僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

不完全な愛を求める人

31歳のおじさんが、自らの体験や感情を言語化していっているこのブログ。今日も愛とは何か、その中でも愛を求めることについて書いていく。

愛したいのに愛せない。愛されたいのに愛されない。その不完全さが、不完全ゆえに魅力にもなり、それに捉われる。今日はそんな内容。できれば、その不完全さを打破するための心持ちについても書いていきたい。

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1.はしがき

最近無気力である。

雨が多いせいか、体調のせいなんだなと思っていた

何か心が空虚な感じ。昨日知り合いと行った大盛りのつけ麺を食べても、生クリームたっぷりのクレープを食べてもいまいち味がしない。

それで今日になって気が付いた。無気力の原因。

元妻と会話をして、僕がこう考えているって聞いてくれていることが恐らく関わっている。今、僕に何も言わず、何なら応援してくれている。それがあれば僕はどうでも良くて、この時間が出来るだけ長く続けばそれでいいって思ってしまっている。

僕が生きるうえでの目的が叶ってしまったから、動く必要が無いんだ。愛が形だけでも僕に注がれていると認識してしまっている。だから今が幸せで動く必要が無いんだ。

当然、妻は早く追い出す為にはこうするのがベスト、と気が付いてのこと。僕も理解している。

分かっているんだけど、飢餓感が強すぎて、条件が付いていようと、裏側がどうなっていようと僕には関係の無いことになっている。今ここにいることで、存在を認められるなら、その時間を出来るだけ長くする。それだけしかない。

 

2.駄目が好き

誰かを好きになることや、誰かと関係を持つことは対象となる人の「不完全さ」を無視してはいられない。

この人は、魅力的だから一緒にいたい。と思う気持ちの中に、その人の駄目な部分も含まれているということ。芸人のクロちゃんがあんなに人気が出たのは、水曜日のダウンタウンの演出のすばらしさもあると思うけど、クロちゃんの駄目な部分、クズな部分、嘘つきな部分。

きっと僕が元妻と一緒に居ようと思ったのは「この人であれば同じネガティブな感情を抱えているから、僕の気持ちだって分かってくれるだろう」と思ったから(当然それだけじゃないけどね!)。

「駄目に魅力を感じる」の典型的な例が、精神的に不安定な女性が金遣いの荒い女性関係にだらしがないバンドマンに惚れてしまうケース。

これくらい最低な相手であれば、こんなに最低な愛されていない私であっても愛されるだろうっていう気持ち。バンドマンとしては「え、そんな俺のこと好きなの、しかもダメな部分もOKなの」となるから、もう好き放題。

世の中には悪い人が好き、悪いことが魅力だっていう人もいる。中学生の時、不良であればあるほど男女交際が盛んだった。不良はコミュニケーション力に長けていたという側面や、中学生は殆どおサルさん状態だってことを差し引いても、不良であることの魅力を抜きにして、彼らのくっついたり離れたりは語れないだろう。

社会通念において駄目な人ほど、社会に捉われておらず、奔放で、自由で、人生を謳歌しているように見える。悪人がゆえの奔放さも、バンドマンの女性関係にだらしがないことそのものが魅力では無いと敢えて断じておきたい。

 

3.完全さに対する考察

前節では「駄目」の魅力についてを、不良や芸人を例にして説明してきた。

逆説的ではあるが、完全な人間とは何だろうか。駄目な部分が一切無い。完全無欠。昔の哲学で必要とされてきた神のような存在。人間が存在するためには神が必要で、それは人間の不完全さがゆえにそれら全てを補う神が必要とされてきたのは、これまでの哲学や神学の歴史を紐解くまでもない。宗教や神が必要なのは、許されざる人間を、完全な神が許してもらうため。そう、許しをもたらす完全な存在を創り上げたというのが本当のところであろう。

まだ文明を持たない頃の人類は、病気や飢えなどそれら不可解な出来事を神がもたらした行為だとして理解した。そうすることでしか説明がつかないので、供物を捧げたりして神の存在を集団に示し、共通認識とすることで理解できないことの答えとしてきた。

ここまで書いたら、神は人間が必要としたために創り上げられたということが分かると思う。そう、完全な存在や神は、空から後光に差されて降ってくるのではなく、人間の死に対する恐怖や、曖昧とした生命に対する答えとして作ったのである。問いに対する答えであり、さながらドリルとその回答集のよう。

なので、神や完全無欠は人間の論理の中でしか作り上げられず、実際に存在することは成し得ない。完全ってなんだ、悪ってなんだというその問いこそが、人が作ったものであり、その答えも自ずと人が作りあげる想像の範囲のものであろう。

 

4.駄目について

前節は少し遠回りをして、完全な存在について考察してそれを想像上のもだとした。今節では「駄目が好き」が関係性を築いた時、当記事でいう「不完全を求める」が成立する。その様式について考えていきたい。

自らを素晴らしいと思うのも、「駄目」だと思うのもどちらも自分の中の評価、いわゆる自己肯定感の多寡である。もしそれが足りない時、人はどうしても他人に縋らざるを得ない。単純な形。

自己肯定感の多寡と書いたが、これを詳しく記すと、その人が持っている愛の多寡ともいえる。愛の総量は、岡田尊司さんの「安全基地」という概念によって育まれると考えていて、特に幼児期にどれだけ養育者から「安全基地」として関わってもらったかが、愛の総量を積み上げる重要な要素となっていて、それが無い状態での「成功」は仮初めのものであり、実際の生活の満足感に比例しないように思う。

不完全さを求めることを説明するとなると、「足りないがゆえに足りない」に、もう少し要素が加わる。

駄目な自分が、相手に好かれるのは駄目な相手が必要であり、駄目具合(≒愛の多寡)が似通った相手を嗅ぎ取って、関係性を築く。そのコントロールは、恐らく百発百中だと思う。お互いが欠けている部分が違って、それを補い合える関係性となれれば良いが、愛の不足を感じている人は、必ず愛の不足している相手を必要とする。同じ課題を抱えている人を嗅ぎ分け、求めててしまう。それが、不完全な愛を求める構造であるように思う。

 

5.解決策は

不完全は魅力であり、それを契機にして同じ程度の愛を持っている人と引かれ合うようにして、関係を持つ。不完全を求めているのではなくて、不完全な自分を相手に透写しその人を愛そうとするのが問題。

不完全ゆえに不完全。ホームレスがゆえにこれからもホームレス生活が続く。借金があるから借金をする。そんな転換不可能な厳しいようなことを書きたいのではないのだけれど、実際にはそうなっている。ただ、そのような構造になっていることに気が付くことで、変わっていくきっかけにはなると思う。