僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

頑張るを考えてみた

日々忙しい。沢山の雑事と雑談に対応していて、自分の時間が取れない。朝起きて、なんか色々やってたら、あ、あなたそんな風に僕を巻き込むの?僕とやりたいの?そうなんだ〜?あーれーという間に1日が終わる。濃厚接触エブリデイ。

それでも、それでも自分の好きなことをやって、成し遂げるにはどうしたらいいんだろう。と考えた。脳内googleがページの先頭に出した答えは「頑張る」。

あれ、頑張るってなんだろう。考えてみる。

 

 

1.頑張るの古典

「頑張る」って、汗水を長時間&長期間垂れ流すっていうイメージ。部活もそうだし、板前修業もそうだと思う。(実際はやったことが無いから分からない)

夜なべして手袋を編んだ母さんは、きっと頑張っていると思う。僕の中の「頑張る」の一種類。その中でも古めかしいイメージを構成に貢献している。

小学生の頃、亡くなった祖父が読んでいた巨人の星。汗にまみれ、涙を流しながら、それでも立ち上がるシーンはきっと僕の「頑張る」を組み立てたと思う。

さっきこれを書く前、「⚪︎⚪︎するためには頑張らなきゃな」と思った。言葉が出てくると同時に自分の行動がイメージとなって現れる。最初はwork hard、古典的な、長時間猛烈ファイアー頑張る姿が出てくる。ただ、僕の頭の中には、これらのイメージがあるのと同時に、それらを否定したいという感覚である「効率的」も一瞬遅れて現れる。

話は逸れるのだけど、言葉を想起した最初のイメージを経験が覆すっていうことない?僕は年齢を重ねるにつれて重層的になってきている。友達が男性の大きい声に委縮するらしい。何故か聞くと「小さい頃父親に怒鳴られていたからだ」「パブロフの犬のようにこれは反応だから変えられない」と言う。その感覚は彼にしか分からないもので

簡単に共感なんてできない。だけども、きっとその恐怖感を層を違うもう一個の層で塗りつぶせたら楽になるのかな、なんて考えていた。

 

2.自分のために効率良く頑張る、他人のために見栄えよく頑張る

前項の頑張る、は「とにかく目の前のものをやり遂げる」と目に炎を蓄えてやるタイプ。大リーグ養成ギブスのインパクトは強烈。20年以上、僕のイメージに巣食うって並大抵のことじゃない。

ただ、目がメラメラし始めたと同時に「こりゃ違う」と「もっと効率的に」が脳裏を過る。もっと違うやりかたはないか、苦しい思いを出来るだけ少なく済ませる方法無いのか、なんていう思考回路が働く。この思考過程は、僕の見てきた世の中の範囲ではあまり人気が無い。と思う。あくまで僕の世界の中でなんだけど、土埃にまみれて!泥をすするように(これは言われたことがある)!!這いずって!!が僕を含めた日本の多くの人にとって好ましい。

 知り合いの大学スキー部の話。童貞の1年生を4年生の女性が公衆の面前で色々イジメるらしい。羨ましい・・・とおじさんになった僕なら思えるけど、大学1年生だったら童貞であろうと童貞じゃなかろうとしんどすぎる。

それは(恐らく)部内の年齢や学年などの序列による支配を受けているのが問題だと思う。後輩は当然、スキーが下手で年齢も下。だから、辱められて良いという考え方とは距離を置きたいと思う所存。

ただ、その部活を支配する人にとっても、言い分はあるはず。「これをやるからこそ社会で生きていける」「辛いことがあったから幸せを感じられる」等々。基本的に間違っていないと思う。僕だってこれらの頑張る論理は、真実の側面があると思う。

ただ、ただ、そのやり方だと思うのよ。頑張るは当たり前、だけど頑張るのは部活や技術の範囲までであって、その他人間関係の理不尽を特定の人間が受け続ける構図は、イカれてるとしか思えない。

少々脱線した。頑張るのはなんなのかだった。

5年前のサッカー業界は、運動量が重視されていた。だから、豊富なスタミナ、肺を4つ持つ男という異名の選手が沢山いた。同時に、距離を走れば、という誤解も生まれたと思う。ガムシャラに攻撃に参加した後、守備に戻る、ボールを奪いに体を投げ出す。美しい、と思う。人が奮闘する姿は誰の心も動かす。スポーツの醍醐味。ただ、心を打つのは観客。心を打つ観客の姿を見て、自分も心を打つ連鎖反応もあるけど、ひとまず置いておく。誰のためにやるのか、自分のためでしょ、違うの?少なくとも誰かのため「だけ」には人は動けないと思う。

どう人に見られるか、見栄えを追い求めるのは、誰にだってできることじゃない。

まず、自分。自分がなぜそれをやっているのか、それをやって得たいものは何なのか、それに辿り着くまでの最短距離はどこにあるのか、模索するのは悪いことじゃない。

但し、他人からの見栄えは悪いかもしれないよ。「ガンバの遠藤はちんたらしてる」と泥臭いのしか好きじゃない人はいる。

 

3.言葉としての頑張る

 僕は頑張る、頑張れの言葉を使う。現在のベストを尽くしてみて、という意味で使う。もっと努力しろ、じゃなく、当人の心を奮い立たせるために頑張って、を使う。

今現在のベストを尽くすのは、とっても大事。大抵は、今現在のベストって大したことない。ただ、理想の姿になるにはベストを積み重ねるしかなくて、その今できたことを認めるしかないと思っている。そう思っているから、ベストをまで促すことはする。2回くらいまでは「もうちょっとできるんじゃない」って言う。だけど3回目くらいからは、今日はここまでだよねと思う。嘘でも仮病でも、本人の申告ならそれが本当でベスト。

自分にかける言葉としても「頑張ろう」を使う。

知り合いのリンゴ農家を営むおばあちゃんは、「今日も頑張ろう」と下半身は四股を踏む前の体勢、両のこぶしを握り上に突き出して言う。

人は弱いから、いつもこれくらいでいいやって思っちゃう。毎日思うし、2時間に1回は思う。それがベストなのか怠けなのかは誰にも分からない。自分にもわからない。だから、鼓舞する。そうしてベストと怠け、表裏一体の基準値を少しでも上げようとする。

 元々、頑張れって言うなよと思う方だった。自分の弱さを認めることと、自分の中の理想を追い求めるのは相矛盾する。そりゃ頑張れなんて意味が無い、他人の言葉は雑音。両極のどちらを選んでも良いんだけど、その行為が終わったあと気分が良いのはきっと少しだけでも理想をギリギリまで追い求めた時なんだと思う。それゆえの頑張れ。