僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

みんなと同じは嫌

夜に散歩をしていて、「そういえば長野って星綺麗だったよな」と思って空を見上げた。ほぼ360度に星星星。青少年科学館で見た嘘の星空も綺麗だけど、田舎の星空はリアルで尊い。見える星に1つも星座を関連づけられないけどどうでもいい。札幌の暗さは電灯が少ない暗さで、長野暗さは宇宙の暗さそのもの。混じりっけなしの天然100パーセント。深夜は車も来ないしコンビニも無いから、人の寝息もきこえてきそうなないくらい静か。思い出すのはBUMOOFCHICKENのプラネタリウム。「消えそうなくらい輝いてて、触れようと手を伸ばしてみた」

星も人もたくさんたくさんあって、いつか燃え尽きる。ただそれだけのことなんだけど、どれくらいきれいか、幸せなんだ!なんて競い合うのよね。今見えない星もきっと見えたらきれいだし、見えなくても輝いているはず。というポエムチックなことを書く。

f:id:yashimaryoz:20190910202539j:plain

 



1.個性

学校の成績はいつも中の上だった。偏差値52-57くらい。それ相応の高校に行って相応の大学に行って、転がり落ちるように大学院に行った。

普通の偏差値に普通の身長に特徴の無い顔。学生時代の知り合い同士が、思い出話をする時、スポーツができる人や変わった人が最初に思い出されて、その次はイケてない奴を「あいつどうしてんのかな〜笑」って話題にする。僕はイケてるとイケてないの中間にいたから、誰の話にもなっていないと思う。

皆大人になって、子供がいたり謎のビジネスを始めたりしていて、ちゃんと世の中の中で生きている。

僕は同じにはなれなかったし、同じになろうとしてもプライドとか色んなものが邪魔をして、できなかった。唯一の支えは、僕は人とは違うっていう自負。競争は嫌だし、それに負けるのはもっと嫌。

 

2.同じは嫌

変わっているねと言われるのが嬉しいという人が結構いる。すごく分かる。人とは違う自分の存在を認めてくれて嬉しくなる。

「皆と同じは嫌」なのも分かる。黒髪にリクルートスーツを着て紺色のネクタイを締めるなんてできなかった。

ただ、変わっているも、同じが嫌も、「他の人とは」という前提が付いちゃうと、話が変わってくる。日本人は皆一緒にお手手繋いでゴールインが至高って思いがちな民族なのかもしれないけど、違いは自分が起点じゃないと嘘になる。もっと言うと、皆が出来ていることが出来ていない自分が嫌だけ。日本人が〜とかシューカツが〜って言うのは詭弁。定まらないのが嫌な自分と、世間に翻弄されている自分がいるだけ。分かるけどね。めっちゃ。

個性は個性でしか無くて、人を非難する材料じゃないし、他人と全く一緒が良いって人もいる。そういう人が好きかと言われたら困るけど、変わっていることや自分発信じゃない裏返しの個性っぽい人も同じくらい付き合いづらい。

最近読んでいる漫画で「逸脱せよ」というセリフがあった。すんごい強い敵に立ち向かう主人公に対して師匠が言った言葉。

同じが嫌も、普通が嫌も、周りへの敗北感だと普通ができないんだけの人。それも良いんだけどね。もし本当の意味で変わっているなら自分こそが普通って絶対思っている。

そういう意味で、僕は普通に片足突っ込んでいる変な人。普通も諦めきれないけど、もう戻れないよなーって感じ。

 

3.幸せはいずこ

そもそもを考えると「自分にとって何が幸せなのか」を自分で考えることが、変な人への道だし「普通に変な人」への道程。

それで、最近気がついたんだけど幸せは幸せだし、ポジティブはポジティブなんだよ。ホームレスはホームレスなりの幸せがあるし、タワーマンションに住んでいる人の幸せも幸せ。当たり前のように十人十色なんだけど、やっぱり家族と仲良くお金はたくさんあった方が幸せだと思う。明日どうなるか分からない不安よりも、安心して眠る方が幸せ。夜型よりも朝型の方がより良い。色んな形があることはあるけど、手に入らないから諦めた!じゃないものの方がより幸せ。自分の領分を弁えることも大事だけど、領分の無い、絶対的な幸せっぽいものはあると思うのよ。

どこまでもいっても、個性なのか幸せなのかは分からないけど幸せの共通した形はきっとある。人は1人だし、人の生き方に口は出せないから誰も教えてくれないきっとある。幸せの形。