僕を考える

八島遼三郎です。心の言語化の場所としてブログを書いています。

ラテ

ブルーボトルコーヒーのラテが異常な美味しさだと思う。さっき、セブンイレブンのラテを買った時、おじさんが「ラテ美味しいもんねぇ、外で飲むより美味しいってみんな言っているよ」とこちらを見ないで、へらへら言っていた。値段と比較すると美味しい。ただ、ブルーボトルのそれとはまったく違う。そんなことを考えていたら、ふと思った。いつからラテなんて飲むようになったんだろう。コーヒーはカフェインか熱を取るためだけのもので、ミルクは要らないと思っていた。でも最近はラテラテもしくはタピオカ。前の妻と車で出かける時、コンビニでコーヒーをしばしば買った。僕はホットコーヒーのLサイズ。彼女はラテの小さいサイズ。内心、ラテかつ小さいサイズって何の意味があるんだろうって言わないけど考えていた。

ラテ問題は、恐らく苦みとかに弱くなっているのが原因。熱いものも、冷たいものも、辛いものも、刺激全般に対して繊細になっている。

自分の中にいる、女性がタピオカとラテを求むのが分かる。いや、恐らくは女性というか子供心みたいなやつだと思う。甘くて、飲みやすくて、見た目がかわいい。ラテとタピオカ。

ある女性と出会った。彼女はラテもタピオカも好きで、繊細でうるさくてすぐhateとかkillとか強くて汚い言葉を使う。自分が中心にいたくて、のけ者にされたくなくて、頑張っちゃうから、そういう片意地の張り方をしちゃう。その人間関係にリラックスできない人は、そこから排除されがちで、彼女も例外じゃない。一気に仲良くなって、急転直下、嫌われて、泣いてを繰り返している。それは分かっていても「i dont care」「it dosent matter」だってやかましく言う。

札幌にいた時も、そういう人がいた。私は人懐っこいから、と言って受け止めてくれそうな人に、甘えて、その人が一端拒絶の意志を示すともう二度と話さない。そんな感じの関係性しか作れない。ブログ「シロクマの屑籠」のくましろさんが著書で、人間関係の妙は、雨降って地固まるを繰り返すことだと言っていた。人は衝突するし、誤解をし合う。もう、それは諦めよう。歩いていたら虫がまとわりつくみたいに、時折不機嫌な店員に対応されるみたいに、自分じゃあどうしようもできないやつ。不具合は起きるのが前提、だから新しいバージョンが生まれるし、そもそも完璧なシステムはこの世に存在しない。だからこそ、もう一回やってみる。嫌いなのは、きっと相手じゃなくて自分の中にある、自分の嫌なところ。それが見えているだけ、簡単に相手がそれをやっちゃうから羨ましいだけ。

きっと僕は遊ばれている。まずいことに多分相手も同じことを僕に思っている。ヤシマはチャラいと何度も言う。僕がちょっとシリアスに聞くと「ちょっとチャラい」って言う。

なんで、遊びが悪いんだろうって100回くらい思う。真剣って何?真剣じゃないのが悪い?そうじゃなくて、僕の想いみたいなものが全然叶わない。小さい頃、母親を泣きながら呼んでも来てもらえなかったみたいな気持ちになる。僕の中にある、こういう子供心というか、未熟な部分が彼女といると刺激される。信じてもらえないと思うけど、性欲の対象じゃない。つまるところ、僕はまだ僕の中にいる、子供の部分を覗いて、どうにかしたいって傲慢にも思っている。この心臓をがっしり掴まれるような寂しい気持ちと、子供で可愛いなってジーンとする感覚を行き来しながら、前者が勝っている。いや、正確に言うと85%と15パーセントくらいの割合。

他の友達に、careはloveじゃないぞヤシマと言われた。分かる、けどちょっと誤解なの、お前らがいた優しいお母さんとお父さんのいる思い出に残らない程の透明で幸せな家庭は、僕と彼女にはなかったやつ。だから、僕じゃなきゃ分かりようがないんだってめっちゃ強く言いたい。でも友達にそんなことを叫んでも何も変わらないから、言わないでおく。

