僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

平等・比較・違い

とある人に、心に貴賤は無いと言われた。全く同感。僕としては、僕の方が話している内容について詳しいと思っているから、教えてあげようみたいな気持ちだったんだけど、受け取る方はそうでなかったらしく、貴賤と言う言葉を言わせてしまった。自分が偉いなんて思ったことは無いし、もし偉いという言葉を使うとしたらこんなに大変なことがあっても、現在も生き続けているだけで偉いな、と思っている。

平等とか、比較とかそういうものっていつも人を苦しめると思う。

でも平等や比較で苦しむって、僕が今からサニブラウンに100m走で勝てなくて、苦しんでいることとほとんど同じような気がする。そんなことを書く。お付き合いください。

f:id:yashimaryoz:20190905190227j:plain

 

 

 

1.はしがき

インド料理屋さんに行った。短髪で前歯にすき間がある優しそうな店主。カウンターに座ると話しかけられる。元々、岐阜にあった祖父のインド料理屋さんを手伝いにきて20年以上。日本人女性と結婚をして、子供もいる。

ゆくゆくは子供に店を継がせたいと言う。長男はサッカーに夢中で、長女はダンスをやっているけど「お父さんの店私がやる!」と言ってくれているらしい。

従業員は、店主の兄弟や親戚関係者。他の同じような店よりも雰囲気がポップ。

インドではカースト制が未だに存在していて、両親の職業を引き継ぐという慣習が幅を利かせているらしい。そのせいなのか分からないけれど、店主は祖父と同じ業種。手伝いに来ている親戚らはずっと店員のままなよう。

このケースとカースト制を同列には語れないと思うけど、その話を聞いて身分とか平等ってなんだっけ。となった。

 

 

2.平等の在り方

「みんな違ってみんないい」金子みすゞ。中学生の時にこの言葉を聞いて、なんて素敵な考え方なんだろうと思った。ただ、今は「良いってお前が判断するんじゃねえ」と思う。人はみな違う。それだけだと思う。

平等を考えるにあたって、3つの階層があると考えている。

①命であること、今ここに存在していること②心や愛などの目に見えない概念的な部分や、自分では物理的に変えられないようなもの③行動、お金、社会的なものなど目に見える部分。

①は、全ての人が平等であると思っている。貴賤や良い悪いの判断とは一線を画すもの。Aさんの命が尊くて、Bさんの命が卑しいということは、「命そのもの」で考えるとあり得ない。心臓の拍動にも、虫にも動物にも命の優劣が無いように「生きていること」としか捉えきれない。そもそもが比較する対象とならない、というのが正確であると思う。

②について。愛や心についてとなると、多少他人と比べる度合いが生じてくる。

僕の個人的な話だけど、母や兄に対して純粋な愛に近いものを注いだようと思っている。兄の心の内側がどうなっているかは分からないけど、僕からすると「なんで兄ばっかり」という気持ちになる。

愛を注がれた人は、やはり自分に自信があるだろうし、自分の存在を疑うことが無い。それが無かった人とは比べ物にならない程の差がある。

ただ、証明の仕様が無い。愛の多寡、心の崇高度合い、なんて受け取り方や、その人本人の言葉で判断するしかない。だから、侵すことのできない部分であるという意味で、比較することができない。

 ③について。フットサルがすごく上手な選手がいる。毎試合ドリブルで相手をかわして点を獲る。その選手とまともにドリブルが出来ない僕。スポーツとして競技として行うのであれば、前者が試合に多く出ることは必至。

父は高級外車に乗っている。その車で高速道路に入ると、追い越し車線から軽自動車に抜かれるらしい。この例は稀だろうけど、きっと純粋に速度が出るのは父の車。

そう、技術や性能の違いというのは、全く平等でない。フットサルで褒められるのは、僕じゃないし、煽られやすいのは軽自動車。

ただ、平等か否かというと存在そのものを区別するやり方。フットサルは上手いことだけが全てじゃない。エンジョイするというやりかたもある。航続距離は軽自動車が優れている。そこにあるのは、単純な違いでしかない。

フットサルが上手なのは、上手くやれるメソッドを知って、それを試合で活用できるように長い時間をかけて訓練したもの。僕はメソッドも知らないし、それを知っていたとしても体現できるほどフットサルに時間を費やしていない。

