。

 

こんなことを考えるのは、僕が暇だからだと思う。

確かに毎日忙しくない。好きな時間に寝て、好きな時間に起きている。悠々自適かと言われたらそうかもしれない。

ワンパンマンっていう漫画がある。主人公のサイタマは、強くなりすぎたヒーロー。強すぎるがゆえに悪党を一撃で倒してしまうからつまらない。そんな葛藤を書いた漫画。

強すぎるサイタマが敵をバッタバタと倒す中、悪党がサイタマによく尋ねる質問がある。「お前なんでそんなことをしているんだ」。彼はこう答える。「暇つぶし」。

そうすると、悪党は必ず怒り出すか、理解できない!という態度になる。まぁそうよね。それが自然だと思う。

 

ワンパンマン 19 (ジャンプコミックス)

ワンパンマン 19 (ジャンプコミックス)

 

 

よく、人生は暇つぶしだと思う時がある。

今読んでいる、國分功一郎さんの「暇と退屈の論理学」の、「考える葦」で有名なパスカルが書いた、暇について書かれた箇所を読んでそんなことを思った。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 

何とかかんとか銀行に勤めながら、海外のなんちゃらこんちゃらを支援するNPO法人の理事長を勤める知り合いの知り合いは、そんなことと対極の位置にいる。沢山働いて、使命感に燃え滾る人にとっては、暇つぶしなんかじゃなくて、これは俺の生きている理由なんだ!人を救って笑顔にするのが生きがいなんだ!って思っていると思う。

まったく否定するつもりはないけど、それって暇つぶしとどう違うんだろうとは思う。暇つぶしで人を笑顔にできたら、そりゃ最高だし、お金なんかももらえたらもっと最高。

もう一個、ワンパンマンの好きなシーン。

主人公サイタマが、突然現れた地底王と自称する怪人たちに襲われて、苦戦する。血を流しながら「俺が求めていたものは、こういうギリギリの勝負だ!!」みたいなことを言う。戦いの佳境になって、目が覚める。そう、夢の出来事であって現実の怪人は、いつも通り「ワンパン」で倒してしまう。

要は、苦しみたいんだよね。人は。それはなんでだろうか。

 きっと、自分と向き合うのが嫌だから、それを避けようとして色んなことをするんだと思う。

その中に、苦しみがあるとより燃える。暇→やることの間に、苦しみがあると「暇」が急に見えなくなる。

苦しみなんて無くなればいいと思っているけど、必要悪のように、生ごみには必ず蠅がたかるように、セットとして存在しているなと思う。

 

 

もうちょっと踏み込んでみる。

個人的には、暇を緩和するのが苦しみだとしたら、その中和剤は要らないと思う方。

暇と苦しみを天秤にかけたら、暇が圧倒的に重い。

 もし人生が暇つぶしなんだとしたら、暇つぶしを操作することは当然人生そのものを操作することになる。

だから、やることが無いから(暇だから)好きでもないことを仕事に選ぶというのは、ある意味最高の暇つぶしなんだと思う。特にサラリーマン的な働き方。

だって、時間は必ず一定以上消費されて、ある程度苦しくて(必須条件)、お金も入ってくるし、ひょっとすると名誉も手に入れられるかもしれない。

だから、好きなことを仕事にしよう!っていうのは、ある意味暇つぶし的な考え方からすると、非合理的なのかもしれない。

まぁ、少なくとも僕にとっては「ある程度苦しくて」じゃなくて「死ぬほど苦しい」だから、それは選べないけどね。結局は程度問題なんだけれど。

暇を楽しめるかどうかが、きっと楽しい生き方なんじゃないかって思っている。

忙しいと言っている人は、総じて暇の苦しみを避けていると思う。忙しいと言いたいから忙しくしている。みたいな。

だから、忙しいことも、暇なことも選択できるのがベストであると思う。

特に、新しいことっていうのは、暇から生まれると思っている。

リンゴが自然落下することに気が付くのなんて、大暇人でしか有り得ないと思う。誰もやったことの無い飛行機を作るのなんて、暇つぶしの真骨頂。

よく、馬鹿になれ、みたいなビジネス書があるけど、僕からすると暇になれ!って言う方が近い。というより、より大きい枠組みが「暇」だと思う。

だから、暇で良いんだと思う。

もしかしたら暇なことへの罪悪感から逃れるためにそう思い込もうとしているのかもだけど、きっと暇からしかオリジナルなものは生まれない。そう信じている。