僕が前の妻と一緒にいた時、結構この寂しい気持ちが満たされる瞬間があった。でも、僕はアホだから、9割じゃ満足しなくて、みちみちの、ぎゅうぎゅうに押し込まれるくらいの安心感と、自由を欲しがった。今の僕なら、9割ならいいじゃん、と思う。ただね、心はパズルみたいなもので、ちゃんとフィットしないとその穴は埋まらないんだと思う。だから、僕は女性とコンタクトするのがやっぱり苦手だ。ただでさえ、痛い胸をその人のために形を変えようとして、がちゃがちゃやる。多くの場合はまらないし、近くにはまりそうな何かがあると、胸がもっともっと柔らかく、繊細になる。

宇多田ヒカルが好きだと言うと、あなたは悲しい人ね、と言われた。違う、とも言えない。けどそうそうとも言えない。あなたの前だからよ。きっと僕と彼女の間に起こるなにかは、悲しいって知っているからそんな僕が必ず彼女の前に現れる。彼女もまた悲しみにフォーカスしちゃうから。

そんな意味で恐らくパーフェクト。セックスしたいとか、そういう僕の戯言のような要望は二の次で、もっと心の深いところにあるような何かを満たすために、彼女と会えたんだと思う。

随分前に、ラテを飲みにブルーボトルコーヒーに行こうと誘ってOKを貰ったのに、彼女は初めて会った国人女性と出かけるという。僕だけの中にだけ雨が降って、自分で地を固める作業してる。

決断から怠惰を構築す

決断をしたいなーっていつも思う。考えて、決断の洪水の真ん中に僕らはいつもいて、事象の中じゃないんだよなって思う。人は自分の中にしかいられない。悲しいけど。その自分と、外界の接点には必ず決断があって、そしてそれには排除がセット。それに伴う感傷とかもひっくるめて全部無しにせにゃならん。

僕がこれまでしてきた決断は、恐らく本当の意味での決断でなかった。自分の領域が曖昧だから、流されてふわふわして、ここじゃない何かやどうストレスから逃げるか、が主眼にあったんだ。きっとそれは選択じゃなくて、逃避だ。逃げて、逃げて、僕が規定した端っこにいて、ブレイクスルーを筋トレしたり寝たりして待っている。僕の中の強い誰かが「待つんじゃなくて穿ちにいけ」と言う。一方で体はいやいや違うでしょ、と言う。誰だ、お僕の決断に干渉するのは。ただ、自分の領域は自分で規定できるもんじゃなくて、ふわふわという規定があるだけで、既にふわふわな自分は構築されている。

旅の目的はなんだって友達に聞いた。もっと視野を広げたいんだ、そしたらやりたいことが出てくると思うと彼は言う。そう、きっと彼も自分の着地点を探してる。落ち着いて、自分のしたいことに集中して、かつ進歩しながら生きられる場所やもの。きっとそれが旅だし旅人なんだと思う。どこにも無いって分かっているのに、自分の中にしか無いって分かっているのに、自分以外の全ての場所を探しても見つからないって知っているのに。「俺は日本が一番だって思うために何十か国も旅をしたんだと思う」。おじさん旅人の言葉。

高校生の時、座右の銘を聞かれた友達が「楽をして生きる」と答えたら鼻の尖った国語教員はもごもごけしからんみたいなことを言った。もっともっと近道をしたい。当然だ。命の到達点は死でしかないなら、楽をしたい。むしろ楽をするために生きている。これから長い間生きるって確信してるから、答えに辿り着くのは後でいいやって思っているんだと思う。RPGゲームの全クリを目前に、もうちょいレベル上げしておくかとか、前のステージを繰り返してみるとか、そんなんに近い。

決断と挑戦と慣れと怠惰はハムスターがくるくる回すあれみたいに、素早く回る。そういうもんだ、っておじさんだから知っているけど、次の展開に移るにはどうにも心臓が痛い。心地いいから、漂っていたいから、だからその感傷に浸るまえにさっと変えるほうが楽だ。でも、できない。後ろ髪どころか毛髪全部を持っていかれるような、顔の表面が蕩けるような人のぬくもりと、日ごとにアホになる脳みそを生理食塩水で浸すような感覚。これぞ、怠惰のできあがり。

 

