僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

お金と愛

お金と愛の関係について書こうと思う。お金ってすごく大事。自尊心も、物欲も性欲もほぼなんでも満たしちゃう。

お金って元々貝殻だったらしい。物々交換の時代は、食物が腐ってしまうから、形が変わらない貝殻を媒介することで、交換がすごく便利になったらしい。すごい発想だよね。

貝殻を使い始めた瞬間に資本主義経済の成立や、それにまつわる色んな課題が起きる未来は決まっていたと思う。そんなことを大学院時代に話していた。

お金が全てだ!という価値観もすごくよく分かる。手段のひとつだったものが、目的になる倒錯。

だけども、愛は貝殻よりももうちょっと大きい概念。どっちか一方とかでなく、どちらにも役割がある。そのようなことを書いていこうと思う。

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関係無いけど、ユーロって見た目が派手で格好良い。

 

 

 

1.はしがき

髪が伸びてきた。前回切った時は、横と後ろを5ミリくらいにして、上から被せるような髪型。なので今は上の髪がやたらと長く、横はそんなに長くないという悪い意味で微妙な形。今日は、前髪を耳にかけて首にさわさわする部分を100均で買ったゴムでまとめてみた。変則ポニーテール。知り合いの白人女性に「今日髪型かっこいい」と言われて嬉しい。

基本的に長髪パーマが好き。美容室に行くのは得意でないし、毎日髪をセットするのも面倒と思う。長さがあってウェーブがかかっていれば、そんなにダサくはないはず。ポニーテールにしてもストレートのままよりはボリュームが出るので、衆人環視に耐えられないM字になった生え際も隠せる。

僕は小学生くらいの時、くせ毛でふわふわヘアーだった。そのウェーブをいかして、白人のような長髪にしていてそれが気に入っていた。

中学生くらいから、なぜか直毛になってきて今では、全くの真っすぐ。高校の頃には、くせ毛で悩む友達に「どうやって直毛になったの」と本気で相談されたこともある。

きっと二次性徴によって、ホルモンバランスなんかが変わって直毛になったんだろう。中学生くらいって男性が一番気持ちが悪い時。子供と大人の狭間にあって、羽化する蝶がグロテスクなのと同様な、変わりきる前の不気味さ。

 

2.愛はお金で換算できるか

愛されていたんだろうか、って日々思う。僕が生まれてきて、曲りなりにも大人になって、今に至る。それが何か不満なのよ。満足感が凄く足りないのよ。

もしかすると、子供だった頃から中学生になる男性の気持ち悪さみたいなのを目の当りにして(それも3人分)、もう気持ち悪いメーターが振り切れて元に戻らなくなったのかもしれない。

理由はどうあれ、どう考えても愛が足りない、ゆえに愛が育まれない、ゆえに満たされない、という負のスパイラルが続いている感覚。

いつも困った時は、お金で解決して自分が埋められない心を、これでなんとか、って言いう風にする。父親も、母親も。金、金金。

父親は、お金がまぁまぁある。不動産の自営業。家賃収入とかそういうので食っているから、東京のエリートサラリーマンより自由になるお金と時間は膨大にある。

それでね、昔は何か買ってやるぞとかよく言う人だった。服とか、旅行とか。キャバクラ嬢に貢ぐおじさんが、ブランドものを買ってあげるのは自分の価値が、お金だと思っているから。そういうお店だったら、スマートなお金でしか関われないお互いの立場。なのでそれが恐らく正解。

父親は父親として、1人の人間として僕ら子供に関わる自信が無かったんだと思う。それを隠す為に、お金を使って僕らを満足させようとしていた。

母は、僕が長野に来るとき「引っ越し祝い」と言って包んでくれた。その時の僕らの親子関係は最悪。「あ、これは手切れ金なんだな」って思った。

幸いにして、そうはならず何とかかんとか(一応)関係は続いている。だけど、肝心な時にはお金。

そこじゃないの、と僕は思う。愛はお金に換算できるとけど、お金を愛には換算できないと思う。愛とお金の関係性は一方通行というか不可逆性のものだと思っていて、愛があるからその形の一部として「お金」がある。でも、自分には何もできない(と思っている)からお金で愛を表現するのは、ただのキャバクラだと思っている。

