僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

言葉は伝えるためのもの

言葉について考えてみる。

伝える手段の言葉。人が人たる理由だからか本心はなかなか伝わらない。そんなことを考えている人に読んでほしい。

f:id:yashimaryoz:20190909210503j:image

1.はしがき

我ながら言葉が好きで、言葉に依存している。その証左に毎日毒にも薬にもならない長文を認めては、ネット空間に置いている。僕の家は「なんで言葉にしないの!!??」という家庭だった。言語化訓練道場。伝えたいことは口にする、ということでもあるんだけど、多くの場合僕を懲らしめるために使われていた。「なんでそんなことしたの!!??」「なんでいつもこうなの!!??」って。言葉で説明して伝えられるのであれば、それが一番楽。ただ全部を説明なんてできない。ちょうどこのブログがそうなように、恣意的な部分を更に恣意的に切り取って言語化している。言葉なんてその程度のもの。

思えば小学生くらいから、大学生までほとんど全ての行動に対して「なぜ今僕はこれをしているんだろう」と問うて、言語化する癖ができていた。

漢字を習い始めた頃、画数に異様な程執着していた。八島は12画。愛は13画みたいに、言葉の総画数が偶数でないと気持ち悪くなる強迫性障害っぽいものもあった。ほとんど全部の漢字の画数を知っていて、テレビや看板を見ては総画数をかぞえ、奇数だ、偶数だとやっていた。きっと「なんで」に対する思考の逃げ道だったのかなーなんて思う。

言葉で伝えることを考えて、言葉の凄さと、その使い道はどうするのがベターなのか書いていきたい。

 

2.言葉はすごい

大学生の頃ゼミの時間に「動物と人間では何が違うか」という問いが教授から出された。多分答えは「道具使う」だと思うんだけど、出された答えは「言葉を使う」が多かった。すると教授は「イルカだって言葉に近いものを持っているし、犬だって鳴き声でコミュニケーションをとっているよ」と言う。ただ、生徒たちがそう答えるのも頷ける気がする。こんなに複雑で、多種多様な意味を持つ音を使うというのは、動物が使えるとは想像がつかない。

小説「人間失格」だって、文章と文章の間に太宰治の言いたいことが隠れている。もし彼の伝えたい「答え」を伝えたいだけなら何百ページも書き連ねる必要は無い。「マジで自分ダメなやつっすわ」で終わり。本人が言いたいことと、それを受け取る側との齟齬そのものが魅力になる言葉の使い方なんて、イルカにはできそうも無い。

言葉は投げっぱなしで、齟齬ありきのものだと思う。僕にとって「働く」という言葉のイメージは「マルクス、派遣労働、長時間労働、好きなことをしたい」というこれまで考えてきたことや、経験してきたことを総称して「働く」という言葉になる。一方で日清工業を50年勤めあげたAさんにとっての「労働」は「給料をもらう 、コツコツと、耐えるところは耐える」だとしたら、噛み合うわけが無い。

でも言葉がすごいのは、その齟齬すら表現できて、それを取りなすことだってできちゃう可能性を持っていること。ほんとにすごい。

 

3.イメージはどこにあるのか

言葉は自分の思いを形にしてくれる。はてなブログのトップには「思いを形に」と書いてある。

イメージとして持っていたものを、現実化する最初の手段が言葉。その素晴らしさたるや、それこそ言い表せ無い。

言葉がイメージを伝えるものだとすると、そのイメージがどんなものによってできているのかが重要。僕の例で言うと、昔から言葉にしろ!って怒られていた。その僕に向けられた言葉は、どういうイメージによって作られたんだろうか。言葉にできないことは、やっぱり不便でコミュニケーションの不全をきたすと思う。だけど、そもそもが意思を疎通させたくない、相手を否定したいというイメージが乗った言葉だったらどうだろうか。本当にコミュニケーションを取りたいのであれば、強く言ったり、威圧するような言葉は、逆効果。だから、僕がぶつけられた言葉の真意は「お前だけ弱虫でいるんじゃねえ!こっちだって辛いんだ!」だと思う。

 

4.だからこその技術

僕の小さい頃の話を例にして、言葉の真意はどこにあるのかということを考えた。

僕としては、大変な時期だったなぁと思う。毎日言葉責め。ドMなら喜ぶのかもしれないけど、小学生特有の超時間を持て余しているときに、際限無く行われていたら、生粋のドMおじさんでも嫌になっちゃうだろう。あくまでお遊びとしてドMになったりドSになるのがいいのであって、本気の本気だと疲れちゃう。

僕ばっかり被害者ヅラしてもしようがないので、兄達の観点からも。きっとすぐ泣いて、すぐ失敗する奴が家にいたら煩わしいと思う。母が仕事でいない間、「この家と家族を少しでもよくする」という責任感を抱え込んでいたんだと思う。だからもう必死だったと思う。こいつはなんでできないんだ!もっと強い言葉で、もっと長い時間をかけなくちゃ!!ってなるのは自然。でも今なら技術が大事だってわかる。

言葉はイメージの産物を相手に伝えるためのもの。伝えたいイメージが「憎らしい」なら罵詈雑言でいい。もしそうじゃないなら、相手に伝わるように形を変えていくことが言葉の大事さ。言い回しとか、態度だって大事。もし愛を伝えたいのに、相手にはそう伝わってないなら言葉を変えなきゃいけない。

その言い回しや表現の多様さこそが言葉の技術だし、それを変えられるのが言葉のうまさだと思う。

 

5.伝えるべきは

言葉はイメージを相手に伝えるものだからこそ、伝わるように変化させるのが技術だよなと書いた。

本当であればここで終わろうと思っていたんだけど、もう少し踏み込みたい。

何度も言うけど言葉はイメージを伝える手段。2節ではイメージが作られた経験などが人によって必ず違うから、違うって言う前提が大事だよねと書いた。それもその通りだと思うんだけど、もう一個掘り下げると「イメージを作りあげた経験などをその人がどう捉えるか」という側面も非常に大きい。同じ事象を経験しても、肯定的に捉えるか否定的に捉えるか。僕が挙げた「労働」のイメージは概ねネガティヴ。でもマルクス自由主義者には嫌われているだろうけど、結論は「人が発達していくこと」だと思っていて、そこを捉えるとすごくポジティブ。自民党の人だって「発達しちゃいかん」とは言わないはず。コンビニだって24時間営業は大変だろうけど、深夜に働きたい人の受け皿になっている側面だってある。要は捉え方。

ようやく結論にいけるんだけど、その肯定的、否定的な捉え方の大元を辿ると、愛に繋がっていくと思う。また愛かよってがっかりしないでね。

愛された人は、より肯定的に物事捉えられるし、相手によって言葉を変えられる。その逆は否定的に捉えて、硬直的でだから対立を生むよね。強い言葉vs泣きじゃくる僕みたいに。

言葉はイメージを伝えるためのもの、だからどうイメージが作られたかが重要で、肯定的なイメージは愛によって作られる。ということ。

逆に言うと、言葉は愛を伝えるためのものだよな、とも思う。

愛は相手を認めて、受容するもの。それによって育まれたイメージは肯定的なものになる。そのイメージは、他者へ愛を与えることとなる。みんなハッピーじゃん。