引きこもりについて考える②

僕の知り合いが一日中ベッドにいる。台湾人なんだけど、コロナとか色々で参っている訳じゃない。それなのに一日一回も会わない。仕事とかビザとか住む場所など様々な決めるべきことはあるのだけど、それにはYESともNOとも言わない。ただ、決まったことには従うし、お金も払う。きっと彼は混乱しているんだと思う。状況が変化して、やりたいことがやりたいように出来ない。起きてしまった波をどうにかするために、彼は一日中パソコンを見続ける選択をしている。

引きこもりについて考えるの2回目は、どうして引きこもるという選択になるのか、を考えてみたいと思う。既に、友人について書いた文章で答えは出ているんだけど、いつものようにねちねち書いていく。

 

1.失敗の閾値

人は必ず報酬で動いていると思っている。利他的に見えても、必ず返ってくると思っているから利己的。それ以外だとどうやったって動けないと思う。利己が利他がベストって海外の子供を助けたいって目をキラキラさせている人が言っていた気もする。

指を動かすのも、水を飲むのも、何だっていつも報酬が発生していると思っていて、それがあるからこそ動ける。もし報酬が無ければ動く理由が無いって思ってる。もーーう全てのものが。むしろ、それをお金でやろうとしてるのが今の社会の在り方でしょ、実に狂っているけど、まぁ貝殻を使い始めた時にこの運命は決まっていたのかな。都庁があるすぐ脇に、ホームレスの家があるのを見てそう思った。

主題に戻ると基本的に失敗って、短期的に見ると報酬が無い。でもさ、赤ちゃんの頃って、ご飯引っ繰り返しても知らん顔でニコニコしてる。2歳3歳となっていくにつれて、お母さんが「こら!」と言い始める。子供がびくびくし始める。

基本的に構造は2歳3歳の頃に叱るお母さんと子供の関係と一緒なんだと思う。大人になってもそう。失敗を失敗として受け止めてもらえたか、その経験値が顕著に表れる。

教育批判をしたいんじゃなくて、こういう構造だよね、という話ね。それで、まぁそれなりに大人になった人でも失敗経験値が異様に低い人はいて(僕とか)、その人だって我慢はする。一回失敗して嫌な思いをしたからって、逃げ出したりしない。ただ、その失敗の敷居が異常に低い。だから、些細なことでも傷ついて、失敗ゲージが溜まる。元々失敗の閾値は低い、でも外界の人間は意外とずけずけ生きていて、自分と違う。どんどんたまる。そうして、物事から逃げ出す。それが引きこもりの始まりだと思っている。

 

2.甘えなのか

甘え、って言葉にずっと支配されてきたような気がする。

〇〇するのは甘えかな、〇〇したら甘えだと思われるかなとか。引きこもりは、甘えの総決算セールだと思われている。いや、僕もそう思っている。だって僕は働きもせず、何もせず、一応ご飯は食べてうんこして、果たすべき義務をこなしていない。

勤労の義務も労働の義務も納税の義務も怠っている。非国民か、いやそうじゃない。僕は憲法の方が間違っていると思っていて、義務を果たすためにはそれなりの教育が必要。その方法ってなんなん??となる。

そんでね、きっと甘えがもし非難されるものだとしたら、非難されるべきは関わった人全てに及ぶと思うのよ。だってそうじゃない?事件の被害者はかわいそうだね、ってなて、一方で引きこもりは個人責任、は違う。

 

3.コンフューズ

引きこもりの原因について、一言で言うとconfuseだと思う。どうにかしたい、どうにかできない、じゃあ次の手段、でも面倒臭い、でもなんとかしたい、その考えの連鎖が纏まりになって、頭を支配し、能動的に動くことを拒絶させる。

僕がずっとベッドにいた時、アイキュウは35くらいしか無かったと思う。ただ、元々低いというよりかは、フル稼働させすぎて壊れちゃったよね、って感じ。

もし、引きこもっている人が近くにいる時は、どうか強い言葉や、命令系で言葉をかけてあげないで欲しい。混乱しているから。混乱している時に、何か言われると余計混乱するでしょ。聞こえているけど、頭が処理できないのよ。ただ、見守ってあげてほしい。

