僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

多様性の位相

洋画を沢山観ている。レストランに入るブロンドヘアーの女性を、気の弱そうな男性がエスコートする。ドアを開けて、椅子を引く。迷いが無い動作。受ける側の女性も空気が開けてくれたかのように入っていき、当たり前のように椅子に座る。どうしようか、って言わなくともシャンパンがいいよね、って那由多ほどある選択肢の中から、スマートに男性がチョイスして飲む。

中国から来た留学生が志望する企業に片っ端から「仕事をくれ」のメールを送っているという。返信の文頭には「お世話になっています」と書かれている。断られたことを嘲る意図も込めて「私は何もお世話してないのに」と不思議がる。エスコートも定型文も初心者には理由が分からない。誰かが始めて、また誰かがそれを真似してそのうち、それをやらないと失礼に値する、までに至る。お作法。

畳の敷居は踏まないのがマナー。座布団を踏まないのもそう。どれも理由を知らないと、守る理由が無い。知らないから守らない。

 

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1.はしがき

文化の突端にいるのはヨーロッパ諸国であると思う。アジアが遅れているのでなく、積み重ねた文化の量が多いからだと考えている。文化には初心者殺しの側面が必ずある。説明がされていないのに、誰しもが守っている規範。知らない人からすると異常で、でも皆が従っているから大事なんだろうな、と思うしかない。アフリカのどこかの国の部族は15歳になったら高いところから飛び降りて、大人になった証とするらしい。僕には訳が分からない。だけど、黒くてしなやかな体を持つ彼らにとっては大事なこと。

 

2.多様性

東京の街を歩いていると、今ここで僕が服を脱いで暴れても誰も「大丈夫ですか」とは声を掛けられないだろうな、という無関心と安心が同居したような感覚になる。実際にやったら最初に話しかけてくるのは警察だろう。服を脱いでも早足で通りすがる人からは、そういう人なんだな、としか思われない。ある意味多様性が守られている。どんなに露出度の高い服を着ても、エルトンジョンみたいな派手な眼鏡をかけていても「そういう人」。ピアスを顔中に無数に開けた人の生活は、きっと荒んでいるだろう。チェーン店にいる死んだ顔をしたおじさんは、きっと寂しい。本当のところは分からないし、分かる努力もできないのだけれど。

人の生き方や個性を「多様性」と一括りにすると、同時に無関心が発生する。自分には理解が出来ないだけで、きっとあの人も幸せなんだろう、って。その論理は完璧で、誰にも批判される理由が無い。そうなんだけど、顔に穴を開けるのはきっと今の生活に満たされていない。美味しいはずのご飯をしけた顔で食べていたとしたら、きっと生きることに疲れている。

宇多田ヒカルが言う「オフィシャルな野望」は「幸せ」。人は幸せに生き続けるために生きている。それは皆同じだと思う。それは孤独でないことや前向きであることが要素のひとつ。もちろん各個人がどう捉えるか、偶然嫌なことが重なったのかもしれないなんだけど、多様性という言葉で見えなくなっている気がする。色んな生き方がある社会であっても、「幸せ」を通底している概念は存在する。そんな風に考えている。

 

3.幸せの文化

韓国人の知り合いは普段持ち歩いている手帳に家族の写真を入れている。理由を尋ねると「家族が大事だから」と当たり前のように言う。イタリア人はママが大好きで、アメリカ人は家族とハグをする日常が当たり前。当たり前すぎて誰も説明はしてくれないけど、家族は大事なんだと思う。親は自分が産まれた唯一の理由。兄弟は親の次に長い時間を過ごした人。祖父母は自分が産まれた理由のそのまた理由となった人。親戚は自分が産まれた理由となった人が長い時間一緒に過ごした人達。言葉にしてしまうと、儚いんだけど、それに勝る理由は滅多にない。もしそれを越える理由があったのなら、その人も大事にすれば良い。それはきっと自分をもっと幸せにする要因。

近しい人を大事にすることは幸せのお作法であって、言葉にするとあまりに頼りが無い「文化」であるように思う。

 

4.オープン

「言葉にできない」は即ち再現性の無さ。何を表すでも、言葉にした瞬間にそのものから飛び出た、それを現す音声に変換されて相互に働きかけ合う。言葉は変換機で、通さないものは「代替が利かない」「その人」そのもので無ければならないもの。それは代わりがとても利く社会においては弱弱しい。派遣会社を使えば次の日にでも代わりの社員が来て、マニュアル化された社則やルールを、一定時間数教えれば「代わりの人」が出来上がって穴を埋める。リソースもクラウド化されていれば、どこであっても誰であっても情報にアクセスできて、場所や時間を問わない。オープンであればあるだけ価値が多くの人に共有されて、「その人が死んだらもう二度とできない」リスクが回避される。オープンさ、代替可能性はとてもいい事であると思う。松屋のノウハウがあれば、どこでも誰でも牛丼大盛りを客に提供出来てそれなりに美味しい。左に傾いた技術批判や文明反対をしたいのでなくて、再現可能性は素晴らしい。言葉にすればするほど、広がりを保持して文化を維持発展させると思う。

親子関係や、家族関係においてもオープンであること「代替可能の論理」は有効だろうか。母親の「私でなくとも子供は育てられる」という言葉は子供に通じるだろうか。「私はあなたを養育しません」という態度を理解し、代わりの養育者が現れたとしても、目の前から母親がいなくなった事態は消えてなくならず、結果として子供の心に穴を穿つことになる気がする。

何が言いたいかって、特に親子関係においてのリスク回避的な「代替可能」は、望んだような結果は生まず、逆に遂行矛盾を生んで、よりリスクの渦の中に深くはまり込んでいく。そんな構造になっていると思う。

 

5.守破離

前節までに書いたことを3文字で表すと守破離。守って破って離れる。そう表すと年を取ると保守派に回るよね、はいはい。と思われるかもしれない。間違ってはいないけど、伝えたいのはそうじゃない。もし書いてきたようなことが、もし僕と保守おじさんらを含めた一定数の人の意見であったとしたら、サンプルにしない手は無い気はする。

烏合の衆がいくらいたところで、思考の材料にならないという意見もあるだろう。インディビジュアリズムと拗ねて孤独になることは違う気がするけど、それを変えようなんてことは思わない。は強く生きて欲しい。僕はやり続けられない。創作なんかは孤独や絶望が必要だというのもわかるしね。ただ、辛いから素晴らしい、は間違っていると思う。絶望の美学でさえも表現すること、生きることを楽しんでほしい。