僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

引きこもりについて考えてみる①

コロナで皆ひきこもっているらしい。

これを機に皆さまが家に居る良さを知って、会社に行くなんて馬鹿らしよね、そもそも何で働いているんだっけ、ってなって自分の好きなことにもっともっと傾いていってほしい。人が生まれた意味なんてのは、タンポポが綿毛を飛ばして、子孫を繁栄させていることに疑問を持つことと同様で、ナンセンス。もういること、あなたが今いる目の前のことに目を向けた方が、合理的。

ただ、それが出来ないからこそ家を出られない、そしてそれが辛いって人もいると思う。それを見ている家族も同様に辛い。コロナに乗じて、僕のひきこもりに対する考え方を書いてみようと思う。今日はその一回目。僕の経験とその時考えていたことを書く。

 

1.「引きこもり」の定義

専門家でも何でもない僕が引きこもりを定義するのは難しい。単なる無職だって家にずっといたらひきこもりなのか、とか、社会との接点を持てなくなることがそれなのか。

引きこもりとかそういう本を浴びる程読んだ時期もある。恐らく「ひきこもり」「教育」「心理」「脳科学」のジャンルだけで100冊は読んだ。当事者が定義に合致するか、というよりも家族や本人の気持ちの方。今の状況にストレスを感じていて、どうやらそれがたまたま「ひきこもり」という現象に近いのでは、だから脱出するヒントを先に経験している人から学ぶ。それが大事。

定義についてただ言えるのは、家族を含む社会との接点を持とうと、本人が思えなくなった時にひきこもりが完成すると思う。ひきこもった人は、どうにかしたいけど、どうにもできない、時間が過ぎていく、時間が過ぎていくからもっと焦る、のループ。時間が過ぎれば過ぎるほど焦りは加速度的に増していって、自分の力ではどうにもできないと、諦める。要は絶望するのよ、人生に。自分の命に、自分の置かれている環境に、自分以外の全ての人が羨ましくて、自分が世界で一番に不幸だって感じ続ける。それは言うまでもなく、苦しい。ちょっと脱線するかもだけど、世の中で苦しんでいる人がいると、自分の幸せもめぐり巡ってちょっと損なわれる。だから、僕の出来ることで苦しんでいる人の助けになったら、僕の幸せにちょっとつながる。そう信じている。

 

2.ひきこもった時期

 

僕が引きこもった時期は、明確にお伝えができない。先に書いたようにどこからがそれ、と提示するのが非常に難しいから。今でも時々は「自分でひきこもりだったのかな」とも思うし、今でも「あれ、僕まだひきこもりじゃね」って思うこともある。

まぁ僕の体感は置いておいて、数字で示してみる。

 

2018年 3月 〇〇株式会社退職

 

2019年 11月 〇〇りんご農園アルバイト開始

 

履歴書から引っ張ってきた。この二つの空白が僕の期間。最長で考えると20か月。1年と8か月。29歳8か月から、31歳4か月。

長いような、短いような。世のなかには、15年以上ひきこもっているって人もいるらしく、辛さにむしろ慣れてくる瞬間もある。引きこもっている人が楽しやがって、と見える時もあるのは確かで。ただ、一方で見えないところで頭を掻きむしって、枕に頭を打ち付けて悶えている瞬間が必ずある。だから、楽しやがってと見ないで欲しい。ちゃんと苦しんでいるからこそ、楽に見える瞬間がある。「苦しむ→ちょっと楽」が順番で来て、あんなに苦しんだから今ちょっと楽に感じるのは、ある意味ご褒美タイムだと思っていて、この「楽」を感じ切ろうと思っていた。その時には「ちょっと楽」を利用して、次のステップに移行するのはむしろ考えられなかった。だって、動こうとすると失敗するかもしれないし、自信も無いし、恥ずかしい。

 

3.何を考えているか

ひきこもりの人って、何を考えているんだろうって、永遠の課題。それが出来れば、こんな状態になっていない。ただ、何も考えていない、という批判はすごくすごくナンセンスだと思う。いや、そう謗りたくなるのも分かるんだけど、冷静に考えるとそんな訳ない。自分のことを考える時間はたっぷりある。人は何かに没頭していると、自分に対して考えが及ばない。ひきこもりの人は、その「何か」が「自分のことを考える」となっていて、自分のことを(主に批判的に)考察することに没頭している状態。

僕の例で言うと、「あ~この状況なんとかしなきゃ」「じゃあ何する」「アルバイトでも始めるか」「車も無ければ技術も無い」「それでも大丈夫なんじゃない?」「きっと駄目だ、だって〇〇〇~(過去の失敗)があったから~」のループ。一個も前に進まない。

 

4.家族についてどう考えているか

これも大事な論点だと思う。家族からすると、何でこうなっちゃったんだろう。どうしたらいいの。とぐるぐるし始める。僕は、ひきこもっていた当時妻がいた。長野県で妻と2人暮らし。妻が自営業で働いて、僕はずっとベッドにいて帰りを待つ。寂しくて、無力で、情けなくて、妻に合わせる顔なんて無いんだけど、会いたい。そして、接点を持てる可能性があるのが妻だけだから、感情の全てを妻に対してぶつけてしまう。僕が信じている自立は、「複数の依存先がある」状態を自立と言う話。日本の「普通」は普通に良い大学を出て、普通に働いて、普通に結婚して、普通に家を建てて~、ってなっていると思う。全く正反対の僕でもそう思うんだから、きっとそういう風に言語化せずとも、行動でやれている人はもう体に染みついている「普通」。批判の意志は全く無いのだけど、その「普通」と引きこもっている人の乖離はもの凄い。冷静に考えると、高学歴高収入で絶え間なく働き、家族を養っていけている人はどれだけいるんだろうか。「普通」は幸せの一つの形で、皆がそれに向かう必要は無いと思っている。

脱線した。どう家族にどう思っているか、だ。一言で言うと、心の底から大事に思っている。それは間違いない。僕はケンカもしたし、ぶっ殺してやりたいとも思ったけれど、大事じゃなきゃそう思わない。「この人なら唯一の依存先になってくれる」と思っているから、頼る。どうしようも無い自分が頼れる唯一の人、大事じゃない訳ない。