悩み愛好

宇多田ヒカルのライブ映像がYouTubeにアップロードされている。むっちりした体に、横を刈り上げた髪型。「会場は見づらいかもしれないけど、こっちからはちゃんと見えているよ」と言う。一瞬の静寂の後のプリズナーオブラブ。最高にエモーショナブル。なんで惹かれるんだろう、と考えてみる。きっと感情の波がその原因。と考えに至る。

高齢者になると、他力本願になる。自転車で走っていると「僕が見てなかったらこのお爺さん死ぬな」と思うタイミングで飛び出してくる。他人を信じているからなんのか、自分を信じているからなのか、それとも信じる信じないのラインから逸脱した何かなのかは分からない。ちょっと話が飛ぶんだけど、生まれる前と死後って不可侵なのに絶対的。だから、それらの詳細がよく分からない僕らにとってのそれは、触れられない黒々とした一本の揺るぎの無い直線みたいだと思う。見上げられるけど、触れられない存在。高齢者は言わずもがな、死に近い存在。直線に向かって歩みを止められないから、日々着々と直線へと形を変えていっている。直線は絶対で、触れられなくて、変えられない。それに近い存在の飛び出すお爺さん。

何で苦しみに惹かれるのだろう、ってずっと考えていた。悩んでいる人がいたら、助けたくなるし、自分が悩んでいる時はストレスだし、変なホルモンが出てきっと寿命は縮んでいる。それでも悩んだり、苦しむのが好きなのは、生への畏敬の念だと思う。

お爺さんの例で、死は固定的で変われないことだって書いた。もし、死と生が逆の概念だとしたら、生は変動的で変わり続けること。揺れ動くことは、ほぼ例外なくストレスが伴う。よくビジネス書でコンフォートゾーンから脱却せよみたいなのあるでしょ。それに近い。あれは死ぬな、生き続けろって鼓舞だと思っている。

ジョジョの作者荒木飛呂彦さんは、ジョジョで生命賛歌を描きたいと言っていた。それに近いと思う。波への執着は生への好奇で、それは即ち生命への畏敬。

僕はずっと自分を生命を忌み嫌っていると思っていた。だから悩むのが好きだし、苦しむのも好きなんだと。多分それは逆で、命が好きで、生きることが好きで、それらへの絶対的な信頼感が、むしろ悩み愛好家を生むと思う。だから、悩みの中にいることは、生きていることそのものだし、生きていることへの信頼だよ。

引きこもりについて考えてみる①

コロナで皆ひきこもっているらしい。

これを機に皆さまが家に居る良さを知って、会社に行くなんて馬鹿らしよね、そもそも何で働いているんだっけ、ってなって自分の好きなことにもっともっと傾いていってほしい。人が生まれた意味なんてのは、タンポポが綿毛を飛ばして、子孫を繁栄させていることに疑問を持つことと同様で、ナンセンス。もういること、あなたが今いる目の前のことに目を向けた方が、合理的。

ただ、それが出来ないからこそ家を出られない、そしてそれが辛いって人もいると思う。それを見ている家族も同様に辛い。コロナに乗じて、僕のひきこもりに対する考え方を書いてみようと思う。今日はその一回目。僕の経験とその時考えていたことを書く。

 

1.「引きこもり」の定義

専門家でも何でもない僕が引きこもりを定義するのは難しい。単なる無職だって家にずっといたらひきこもりなのか、とか、社会との接点を持てなくなることがそれなのか。

引きこもりとかそういう本を浴びる程読んだ時期もある。恐らく「ひきこもり」「教育」「心理」「脳科学」のジャンルだけで100冊は読んだ。当事者が定義に合致するか、というよりも家族や本人の気持ちの方。今の状況にストレスを感じていて、どうやらそれがたまたま「ひきこもり」という現象に近いのでは、だから脱出するヒントを先に経験している人から学ぶ。それが大事。

