僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

生きているだけで

冬がやってくる。上田市はピカピカに晴れていて、さも冬なんてありもしないかのよう。当たり前なんだけど、春が来て夏が来て秋が来た後に冬が来る。春夏秋冬よね。四季が明確な日本に産まれて30年以上経ったけど、これまで季節を感じたことが無かった。どういうことかと言うと「何か寒くなくなったな」(春)「何か暑いなおい」(夏)「寒くなってきやがった」(秋)「まじくそ寒いじゃん」(冬)という具合に、その時の気温等は感じてはいるんだけど、一個前の季節を覚えていない。季節を感じるというのは、数か月前の気温や緑の色に思いを馳せること。Tシャツを着た自分を、ダッフルコートを羽織る自分を思い出す。その俯瞰が出来ずに、場当たり的な肌感覚だけで生きてきた。

 

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1.自分

哲学や心理学が好き。その大元にあるのが、自分を分かりたい。っていう思い。数年前までは、他人を理解したいって思っていたけど、どうやら他人を理解するには自分を理解する必要があるらしい。じゃあ自分を知るのってどうやるんだろう、ってグーグルで調べてもみた。とにかく沢山の映画や本を体に入れれば、変化するのかなとやってみた。一匹狼で気難しい店主がいるどら焼き屋さんを舞台にした映画を観ては、小さい店を出せばいいのかと本気で思う。児童虐待の映画では、恫喝された子供に自分を重ねてしまう。そんな風に一個の映画に対して、一個の自分が浮き出てくる。幾度となく自分を投影しては、見えない自分を見つけた気持ちになって、沢尻よろしくハイに。数時間後にはそうじゃないのかもしれないって疑い始めて、ダウンする。そんな毎日。

自分がいないって、何でだろうって一日8時間は考えた。きっと世界記録。自分って何なんだろう種目の日本代表になれる。

 

2.疑い

長野に来てから、何も考えないで喋ることを身に着けた。どうやらその方が上手くいく。最初は「何も考えていない自分」を演じる方に気を注いでしまったせいか「何も考えていないでしょ」と指摘された。よくやりがちなミス。なりたい姿そのものでなく、なりたい姿を演じている自分になってしまう。

とある知り合いとの話。その人は地元のサッカークラブが好きで、それが生きがい。生きがいであるのどうかを疑ったことが無いし、そもそも疑う理由が無い。自分がそれを好きだから、以上の理由を自分に対してする理由がどこにあるんだろうかという話。

他人を納得させるためには「郷土愛」とか「サッカーを如何にして愛しているか」を、論理的に説明する必要がある。ただ、それを説明する機会は全く無い。好きなものに対して、なぜそれが好きなのかと問う他人は、殆どの場合敵意を持っているだろう。

その知り合いが、子供が産まれるらしい。僕は聞く。「決して疑いとか非難とか否定でないんだけど、もしどうして子供を持つのって聞かれたら何て答える?」と。彼は「どうしてって、別にそういうものだと思っているから」と言う。そうだよねと言って、彼が生まれていない子供に対して愛情を注ごうとしているかの決意を聞いた。小さい子供を見ると「かわいい~!」となると。男性もホルモンバランスが変わるのかもしれない。

「ヤシマさんは、きっと疑ってしまうんだよね。例え宗教に入ったとしてもそれ自体を疑ってしまうからどうにも苦しくなるだと思う」と彼に言われた。全くもってその通りだと思う。

 

3.生きているだけで

世の中で数少ない、尊敬している人と話す機会があった。その方の家に数日泊まって、どれだけ迷惑をかけただろうかと、恐怖に近い感情を覚えながら家を後にした。そうすると、その人からメールが来た。「ヤシマさんが家に来たことは、客観的に見て僕と妻に迷惑を掛けていないわけではない」と。やはり、となって背筋にびりびりと怖気が走った。恐れながら下にスクロールすると「一方で、ヤシマさんの知的好奇心の旺盛さは、過去の悩んだ僕の時間を肯定した。人は皆生きているだけで罪人であり、功労者である」と綴られていた。肯定でも無く、否定でも無くただこの世の理を書いただけなのかもしれないけれど、その言葉が僕にとっては響いた。

生きているだけで人は二酸化炭素を排出して、南極の氷を溶かす手伝いをしているらしい。中学生の時にビデオで見た。その一方で自分の存在が、意図しないところで誰かに感謝される。飛行機に乗って氷にドライヤーを当てに行ったんでもなければ、感謝されようと思ったのでもない。ただそうしたいからそうしただけ。お得感がすごい。