僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

変化の一過

台風が来た。昨晩は雨が降っていたけれど、大したことない。風はそれなりに存在を主張する強さ。携帯電話から警報が何度も鳴って「警戒レベル5です」と言う。周りは静か。「冷静に避難をしてください」と言うテレビと携帯電話だけがうるさい。それらに没頭すると体と心が分離する。近くで戦争が起きているのに、めっちゃ平和。日常が壊れそうなのに、壊れてほしいくらい嫌になっているのに壊れてくれない。ゴジラの足が、僕の家だけを避けて通った気分。日常にパルプンテが起きるんじゃないか、そんな高揚感と、その魔法は起きてくれない現実を直視する絶望感。揺さぶられる。

 

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1.終点を見に

日が昇って、暮れての毎日。先に人生のゴールに辿り着いたって思っているジジイ共は、朝起きて野菜の様子を見て、ラジオを聞いて心拍数と感情の揺れが無いように生きる。人の全ては日常にある。そう、絶対。日々の暮らしの中にその人の全てが詰まっていて、それを楽しんだり喜んだり悲しんだりする。そういう入れ物の中に入れられている。じゃあ、夜には心地良いギターを聞いて、美味しいご飯を食べて眠る。それ以外に何があるんだろうか。きっと何もないんだろうけど、自分の目で確かめてない。脳が高速で演算した結果だとしても、この目で見てはいない。だから、一度人のいなくなった終着駅にまで行きたいんだと思う。寒々しい駅舎まで行って「やっぱ違ったなははは」って嘲るまでがワンパターン。

恐らく次は死ぬほど好きなことをやりまくっても、それだけが幸せじゃないことを知るデスロード。幸せも、悲しみも果ては何もないことを確かめたいのかもね。

 

2.調和

ほどほどにすれば良いって20年は心がけている。小さい頃は常にインスタント麺にゴマをかけすぎて怒られた。ナッツの様な風味とプチプチする食感が時々あるからアクセントになるのに、口の中が大量にかけられたゴマに支配されるとよろしくない。

足るを知るとか、バランスとか調和。言葉は知っているけど、どういうことか分かっていない。いや、料理なら分かる。トマト缶の酸っぱさと、青唐辛子の辛さが良きバランスのスープを昨日作った。分からないのは自分と他人の調和だ。

知り合いが「探り合いになったらつまんない」と言う。相手はどう考えているのか察して、行動する。そうすると相手も察する。そして察したんだろうか、って察する。そのまた察したのかどうかを・・・ああああああサッシサッシサッシ。際限が無い。永遠に辿り着かない惑星までのロケットに乗るくらいなら、宇宙に放流してほしい。石になりたい。それに捉われると、察するくらいなら、察されるくらいなら、そもそも話さない、行動しないことを選んでしまうのが問題。どこに行くんだよ、サッシの旅は。目的地は穏やかな毎日なのか。

 

3.感覚観測点

日常パルプンテも、終点へ行きたくなる欲望も、ここのままじゃいけない、今に満足できない感情で、人間の粗暴で野卑な部分だと思う。人の変化したい欲求は限りが無い。ハンターハンターのネテロ会長が人間の底知れぬ欲望をくらえ!と言って自爆したみたいに、そこが人間の怖いところ。以前にも書いたけど「欲望は他人のもの」というラカンの言葉を僕は採用している。他人をコピーして、元々のコピーしていたものの一部分を否定して、そうやって人が変わっていく。自分を知るには、一番近しい人の3人を足して割ったものが自分の像に近いとインターネットで誰かが書いていた。もしそれが本当だとしたら、孤高なる宇宙に輝く、キラ星のようなポイントが僕には2つくらいしかない。自分が模写している対称的な2つのイメージに引っ張られて、体が引きちぎれそう。彦星と織姫の間を流れる天の川を何度も何度も往復しようとしている。愛し合う2人が年に一度しか会えないと諦めているくらいには険しい川なはずなのに、びちょびちょになりながら週1くらいのペースで行き来している感じ。

 

4.神の不在

大人になることは、小さいウジウジを気に留めず日々を生きること。自分が何者かなんて考えもせず24時間を消費すること。分かっている。だけど、僕の中の何かが「満足するなよ」と囁く。小さなことに満足することでしか、人は大きい満足は得られない。って知っているから違うんだって分かっている。だけど、道に落ちている100円を拾わないように、ソースの付いた皿を指で拭わないように、高潔でかつ理想を持ち続けろと僕の中の誰かが言う。矛盾はしないんだろうけど、僕の中にいる僕のイメージを使うと、僕が確実に矛盾する。それが問題。「あちらを立てればこちらが立たず」が、自分の中で起きている。

今思えば、日本の宗教感って右往左往している。大陸から仏教が来たと思ったら密教になって、儒教になったり神道になったり。敗戦して天皇が象徴になって、神道が駄目よ、となったり。日本人にはそもそもそういう信じるものを変えていきたい、不安定でいたいという遺伝子が組み込まれているのかもしれない。