僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

孤独について

和を以て貴しとなす、が日本人のあるべき姿だとしたら、孤独でいることはもしかすると恥ずべきことなのかもしれない。

孤独→寂しい・怖い・辛い→誰かといてもそれを埋めるための付き合いかたになって上手くいかない→埋まらない孤独、というループが簡単に起こる。現実として凄く有りがちだけど、僕の知る限りは誰も言語化していないように思っている。なので今日は、孤独について考えていく。孤独が辛い、怖いという人に読んで欲しいと思う。

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1.はしがき

散歩を始めている。ご飯を食べて、真っ暗な田舎道を歩く。思えば最近はバイクにばかり乗っていたから歩いていない。

歩いている間、色々考えて捨てて、っていう繰り返し。浮かんできた考えは全部自分のもの。だから、正解とか不正解じゃない。出てきたどんな考えも感情も全部咀嚼しながら、スローに歩く。大体1時間。瞑想よりも散歩の方が脳に良いと思う。

僕が育った家庭は歩くのが速かった気がする。せせこましい性格ではないんだけどテレビで見た「歩くのが遅い人は知能指数が低い」というのを真に受けて、出来るだけ速く、速く、となっていた。今考えると、歩くのが速い=頭が良い=良いという考え方だったんだろう。競歩世界一の人が、世界で頭が一番良いみたいな単純な図式。それを単純に信じ込んでいるから歩くのが速いんじゃなくて、もっと複雑な回路がある。

「頭が良いのが良い」と本心からずっと思っているけど、そのことについて自信が無い。だから「頭が良いことが良い行動」(ここで言うと速く歩く)を無理やりしてアピールをする。そのアピールが本当に語りたいのは「私をわかってよ」もしくは「私のことをなんで受け入れてくれなかったの」。

なので「速く歩く」ことの動機が、本当は「わかってよ」なので、表情や佇まいが不審になっちゃう。スポーツの試合の時に、余計なことを考えない方が良いのと一緒。そうなると余計伝わらない。誰もあなたのことを頭悪いなんて思ってないのにね。

 

2.暗いは怖い、1人は怖い

部屋を暗くするのが怖くなったことがある。寝る準備をしようと、ドアとカーテンを閉じ、部屋の電気を消してベッドに横たわった途端、恐怖心でお腹が痛くなった。僕が感じる恐怖は、いつも閉塞感。閉じ込められて動けなくなるような感情。

知り合いが地震で停電した時のことを、ポエム調にインスタグラムに投稿した文章にも「暗いは怖い」と書いてあった。暗いは怖い。うん。怖い。人間は視覚情報に頼っているから、僕らの祖先が火を使って灯りをつけたように、物理的に見えないとやっぱり困る。暗がりから獣が襲ってくるかもしれないし、変態が待ち構えているかもしれない。

ただ、そんなことって滅多にない。特に自分の部屋の中で、一時的に暗くなっていることが怖いというのは、ほとんどイメージの世界。

きっと孤独が怖いんだと思う。1人だから、誰も助けてくれないから、1人だと生きられないって思っているから。精神的に誰かと離れると怖い。要は、心が子供のままで養育をしてくれる誰かを必要としている状態。

 

3.子供でいると怖い

子供や大人ってどう違うんだろうって考えた時に思い出すのがフロイト。エディプスコンプレックスという概念、僕は未だに何が言いたいのか分からない。

それでも心理学の巨頭ともいえるフロイト。無意識ってあるよねとか、発達段階についての言及したことうなずける。

フロムの著作「疑惑と行動」では、フロイトの「口唇的性格志向」を以下のように説明している。

「口唇的性格志向を持つひとは『すべての善の源泉』が外部にあると感じ、しかも自分が求めている、ものや情愛や愛や知識や喜びは、外部にある源泉からえられるのだと信じている。このようなひとは「愛されること」のみを考え、愛することを考えなくなる。このようなひとびとは愛の対象を無差別に選ぶ傾向がある。というのは、だれかに愛されるという体験があまりに大きいので、自分を愛してくれる人や愛してくれるようにみえるひとに、「溺れ」こんでしまうのである。そして自分を愛してくれるひとが、愛を撤回したり、拒絶したりすることに対して極端に敏感となる。』

この文言、岡田尊司さんの言う「愛着障害不安型」によく似ている。

年齢として子供の人も、成人を越えていても精神的に発達しきれていない人も、「口唇的性格」や「不安型」の傾向を抱えている。さも悪いことのように書いたけれど、これをポジティブに言い換えれば愛されて愛されてしょうがない人、とも言える。けど、その愛に気が付けずがゆえに愛せないと、殆どの人が辛いと思う。

前節で、暗いのは情報が見えなくて怖いんじゃないかって書いた。「口唇的性格」でいること「不安型」でいること「子供」でいること(この記事内では同列として扱う)は、愛されることや養育を必要とする人間であるということ。

それらは不確定で、いつ出てくるかいつ消えるのか分からないもの。3歳の子供だったら殆どの場合、養育者がいるけど、成人済みの人はそうでない。

ラブラブで付き合っていたのに、ある日突然タトゥーを入れた輩と浮気されることだってあるし、子供であれば突然両親が離婚してしまうことだってある。

要は他人は、自分でないがゆえに思う通りに動いてくれない。親だって自分の見えないところで実は闇金の取り立てにあっているかもしれないし、いつも機嫌の良い友人だって今日は妻とケンカしたてかもしれない。

「怖い」は、暗闇と同じように何が起こるか分からない状態。それって他人の心と一緒。どうにもできない、自分の外側の出来事。

 

4.孤独でいられること

1人で居られる人が、他人とも付き合うことができる、というのは真理だと思う。表面上の付き合いはできたとしても、自分が納得する形で自分が満足するためには、付き合いに対しても「行為者」であることが必要。それは、つまり「愛されるために」付き合うのではなくて「愛するために」付き合って、結果「愛されていた」という具合。

それに必要なのが、自分を愛すること。自分を認め、自分の役割を見出すことができるのであれば、人は他人を愛することが出来ると思う。

下重暁子さんの「極上の孤独」で、1人でいる時が本当の自分であると書いていたように、人は何にも邪魔されない、干渉されない状態が、人の基礎状態であると思う。

ただ、こう言ったところで「今寂しいから寂しいんだよ」っていう話だと思う。病気になって病院に来ているのに「生活習慣から変えていきましょうね」って言われているような。まず治療だろ、まずこれからじゃなくて今の話だろ、ってことだよね。

もし、どうしようもないくらいだったら誰かに話すしかない。でも、話せないから孤独なんだよね、というループ。そう、煮詰めていくとなべ底に残るのは、他人でも社会でも何でもなく自分。自分が、この孤独をどうするか、それだけ。

寂しいも、辛いも、孤独もそれを感じている自分を「そう感じているんだね」って受け止めることからスタートすると思う。それが辛い孤独な状態から抜け出す最短ルート。