僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

りんごを沢山頂いた。とりあえずカウンターの上に置いておく。りんごの模様は目を凝らして見ると結構奇抜。派手な赤色を下敷きに薄黄色の筋模様や斑点。人が着る服に採用したら、草間彌生くらいのビックアーティストでないと似合わない。シマウマのゼブラ柄は、承知の通りライオンなどの捕食者に狙われないようにするため、風景に馴染むようにできているらしい。奇抜なのに、目に馴染む。面白い。リンゴやシマウマは数が沢山あるから目に馴染むのか。それとも「自然のものは体に馴染む」というネットワークビジネスの人が喜びそうなワードで解決するのか。

量でも、自然派志向であっても、「脳内で起きていること」という視点が加わると僕にとって納得しやすい。脳が一定量に達すると馴染むと判断するらしいよ、脳は自然のものが馴染みやすいらしいよ、というと途端に真実味が増す(僕にとって)。脳大好きマンの僕が、脳の働きに、人のほとんど全てが詰まっている。そんなことを書いてみる。

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1・はしがき

このブログを始めた頃、「自分とは」という疑問を持って書いていた。(決して今だって解決したわけではないけれど。)熊沢さんが書いている、ティーンエージャーに有りがちな「アイデンティティとは」みたいな問題。そうなんだけど、僕にとっては何か違うなとは感じていた。長い間、自分とはという疑問を持ちながら、何となく、流されるまま大学に入って、大学院に行って、就職をして、長野に来て、結婚して、離婚して、引きこもり状態になって、家族から見放されて、ホームレス状態になって、死にかけてまでして、ようやく辿り着いた。「僕の前頭前野は機能をしていないんじゃないか」

 

2.人間たるには

「自分とは」という疑問は生の苦しみで、哲学であり、心理学でもある。何なら全人類が抱える永遠の課題。人生只々生まれて死んでいくんだと悟りを啓けたのであれば、自分に対する呼称は必要は無いのかもしれない。ただ、ほとんどの凡人にとって、自らを紹介する枠組みみたいなものは欲しい。少なくとも僕は。大学生である。とか、こういうことが得意である。とか。その区切りが無いと、病床に伏せるまで自己紹介で語る言葉も無く死んでいくことになる。それって結構辛い。「自己紹介が出来ない」を地でいっているのが、●●ちゃんママ(パパ)とか、どこどこの奥さんみたいな人。子供や夫(妻)の所有物にされることが、自分を紹介する唯一の言語。共依存とも近い関係性。

脱線した。その「自分とは」に欠かせない脳の働きが、理性、客観性、報酬系統などを司る前頭前野にあるらしい。詳しくはない。そこの働きの強さというか、神経回路が出来ているかどうかが、ヒトを人間たらしめる理由になっている気がする。

最近の子育てで重要視されているのが、非認知能力というもの。これは「目的に向かって忍耐強く行動を出来たか」「感情のコントロール」「社会性」といった、テストの点数のような数字で表せない能力のことを言う。詳しくないので(2度目)、断定めいたことは言えないのだけれど、この非認知能力と前頭前野の関係はかなり強力にあると思う。更に言うと、LSDとかADHDなどの発達障害と呼ばれるものも、前頭前野の働きが深く関わっていると思う。(特にADHDの人の特長として「自己理解」が弱いというのもあるらしい!)

よく、男は18歳になったら親元をでるんだと言う。「親との関係性だけに固執せずに、社会を個人の肌で感じ、自分の能力を発揮させることに注力する準備をしてくださいね」ということだと思う。それを短くまとめると親にいつまでも甘えてるんじゃないよ、とか実家暮らし!とかの簡単に他人を謗る言葉ができあがる。

僕の場合、前頭前野の発達に少々の遅さがあって、それゆえに親や兄弟は「手のかかる奴だ」となっていたと思う。恐らくなんだけど、スポーツも前頭前野を鍛えるにはうってつけ。スポーツは、思考と体を一致、フィールド全体を把握、他人と協調などの前頭前野を使うことばかり。あんまりしてきてない。上述のものに加えて、母子家庭、末っ子、親の趣向・形質など諸々の条件が複雑に絡み合って、今の僕が成り立っていると思うようになった。

 

3.おすすめは瞑想

それで、前頭前野を発達させるためにはどうしたら良いのか。スポーツも良いし、読書も良い。一番のおすすめは瞑想。僕ら悩みやすい人間は、思考はそもそもが「なぜ」とか「どうなるだろう」「どうしてこうだったんだろう」というものがほとんどで、疑問の占めるパーセンテージが多いと思う。なので、思考をする=疑問となるので、思考を始めてしまうと、ネガティブに世界が支配される。千葉雅也さんは「意味の無い無意味」で、全てのものが無限に意味を持っているので、無限に思考できる。だから行動をするのには、思考を一旦でも止めなければならない。と書いている。ネガティブな人間にとって思考を止めることは、社会で生きていく必須要件。それが出来ないと、誰とも会わずに栄養だけ点滴で送ってもらって、永遠に映画と読書を繰り返す人間になってしまう。その疑問発進の思考を止めるのが、瞑想であり、瞑想による前頭前野の発達であるように思っている。あらゆる情報が駆け巡っている世の中だから、反応せずにはいられないのが本当のところ。だからこそ、反応をしない、思考を介在させない訓練が、僕にとって生きやすさにつながりそう。

思考停止した人間になるな、現状に甘んじた人間になるなと自分に言い聞かせている。思考を止めずに、常に新しいものを生み出し続ける。そういう人間が素晴らしく、そうでない人間は駄目。そう絵本作家のあの人も、色々な会社をやっている社長さんがそう言っていたから。ただ、この年齢まで生きてきて「思考停止」すらできないのが僕なのか、という答えに至った。気が付いたから、思考停止も出来るようにしていく。大事なのは思考と思考停止のバランス。