定義についてただ言えるのは、家族を含む社会との接点を持とうと、本人が思えなくなった時にひきこもりが完成すると思う。ひきこもった人は、どうにかしたいけど、どうにもできない、時間が過ぎていく、時間が過ぎていくからもっと焦る、のループ。時間が過ぎれば過ぎるほど焦りは加速度的に増していって、自分の力ではどうにもできないと、諦める。要は絶望するのよ、人生に。自分の命に、自分の置かれている環境に、自分以外の全ての人が羨ましくて、自分が世界で一番に不幸だって感じ続ける。それは言うまでもなく、苦しい。ちょっと脱線するかもだけど、世の中で苦しんでいる人がいると、自分の幸せもめぐり巡ってちょっと損なわれる。だから、僕の出来ることで苦しんでいる人の助けになったら、僕の幸せにちょっとつながる。そう信じている。

 

2.ひきこもった時期

 

僕が引きこもった時期は、明確にお伝えができない。先に書いたようにどこからがそれ、と提示するのが非常に難しいから。今でも時々は「自分でひきこもりだったのかな」とも思うし、今でも「あれ、僕まだひきこもりじゃね」って思うこともある。

まぁ僕の体感は置いておいて、数字で示してみる。

 

2018年 3月 〇〇株式会社退職

 

2019年 11月 〇〇りんご農園アルバイト開始

 

履歴書から引っ張ってきた。この二つの空白が僕の期間。最長で考えると20か月。1年と8か月。29歳8か月から、31歳4か月。

長いような、短いような。世のなかには、15年以上ひきこもっているって人もいるらしく、辛さにむしろ慣れてくる瞬間もある。引きこもっている人が楽しやがって、と見える時もあるのは確かで。ただ、一方で見えないところで頭を掻きむしって、枕に頭を打ち付けて悶えている瞬間が必ずある。だから、楽しやがってと見ないで欲しい。ちゃんと苦しんでいるからこそ、楽に見える瞬間がある。「苦しむ→ちょっと楽」が順番で来て、あんなに苦しんだから今ちょっと楽に感じるのは、ある意味ご褒美タイムだと思っていて、この「楽」を感じ切ろうと思っていた。その時には「ちょっと楽」を利用して、次のステップに移行するのはむしろ考えられなかった。だって、動こうとすると失敗するかもしれないし、自信も無いし、恥ずかしい。

 

3.何を考えているか

ひきこもりの人って、何を考えているんだろうって、永遠の課題。それが出来れば、こんな状態になっていない。ただ、何も考えていない、という批判はすごくすごくナンセンスだと思う。いや、そう謗りたくなるのも分かるんだけど、冷静に考えるとそんな訳ない。自分のことを考える時間はたっぷりある。人は何かに没頭していると、自分に対して考えが及ばない。ひきこもりの人は、その「何か」が「自分のことを考える」となっていて、自分のことを(主に批判的に)考察することに没頭している状態。

僕の例で言うと、「あ~この状況なんとかしなきゃ」「じゃあ何する」「アルバイトでも始めるか」「車も無ければ技術も無い」「それでも大丈夫なんじゃない?」「きっと駄目だ、だって〇〇〇~(過去の失敗)があったから~」のループ。一個も前に進まない。

 

4.家族についてどう考えているか

これも大事な論点だと思う。家族からすると、何でこうなっちゃったんだろう。どうしたらいいの。とぐるぐるし始める。僕は、ひきこもっていた当時妻がいた。長野県で妻と2人暮らし。妻が自営業で働いて、僕はずっとベッドにいて帰りを待つ。寂しくて、無力で、情けなくて、妻に合わせる顔なんて無いんだけど、会いたい。そして、接点を持てる可能性があるのが妻だけだから、感情の全てを妻に対してぶつけてしまう。僕が信じている自立は、「複数の依存先がある」状態を自立と言う話。日本の「普通」は普通に良い大学を出て、普通に働いて、普通に結婚して、普通に家を建てて~、ってなっていると思う。全く正反対の僕でもそう思うんだから、きっとそういう風に言語化せずとも、行動でやれている人はもう体に染みついている「普通」。批判の意志は全く無いのだけど、その「普通」と引きこもっている人の乖離はもの凄い。冷静に考えると、高学歴高収入で絶え間なく働き、家族を養っていけている人はどれだけいるんだろうか。「普通」は幸せの一つの形で、皆がそれに向かう必要は無いと思っている。

