僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

人生の目的は反逆にしかなりえない

東京に来ている。新幹線を使って、地下鉄に乗って新宿御苑にいる。7日間で8400円のホテル。友達と3人でいくらになるのか。ちなみに朝ごはんまでついている。

 東京は上田市よりもコロナがやばい。地下鉄に乗ったら、向かいに座ったサラリーマンが座る前に窓を開け、マスクをしていなかった僕を見て席を移動した。(ちなみに車内はガラガラ)閉塞感、とはこのことかと思う。テレビを見るとコロナコロナコロナ。Twitterを開いてもらコロナコロナと政権批判。うーん、ちょっとうんざり。

刃牙のアニメを見ている。格闘技好きとしては興味深いのだけど、一緒に見ている外国人は「oh、fuck」と再三呟く。なんでか、ちょっと変だからだ。何で変か。きっと作者の異常性だと思う。言葉にするには作者を知らなすぎるし、それを語るには余りにも含蓄がありすぎる。けど、敢えてするなら「意外性のある、でも馴染みのある面白さ」。キモさ、と言っても良い。公園でストレッチする謎の老人。ファミリーレストランに現れるボロボロな格好でドリンクバーを摂取する若者。電気が殆どついていない、年金込みの経営をしている喫茶店。これらって面白い。他人と違いすぎるのってファニー。元々人は違う個体として生まれ、人として生きるためのルールを学び近接していく。そして大人になるにつれ、特に変な人は徐々に変な人として分岐していき一般人と一線を画し、皆死へと収束していく。時間を横軸にし、縦軸を個性とするとしたらいびつで大きな山型を描くのが、人生だと思っている。個性のふり幅はすなわち個性の発揮で、個性の発揮はキモさであり、それは魅力だと思う。ファミリーレストランに長居する人は、一般の価値尺度から判断するとキモい。だけど、魅力がある。

常人とかけ離れている一方で、誰しもがある個性という観点からは誰しもと親和性がある。分かるけどできない。できないけど何となくわかる。だから魅力。キモさは魅力。

 

それで、更に発展させると、キモさは自由だと思う。抑圧の無い、心情の発揮が自由だから。キモさは魅力であり、自由さ。キモさ=魅力=自由。だからキモさは自由で、自由もキモさ。

だから、敢えてきもくなる必要は無いんだけれど、自分の中にある人と違う部分は、明らかに人生の目的と近くに存在している。分かるか、この理論。

元々個性があって、他人とは違う存在。ゆえに(発揮させればの話だけど)違いは時間と共に大きく振れていって、どんどん加速度的に変わる。その一定ラインを越えた時、多くの人が理解は出来ないけど、なんとなくそうありたい、自由でありたいっていうのが魅力の正体。

付言すると「多くの人と同じである」が個性の人もどうやらいるっぽい。わからんけど。

そこから、もう一個考えた。自由ってなんだ。と。子供のころから自由になりたい、そのためにはお金が必要、そのためには起業とかそういう道しかない、と思っていた。

その人生の目的の根幹にある、自由ってなんなんだろう。あ、いた、エーリッヒフロムだ。自由からの逃走だ。彼の言いたいこととは違うかもしれないけど、自由は拘束の無いこと、すなわち肉体あっての精神の自由。牢獄あっての囚人の自由。〇〇じゃない何か、だ。フロムは主体的な自由が云々と言っているけど、自由は〇〇から自由になるという形でしか存在し得ないと思う。もしかしたら、それが生からの脱出という意味なのか、貨幣経済からの出立することなのかもしれない。でも、僕にはそれがフロムが批判的に言う主体無き自由が、本来の自由なのかなと思う。なぜかって、人はだれ一人本人の意思で生まれてこられない。だから、他人の意志の拘束をそもそも受けて命を始める。だからこそ、〇〇からの、という主体無きものとの闘争を辞められない。何が言いたいかって、自由は反逆行為である、ということ。生への疑問をフィルターで濾して濾して、残ったものをよく覗いてみると、望んでいるのは自由である。。そしてその自由は、反逆行為だ。生への反逆だし、社会への反発。決して闘争せよと言いたいのではない、自由であれと。人生は自由を求める自分と、それに抗する社会とか常識とかとの死というゴールに必ず辿り着くまでの道程だ。