僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

自明人間

 

 

上田の駅前。ロータリー添いに慎ましやかな数の店がある。地方都市は概ねこんな感じ。飲み屋数軒とスタバかタリーズ。東京の端っこでも、九州の方でもきっと同じ風景なはず。大型資本によって日本全体が均質化されてる!って批判することも出来るけど、僕はどこも駅前はこんなもんよね、って知った顔が出来て安心する。

 

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1.はしがき

物事は捉え様だって誰かが言っていた。否定も肯定も気持ち次第。ポジティブシンキング。結論だけ言うと気持ち次第だとは思う。ただ結論だけを言うのって、大抵は不親切。困っている人に「ポジティブになれば変わるよ!」。コンビニで「わかばひとつ!」。女子トーク中に「要はタピオカ飲んで、街をぶらついて楽しかったってこと?」と聞くのは情緒が無い。

結論の前にある、理由とか何でそう思ったのかが言われた方が納得するのには重要だと思う。

 

1.理由の断絶

じゃあみんな理由とかバックグラウンドをペラペラ喋ろう!が趣旨ではない。

理由を喋らないのにも理由がある。長くなる、女々しい、理由を言うこと自体がその主張に自信が無いことの理由になってしまう。等々。寿司屋の大将は今日も黙々と握り続けるし、大工は作務衣を着て玄能を打ち続ける。そんなもん。

じゃあ「言いたいこと」に対する自信、あるいは自明性はどうやって露わになるだろうか。会話であるという前提であれば、簡単なのが説明しないこと。理由はそのまた理由を生んで、その生まれた理由が理由を求む。辿り着く理由の終着点は必ず「何故生きているのか」になる。僕らは明らかに生きていて、その言葉を発している。だから理由は説明しない、が発生するんだと思う。

 

2.不一致

理由が語れ無いのは、理由が理由を生んでその又理由を説明しなきゃならなくなって際限の無い事由になるからと書いた。一方で、人は理由は知りたい生き物。納得がなによりも大事だとジャイロツェペリも言っていた。

深く深く掘っていくと、誰かが言う言葉に納得ができないことは「これまでの人生で自分が納得できていないこと」が内包されていると思う。一例を出すと「男は稼ぐもんだ!」って言説に僕はひどく拒否反応を示してきた。それは多分母親の父親批判。詰る理由が分かっていないから、その言葉に強く反発してきた。男尊女卑やフェミニズムなどのまとめられた言葉達を借りてきて、否定する材料にする。もっともらしいからね。その方が。

それで、理由を省いた言葉を使う人は、その内容について深く納得をしている。少なくとも「あってはならない」とは思っていない。だから敢えて理由を言わない。

とんでもない不一致が発生する構造。元を辿れば、小さな記憶の欠片が元なのに。

 

3.自明人間

存在は説明せずとも明らかであろうか。自分が自分でいることは説明せずにいられるだろうか。自明性はどうやら自信と密接に関わっている。弱い犬程良く吠えるのたとえじゃないけど、自分のことをペラペラ喋らなくなった時に自信があるように見えるものだと思う。だから、自明人間になりたい。存在を、自分を自分が問うことの無い存在。