脱線した。どう家族にどう思っているか、だ。一言で言うと、心の底から大事に思っている。それは間違いない。僕はケンカもしたし、ぶっ殺してやりたいとも思ったけれど、大事じゃなきゃそう思わない。「この人なら唯一の依存先になってくれる」と思っているから、頼る。どうしようも無い自分が頼れる唯一の人、大事じゃない訳ない。

 

人生の目的は反逆にしかなりえない

東京に来ている。新幹線を使って、地下鉄に乗って新宿御苑にいる。7日間で8400円のホテル。友達と3人でいくらになるのか。ちなみに朝ごはんまでついている。

 東京は上田市よりもコロナがやばい。地下鉄に乗ったら、向かいに座ったサラリーマンが座る前に窓を開け、マスクをしていなかった僕を見て席を移動した。(ちなみに車内はガラガラ)閉塞感、とはこのことかと思う。テレビを見るとコロナコロナコロナ。Twitterを開いてもらコロナコロナと政権批判。うーん、ちょっとうんざり。

刃牙のアニメを見ている。格闘技好きとしては興味深いのだけど、一緒に見ている外国人は「oh、fuck」と再三呟く。なんでか、ちょっと変だからだ。何で変か。きっと作者の異常性だと思う。言葉にするには作者を知らなすぎるし、それを語るには余りにも含蓄がありすぎる。けど、敢えてするなら「意外性のある、でも馴染みのある面白さ」。キモさ、と言っても良い。公園でストレッチする謎の老人。ファミリーレストランに現れるボロボロな格好でドリンクバーを摂取する若者。電気が殆どついていない、年金込みの経営をしている喫茶店。これらって面白い。他人と違いすぎるのってファニー。元々人は違う個体として生まれ、人として生きるためのルールを学び近接していく。そして大人になるにつれ、特に変な人は徐々に変な人として分岐していき一般人と一線を画し、皆死へと収束していく。時間を横軸にし、縦軸を個性とするとしたらいびつで大きな山型を描くのが、人生だと思っている。個性のふり幅はすなわち個性の発揮で、個性の発揮はキモさであり、それは魅力だと思う。ファミリーレストランに長居する人は、一般の価値尺度から判断するとキモい。だけど、魅力がある。

常人とかけ離れている一方で、誰しもがある個性という観点からは誰しもと親和性がある。分かるけどできない。できないけど何となくわかる。だから魅力。キモさは魅力。

 

それで、更に発展させると、キモさは自由だと思う。抑圧の無い、心情の発揮が自由だから。キモさは魅力であり、自由さ。キモさ=魅力=自由。だからキモさは自由で、自由もキモさ。

だから、敢えてきもくなる必要は無いんだけれど、自分の中にある人と違う部分は、明らかに人生の目的と近くに存在している。分かるか、この理論。

元々個性があって、他人とは違う存在。ゆえに(発揮させればの話だけど)違いは時間と共に大きく振れていって、どんどん加速度的に変わる。その一定ラインを越えた時、多くの人が理解は出来ないけど、なんとなくそうありたい、自由でありたいっていうのが魅力の正体。

付言すると「多くの人と同じである」が個性の人もどうやらいるっぽい。わからんけど。

そこから、もう一個考えた。自由ってなんだ。と。子供のころから自由になりたい、そのためにはお金が必要、そのためには起業とかそういう道しかない、と思っていた。

その人生の目的の根幹にある、自由ってなんなんだろう。あ、いた、エーリッヒフロムだ。自由からの逃走だ。彼の言いたいこととは違うかもしれないけど、自由は拘束の無いこと、すなわち肉体あっての精神の自由。牢獄あっての囚人の自由。〇〇じゃない何か、だ。フロムは主体的な自由が云々と言っているけど、自由は〇〇から自由になるという形でしか存在し得ないと思う。もしかしたら、それが生からの脱出という意味なのか、貨幣経済からの出立することなのかもしれない。でも、僕にはそれがフロムが批判的に言う主体無き自由が、本来の自由なのかなと思う。なぜかって、人はだれ一人本人の意思で生まれてこられない。だから、他人の意志の拘束をそもそも受けて命を始める。だからこそ、〇〇からの、という主体無きものとの闘争を辞められない。何が言いたいかって、自由は反逆行為である、ということ。生への疑問をフィルターで濾して濾して、残ったものをよく覗いてみると、望んでいるのは自由である。。そしてその自由は、反逆行為だ。生への反逆だし、社会への反発。決して闘争せよと言いたいのではない、自由であれと。人生は自由を求める自分と、それに抗する社会とか常識とかとの死というゴールに必ず辿り着くまでの道程だ。

