愛は非情か
昨日に引き続き、根無し草の彼女の話。非情にならざるを得なかった僕ら。その思考回路を書いていこうと思う。
非情が愛の形であるはずがないとつい思ってしまう。けど、非情にならざるを得ない。それが今の僕の立ち位置で、突然変えられないから。大体そんなことを書いている。
1.はしがき
突然現れた彼女。詳しくは昨日のブログを読んでほしい。読んでいない人に向けてまとめて書くと、いきなり現れたホームレス状態の女性を家に泊めて、すぐ放流したって話。
正直に言うと、別れたという場所まで様子を見に行った。彼女はいなかったけど、何となく自分の中で納得をするために行った。悲しいとか、後悔とかをしないため。そんな利己的な理由でバイクを走らせた。
全然納得していない。彼女の生き方も、僕らのとった行動も。
それゆえに苦しんでいる。だから今日は「そんなこともあるよね」、って思おうと思う。
2.自分を守ることと、相手を守ること
彼女の生き方は少なくとも僕らにとって受け入れられなかった。
僕らがアラブの石油王だったら、いいよー!好きに部屋使って!って言うと思う。けど、当然そうじゃない。
そして、もし僕らが本当にそうだったら、彼女は声をかけない。近い存在だと感じ取ったから、声をかけたと思う。
だけど、受け入れられないし、納得もできないから、彼女がもしかするとその日に死んでしまうかもしれないという可能性も考慮に入れて、突き放した。
黒人が、白人専用の飲食店に入れなかったように、僕らのルールにそぐわない彼女を受け入れなかった。その方が彼女のためだよ、なんてお為ごかしをして。
そう、現実として、確かに受け入れることはできなかった。
世の中の非情さって、黒人とか白人とか韓国人とか、モンゴル人とかっていうラベルで生まれる。今回、たまたま彼女がホームレスで、親に認められたい人だったっていうラベルを僕が付けた。だから、本当のところは分からない。
でも自分を守ることに固執した。その事実しか残らないし検証のしようが無い。
正しさを自分に求めるとしんどい。正解はなんだったのか、どうすべきだったのか。突き詰めるのって難しい。
そして相手にも正しさを求めるとしんどい。ただ苦しんでいた人が助けを求めてきた。それだけのことで、正しさはそこにない。
善悪じゃなく、自分と異なる存在は受け入れられない。存在を知っていたとしても、認めることができない。
そんな決断となった。
3.ポジショントークは避けられない
彼女に対して、どうするべきだったのかが頭の中を渦巻いて離れない。
そこにこだわって、実際にはどうあるかよりも、どうするのが誰の感情も傷つけず、未来に向かって前向きに歩んで行けたんだろうかって悩んでいる。
答えなんて単純で、お互い合わなかったね。でファイナルアンサー。だけど、助けられたんじゃないか、もっと良い方法あったのだろうか、って考える。
この一件で、人は自分の置かれたポジションでしか人は物を語れないと思った。ポジショントーク不可避。
電通の社員は、きっと下請けに対して傲慢に見えるだろう。でも傲慢が先にくるんじゃなくて、電通という会社が大きいよねっていう認識がそうさせる。でも、その認識は崩せなくて、それがポジションになる。
そのポジションは、いくらでもある。会社員、夫、妻、子供、何でもござれ。今自分が置かれている立場、それを利用して相手と対峙するしかできない。誰にでもフラットになんて、きっとユートピア。
4.非情が愛の形なのか
このブログでは、愛とかについて書いてきている。
今の時点で、愛とは「相手の存在を認めること。認めるというのは今その時の相手の役割や動機に気が付き、それを受け入れて自らが変化していくこと」となると思う。
だから、その点で言うと彼女は真の意味では僕らを必要としていなかった、と認識している。出会った当初は必要とされていると思ったけど、話してみたら違う。みたいな。
だから、変化した。受け入れようと思ったけど、受け入れて欲しいわけじゃないのね、って。ただそのやり方が、彼女の状況にとってはもしかすると命取りになるかもしれない。
愛は、優しくすることだけじゃなくて、自分が出来ないことも認めることが広い意味での愛なんだと思う。
それを行動として現すと「僕らができるのはここまで」と区切りをつけること。非情だけど、きっと愛。
僕が父親だったらそうしないだろうし、ホームレス支援の人だったらもちろん違う対応になる。でも、僕は今そうじゃない。
何をどう考えても、何もしてあげられない。説教だってできるけど、意味は無い。本当に求めているのは母親の愛でしょ、って言うこともできたけど、伝わるはずがない。
だから、できない。悲しいし、認めたくないけど何もできない。幸あれって思うことしかできない。
相手を非情にさせちゃうのはだめ。こっちが辛い。持ち込みたくない論理を持ち込まざるを得ない。見たくないものを見なければならない。
一緒に悲しんでって言われたら、やっぱりできない。家族や友人でも、難しい。