お金があるかないかも、今の世の中では貴賤になりがち。僕もお金持ちは偉いって思っちゃう節がある。だけど、そのお金持ちは、お金を稼ぐという面において優れている人であって、稼いでいない人とは違う。そう、違いでしかない。

 

3.「不平等」の大元は

大学院の頃、学生同士で性役割についての話合いをしたことがある。

最初はいわゆる女性らしさ(昔ながらの男性が求めるような)を求めてはいけないよね、みたいな論調。左よりの学校だったせいもあるだろうけど、フェミニストらしいフェミニスト女性専用車両について滔々と語っていた。

そこに割って入ったのが同級生の会社社長。40代。「男女が全く同じは変だよね、だから今まで通り男性には男性、女性には女性の役割があるよね。以上!」みたいなことを言って議論が終わった。

その人は浮気マンで、家事負担は自分が少ないものの、絶妙なバランスでお互いにやっているという主張をする人だった。浮気はともかく、少ない方が言う絶妙なバランスってと家事においては妻が負担しているから絶妙って言葉になるんだろうと思う。

僕だって女性が履くスカートが大好き。ひらひらしすぎていても嫌だし、しなさすぎるのも違う。ちょうど良いひらり具合が重要。

スカートを履いている女性に、素敵ですねと褒めたら「女性の役割が●●で~!!」って怒られたとしたらどうだろうか。いや、別に今そんなこと話していないし、どうしたんだろう。となると思う。 

人が、平等とか、違いとか考える時、もう既に何らかの不満があってのこと。

「あいつばっかり」「なんの努力もせずに」「男のくせに」「おじさんなのに」とか。

「あれ、なんか自分が見下されている気がする」っていうのがスタート。そこから始まって「自分が女だからだ」っていう結論が出てくると、「やっぱり男性は女性を差別しているんだ!」っていう思考になる。

勝手な罪悪感というか被害者意識みたいなので人と関わると、全ての人と対立が出来ちゃう。だって被害者なのは決まっているから、相手は必ず加害者。そもそもが対立しようとしている人に何を言っても、対立にしかならない。スカートの例で言うと、僕がスカートを褒めなくとも、いつかどこかで僕に対して怒りを「女性の権利」に変換してぶつけていたことだろう。

僕はジェンダー論についての専門家でないし、それについて研究する気もあんまりない。ただ、その人がどう捉えているか、というのは気になる。

女性は辛苦に耐えてこそ、魅力が際立つという価値観の人もいるだろうし、もっと奔放で自由を求める女性もいる。男女の性差やその役割の歴史がどうなっていたかを知っていた方がより良いとは思うけど、知らない人だって沢山いる。僕はフルートを一音もだせないのとほとんど変わらない。

なので、その人が「どういう人なのか」が重要であって「性差について学術的にどういう立場をとる」かはさほど重要でない。(当然今ある学説や立場を知っていた方が絶対楽というのは強調したい。)

このことを踏まえて言うと、スカート大好きおじさんは、やっぱりスカート大好きおじさん。「ジェンダー意識の欠片も無い時代錯誤人間」じゃなくて、スカート大好きおじさん。そう考えると、不平等感って減ると思う。

無知は罪だし、無知について無知なことも罪だとは思う。けど、それを人に求めるんだったら、自分が教える以外無い。面倒くさいよね、絶対。だからスカート大好きおじさんって思った方が楽。

 

4.達観したい

平等を求める時、人は不満があるからだよねと言う話と、それに対する考え方を書いた。

今節では、まとめに近いものを書く。1節で、階層の話をした。ざっくりと書くと①命とか②心とか愛とか③外側の部分に分けられていて、①と②は多くの場合、比較の対象とならないもの。優劣とか、そういう類のものじゃない。③については、優劣がつくものの、それってよくよく考えると違いでしかないんじゃない、ということを書いた。室伏広治ハンマー投げがすごい人。僕がやったらファウルになると思う。③の部分で、かつハンマー投げという小さい分野において像とミジンコ程の差があって、競技としては明確な優劣。

だからと言って、①や②の部分に関係があるかと言われたら殆ど無い。きっとこれが物事をより俯瞰してみること、達観みたいな境地なんだと思う。