 

他人の快適は自分の不快で、その逆もありけり。

昨日、台湾人に言われた。「自分の言葉を違う言葉で言い換えられるのは、ある程度以上、脳を使える人じゃないとできない。だって〇〇さんは僕にスノーボードを教える時も、会話もずっとヤシマさんの翻訳が必要だったでしょ。思い出してみて、▲▲さんは日本語しか使わないけどヤシマさん無しでも会話になってたでしょ。」

驚いた。気が付かなかった。確かに、ルールが大好きな知り合いの女性は、外国人が困った顔をしていても、日本語で同じ言葉を繰り返していた。方法を変えるって難しい。窮地に追い込まれれば追い込まれるほど、体に馴染んでいる方法を採用する。思い起こすのはフットサル。大抵の人は出てくる技に限りがある。足の裏でボールを転がして股を抜く、足の外側で横にボールを出すカットイン。至極当然なんだけど、技は状況に応じて使わないとその効果は充分に発揮されない。でも、相手に寄せられて困って、頭が混乱したとき出てくるのは、それら。脳がストレスの反応とその処理で固まっているから、状況に応じた適切な判断ができない。

だからいつものやつ。父親が、毎朝行くコーヒー屋さんも、母親が上京の度に行くホテルも、理由はコスパじゃない。行ったことがあるからだ。自らを快適にするために、人は動く。品川を最初に訪れた時の母は不快だったろう。山手線に乗ってみて、エレベーターに乗って、寝てみて快適さを獲得したんだと思う。カットインも、喫茶店も、ホテルも外側から見たら、変かもしれない。ただ、その人の快適さがある。それは忘れてはならない。

インドネシアの屋台で働くおばさん達は物理的に手の届く範囲でしか、生きていなかった。僕の言った注文をまばたきするみたいに瞬時に受け取って、息を吸うみたいに袋に食べ物を入れて、息を吐くみたいに僕に放って寄越した。それが済むと一秒も待たずにまた汚い店でアイフォンをいじり始めた。「何でこの人はもっと稼ごうとしないんだろう」「なんでこんな対応なんだろう」。僕の正常からすると、醜い程に無知で、悍ましい程に馴染んでいる。ちょうど子供が部屋を散らかしながら遊んでいるみたい。当人は楽しくともそれを見た自分には不快感を伴う。

知り合いのおじさんに言われた。「ヤシマさんは他人のことみんな馬鹿だと思っているでしょ」。ショックだった。快適さの中にいる人を、不快な奴だ、愚かだ思っていて、しかもそれが伝わっている。「他人の快適は自分の不快」現象は確かにある。

ずっと考えている。自分とは何なのか。自分につける固有名詞が欲しくなる。忙しい人、格好いい人。自分の中にある一貫したものを探そうとして、今日家を出るときにも「僕は家をでたい人なのか」と脳が勝手に処理。違う。エラーだ。幾星霜とまではいかないけど、30年以上で積み重ねた行動を細分化するとほぼ無限。今も携帯を充電しながらパソコンを打っている。人差し指が動かせる人ではある。タイピングができる人でもある。家を出たのはデータの一個で、確定値じゃない。家を出た日もあれば出ない日もある。データには必ず揺らぎがある。だからこそ観測をする。事実、僕は家を出たい人でもある一方で、家にいるのも大好きな人だ。人差し指を動かせる人も、タイピングが出来る人も沢山いる。才能を発揮して特殊なる個を発揮する。そんな自分が見たいんだろう。傲慢だ。ひとりの人間だから。自分はスペシャルワンだって信じて疑っていないから。自己認知は自己承認から始まってゆっくり回転する。その狭間に、自分と他人の違いっていう碍子があって、時々ストップする。要は他人を俯瞰して蔑むと、僕の動きは止まる。

 

どうやら僕は頭が良い。良くも悪くも。