 

3.お金の役割

最初にも書いたけど、お金は交換手段。交換の間に腐ったり、壊れたりし辛いお金を入れることで、物々交換の煩雑さから解放されたと思う。

お金は偉大。お金があるから、自分が食う分の食べ物を誰かが作ってくれるし、自分が苦手だと思うことを誰かがやってくれる。得意なこと、合っていることを具体化してくれるのがお金だと思う。分業だよね。

分業は効率が良い。札幌での職場の裏庭で、施設の利用者と野菜を作ったことがある。

僕が雑草を抜いてスペースを作る。利用者はそのスペースにある石ころなどを取り除く作業をする。2人が2工程の作業を同時にするよりも、2人が違う作業することで練度が高まりスピードが上がる。そう、それが分業の効率の良さ。余談だけど、その利用者は強い日差しと作業後に飲んだアイスコーヒーで脱水症状になったらしく、病院に行ったらしい。

分業化することで、各人の専門性が高まって、その対価を支払う。世の中が、全て「作業」だけで構成されているなら、こんな素晴らしいことはないと思う。それがお金に対する倒錯的な思考の理由だと思っている。

ただ、お金だけで人は満たされない。ラクダのレースに興じる石油王は、暇を持て余しているだろうし、ベーリング海での蟹漁に勤しむ人達は、命を賭して得られる沢山のお金で満たされない何かを埋めようとしている。

お金はお金であるし、愛は愛。愛かお金か、じゃなくてどちらも存在していて、より汎用性があるのが愛だと思う。

 

4.カバーの範囲

お金で何でも買える。モンクレーの暖かくて軽い快適なダウンだって手に入るし、美人なトレーナーがトレーニングだってしてくれる。そこに貴賤や価値判断は無くて、ただお金を支払えるかどうか。交換できるだけの貝殻を持っているかどうか。

世の中金なんだよ!という人には伝わらないかもしれないけれど、愛についてはお金で換算できない部分がやっぱりある。

その理由は様々にあって、役割の違いにあると思っている。

愛については、お金よりももっと根源的な基礎的な欲求。人類がお金よりも普遍的に必要とするものだと思う。だから、どちらが尊いという話ではなくて、カバーする範囲の広さ。空気とランニングはどちらが尊いって比較するものではないけど、空気が無ければ人はランニングができない。そんな話。

ただ、人って思考を省略して生きるものだと思う。シャツを着る時に、一々「シャツというのは古代ローマ時代の身にまとう布切れが、今に至ったものだよな」とは思わない。それと同様に、愛が重要だよね。と事あるごとに確認はしない。逆にお金が大事だよねという趣旨の言葉は皆、納得する。札束を使ってシャンパンタワーを作ったほうがはっきりする。目に見えて、数字になっていてどれくらい持っているか分かりやすいものの方が、理解しやすいから。

昨日、帰り道の途中で会ったアメリカ人とブラジル人の宣教師は「神様の愛をうけて僕らは生きています」と僕に話してくれた。そんな素敵なことを言ってたけど、この後友達のところに遊びに行くと言っておきながら、僕の住むアパートに一軒一軒チャイムを鳴らして「神を信じますか」と布教活動をしていた。あれ、後ろめたいのかな。

愛があって、お金がより役立つ。愛があって人は満たされて、更にお金があってより満たされる。そんな関係だと思っている。

 

5.同質に近づいていくのか

僕が今ある全ての人間関係を断つ代わりに3億円貰えるとしたら、絶対貰う。

それくらい魅力的。だって、仕事しなくていいし、生活の不安なんてなくなる。でも、お金があったうえで、また誰かと繋がりを持って、愛を望むと思う。

これから全ての人間との関わりを断て、その代わり3億円。となったら多分貰わない。全てを断ってしまったら、商品が買えなくなってお金の意味が無いから。

それくらい、お金がカバーする範囲が人の生きることに密接になっていて、さもすれば愛と同じように感じてしまう。その良し悪しは置いておいて、今後もお金の性質はどんどん大きくなると思う。もしかすると「あなたに愛を贈ります」っていうサービスが成立するかもしれない。それを買えば、満たされなかった愛が満たされるサービス。そんなものがあったら、僕はそれを買うと思う。