僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

去勢

実家にはシャガールが飾ってある。大きくない壁に「ロミオとジュリエット」。母が父と別れた時に「何でも持って行っていいよ」という言葉を真に受けて(それとも悪意でというべきか)リトグラフでも大層な値段のする魔笛と共に引っ越し屋に頼んで札幌まで運んできた。魔笛はある時、逆らえない条件を付けて父が返せと訴えてきたので手放した。もう一方はいまだに家の壁に堂々と掲げられているはず。若夫婦だった2人はどこかのデパートで、これから始まるお金持ちとして在り続ける根拠に買ったのかもしれない。表向きにはきっとそう。買う時も、飾る時も裏側の理由に気づいていながら、気付かない振りをしていたんだと思う。2人の悲哀を、あるいはこれから起こる女性の自己犠牲を暗示する絵を飾るその行為。僕には知る由も無いし、これからも飾ってある理由や意図を思案する機会は訪れない。

f:id:yashimaryoz:20190922165127j:plain

 

 

 

1.はしがき

親子関係に悩んでいる気がする。もやもやといつまでも離れない不快感。次兄は母と暮らしていて一緒に仕事をしている。僕は長野で1人自分の心や親子関係について学んだり、書いたり悩んだりしている。お互いに生活をウェブカメラで覗いてはいないから、実際にどうなのかは分からない。比較すること自体がそもそも、とも思うし、拘泥することに拘泥しているとも思う。暇の産物かもしれない。ただ、気になっていることは事実で、その内実を言語化したい。元々母や次兄なんて居なかったことにすれば一時は楽になる。それは睡眠改善薬や精神安定剤と一緒で一時の回避。逃げ回った先にあるのは岡田尊司さんの言う「回避性愛着障害」だと感じる。一個乗り越えて、乗り越えた先はもっと空虚だった、では笑えない。もっと包括的に、具体的にアプローチをしないといけない、という使命感がある。

 

2.去勢

f:id:yashimaryoz:20190924155537j:plain

斉藤環さんの本を読んでいる。ラカンを基にした精神分析、と言うと難しい。そもそも精神分析への誤解はフロイトにあると思う。エディプスコンプレックス、去勢、そんな前近代的な暴力的な言葉で父と母と子を考察していて、受け入れがたい。哲学を勉強していると必ず彼が出てきて「何を言ってんだこいつ」とイライラしていた。ラカンコフートと並べて読むと、なるほど日本人受けする言葉遣いでないだけできちんと精神界隈の礎を築いた人物だったのだと偉そうな理解をする。もしフロイトアレルギーがあるのならば、彼だけで理解しようとするのでなく他の精神分析と一緒に並べてみると良いかもしれない。

斉藤環さんの「生きるためのラカン」がHP上で公開されている。そこで書かれている「去勢」の概念は以下の通り。(https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/07.html

・それはエディプス期に起こる。
・それはまず、自分がファルス(ペニスの象徴=万能感)であることをあきらめることである。
・次に、自分がファルスを持つことをあきらめることでもある。

 今読んでいる「ひここもりはなぜ治るのか」と並行して読んでいると、学びが深まるような気がする。本に飽きたらHP。HPに飽きたら本のように交互に読む。

僕の家はファルス(=万能感)に溺れ切っている家。家の中が世界の全て、家の中で素晴らしければ汚い世界に漕ぎ出す理由が無い。氏の本にも多く書かれているように、母と同一であるがゆえの何でも叶う万能感。僕の近親者への理解が深まるような気がする。兄は今母と暮らしている。彼の言葉を借りるなら「たまたま気が合ったから一緒に暮らしている」。嘘ではない。本当に気が合うのだと思うし、兄弟の中で母と一緒にいるのが楽なのが次兄。ただ、それをフロイトの考え方に照らし合わせると、互いが去勢されていない状態。同一であること、母が持つ叶わない父と同一になりたいという思いを、母は子供で満たそうとし、子供は母を満たそうとする構造が母子同一の感情。

知り合いの男児が時々女の子になると言う。女性になり切ってトイレに行って、くねくねし始める。母が小さい頃ちんちんが欲しいと言って、親戚のおばさんと一緒に百貨店で「ちんちんありませんか」と探して回ったらしい。去勢がなされていないから、ペニスを欲しがったり女性になったりするんだと思う。僕は僕で、時々自分の中の女らしさが出てくる時がある。理由は分からないけど、女言葉を喋ることで心が安定する。自分の中にある女性性が満たされる感覚。女の子になる彼も、僕も父親と同居しておらず、去勢の機会を逸しているのかもしれない。

 

3.変換作業

ちんちんを切り取る、というと怖い。女性の割礼はもっと怖い。宗教的、暴力的な意味合いで使用されるので、違う言葉が必要。去勢は「他者」から「強制的」にむしり取られるんだけど、もうちょっとソフトなイメージ。

「大人になる」「成長」「清濁併せのむ」そんな言葉が出てきたけど、何か違う。「万能感に浸っていた子供が、自分の無力さを知る」だと、少々救いが無さすぎる。無力さを知ることが即ち、自分自身を知ること。そうなんだけど「無力」は「去勢」位に強い言葉。何とか使わないでいきたい。

漫画シャーマンキングで、朝倉葉のお父さんが「年を取ると天井のシミが見えるようになる、自分が届き得る限界が分かるようになるんだ」と言っていた。近い。単に「自分を知る」だと喪失感が伝わらない。子供で居ることの甘美な蕩ける時間を失なう要素が無い。去勢を経た人物は、自分の無力さを知る。何も出来ない自分に浸り続けられはしないもので、必ず次の無力さを知る旅に出立することとなる。そのスタート。一度切り落とした陰茎は生えてはこないけど、無力さを知ったことで、自信や自己意識は大きくなって、許容量が増えて自分の元に帰ってくる。意図せずとも、小さくいようとしても必ず大きくなって帰ってくる。そんな不可逆性の中に身をなげうつ行為。

これが適当か分からないけど、近い概念って「失恋」だと思う。熟れ切った洋ナシのようにとろとろになるような許し合う時間を経て、乾き、そして離れていく。その一連の流れによく似ている。