僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

無に惹かれるか

Tシャツの下に黒いタイツを着てみる。ラッパーっぽい。おいそれとNORTHFACEの黒いニット帽を浅めに被る。ロゴは正面じゃなくこめかみあたりにしておく。31歳にして初めてのストリートファッション。ダボダボのジーンズは持っていないので普通のを履く。おお、若い。シャツにニットなんてスタイルが僕にとって普通だから、〇〇っぽいがつくと小恥ずかしい。だけど属性が自分に着くと安心するのも事実で、本当に若い人からすると若作り、僕よりもおじさんからするとラッパー。っていう属性を携えて街に繰り出してみた。

世の中は、僕のような取って付けたようなラッパースタイルじゃない、本格派のパリピが動かしていると思う。アイフォンのアプリを使って集まり、音楽がガンガン鳴るホールで一緒にテキーラを飲んで、くっ付いたり離れたりする。お金も物も人も全部動く。彼らは家でお湯を飲んで過ごさない。そんな属性の人達の周りには「有」が溢れている。携帯電話もショットグラスもDJも、着飾った女性も全部「有る」もの。やらない善よりもやる偽善っていう言葉みたいに、彼らは行動することにあるいは楽しむことに傾注して生きている。僕はそんな「有」の溢れる環境を想像して、有限だからこそ楽しんでいる。終わりが来るからこそ楽しむ。そしてそれが今を生きるってことなのかなって思う。

ただ、「無」に惹かれる節もある。心は空っぽの方が夢詰め込めるの歌詞のように、心は無の状態だと平穏に包まれる。断捨離やミニマリストが流行っていて、物に執着するのをやめたい、無に近づきたいって思想は市民権を得ている。これは憶測なのだけれど、日本人は「無」に惹かれやすい。足るを知る、無我の境地。日本人の慎ましさと、奥底に秘められた「有」に対する欲望が反対に「無」へと誘いこむのでないか。ここからは更なる私見の極みなんだけど、「無」に対する興味や欲望はすなわち「死」に対するそれと同様だと思っている。物が有るのも、テキーラサンライズを飲めるのも命があってこそ。死んじゃうと飲めない。大学院生の頃、Eaglesに嵌っていてバーでテキーラサンライズばかりを頼んでいた。そして、気になっている女性に「Eaglesの曲にもあるんだよ」なんてうんちくのようなダサい知識を披露していた。

「有」が命によって担保されているのであれば、「無」はその逆。「死」であると。よく、自殺志願の人が急に大切していたものを捨て始めると言う。「無」への希求や関心は、「死」への接近だと思う。だからって、今だけを生きて、後は野となれ山となれと言いたいんじゃない。どちらへの興味もあって然るべきで、その揺らぎこそが生きていることなんじゃないか、と思う。