僕を考える

八島遼三郎です。心の言語化の場所としてブログを書いています。

新宿Uberは、おじさんを育てる

今、新宿にいる。ホストとバレンシアシアガと外国人が元気な街。

世間では住所を持たない、自由に世界を飛び回るアドレスホッパーが話題になっているけど、僕は強制アドレスホッパー。いや、というよりもギリギリホームレスを免れた人。そこでUbereatsをやって糊口をしのいでいる。

 

Uberは基本的に個人事業主で、やるもやらないも自由。一週間で7000円しか稼がない時もあったし、10万円に近い金額を稼いだ週もある。

一緒に住んでいるおじさんが電話口で「ウーバーは稼げるよ、ははは」なんて言っていたのを聞いて、雪山に冬の間居たお金を崩しながら生活していた頃の僕は飛びついた。

 

おじさんに教えてもらいながら、始めてみる。始めはドコモが運営しているいわゆる赤チャリ。良くない。構想は良いけど実際は、バッテリーの交換がされていなかったり、パンクしていたり。朝一で自転車を探すというミッションクリアが必要になる。そこから、ジモティーで買った緑色のロードバイク。3日で壊れた。8000円返せ。そして今使っているのは、ドン・キホーテで買った25000円のクロスバイク。自転車は消耗品だから、これくらいがいいと思う。高級品を使ってひとコケうん万はきつい。

マック地蔵と言われている人達がいる。マクドナルドは店舗数が多いので、店舗がカバーする配達する範囲が狭い。要は効率良く稼げる。なので、ドライバーが集まる。朝から晩までマック地蔵をするウズベキスタン人もいる。噂でしかないけど、アカウント5つ用意して地蔵をする猛者もいるという。多分ばれたらアカウント停止。

最初の頃は、ひたすら走った。これが東京か、って考えながら。新宿区から足立区まで行って、河原をサイクリングしたこともある。当然稼げない。繁華街に行くようになる。最初は歌舞伎町。店が沢山あるけど、坂の多い西新宿に行かされることが多い。駄目。新宿御苑、四谷、東新宿に狙いを定める。

一件当りにもらえるお金は500円程。一万円稼ぐためには単純計算で20回。なんだたった20回か、と思うだろうか。100キロ位は自転車を漕いでいる。というと伝わるだろうか。オシャレに楽に、スポーツがてら稼げますよ、と謳うコマーシャルに首肯できない。大殿筋と大腿四頭筋を酷使した時給の何倍も貰っているだろう人がゴロゴロいる千代田区あたりにいく。みんな白いシャツを着ている。同僚とライザップの話をしていて、世の中の中心ぞここにありって感じ。ただ、僕らUberには自由がある。なんて心の中で唱えて湧き出るネガティブシンキングを抑える。拘束されたくない、むしろできない人が辿り着くのがUberなんだと思う。タクシーの運転手なんかと一緒の人種。

世界の動向によって株価が動いて、トレーダーが反応して、ホストに落ちるお金が落ちると、僕らが受ける注文は減る。今月の20日くらいまでは地獄のような氷河期だった。一日必死に自転車に跨っていても、4000円とか。死ぬ。いつか大丈夫になる、なんて思えずにマスクで顔を隠しながらああああああって言っていた。ただ、ちょっとその最低を越えた。1年位前にもやしを買う数でケンカしたことを考えて泣いた。その時よりお金がある。お金は便利で有難い。というより、無いと生きていけないし、無くなる怖さで生きていけない、それに気が付いた。

Uberを教えてくれたおじさんが、Uberの講習会を開くという。Twitter経由で、20人位の人が集まったらしい。旅人で、酒飲みで、優しくて、優しすぎるからいつも素寒貧のおじさん。若くて、皆どこかで負い目があるような人たちから好かれる。おじさんはそういう、人気だとか慕われることから逃げてきたんだと思う。そんな、大した奴じゃないから、駄目だからと言って。でも、年貢の納め時が来た。ちゃんと人望通りに人から好かれる覚悟、その条件が、Uberと旅人と若人。僕の存在も含めて揃った。肉体労働をしながら、する言葉もダメ人間の言葉から、他人に教える言葉に変わっていく。人が変わっていく姿はいつだって美しい。

早く妥協した人間になりたいという話

四谷の自転車屋さんに行った。自転車が壊れたけど、治すとすると新しいのを買えるくらいの値段。知り合いのイギリス人が使わないやつを買おうとしたら2万円だと言われた。元値は25000くらい。誰が買うんだ。
いつも店先に座っている、パーマで長髪のおじさんの顔を覗くと、なに?どうしたの?と言われた。僕が困惑した顔をしながら、自転車壊れたみたいで、、というとちょっと優しくできる限り安くやってみるよ、と。
僕の世界は本当に移ろい易い。昨日まで好きだったあの娘も、今日は機嫌が悪いから話かけたくない。1ヶ月前まであった謎の自信は、膝の怪我で萎えた。
とある人から連絡が来る。嫌な内容。最近知り合った細くてアメリカ英語話す男前が、嫌なことって畳み掛けるよね、と大きい声で言っていた。まさにそんな感じで、ちょっといい事があっても、すぐ隙間にそいつらが入ってくる。なんとかジェントルな感じでかえすと、褒められる。そうしたら、その人が言いたい世の中の原理みたいなのを僕のためを思って言ってくれる。違うんだって思う。その原理は自分の中でだけのもので、人に求められてない時に言うと、その原理自体が意味をなさなくなる。でも違うって言えない。そう言うと、違うの歯車が回り始めちゃう。
その俯瞰したような、でも達観はしてない、居心地の悪い目線が、僕のソーシャルエナジーをゴリゴリ削る。その両方が半端なんだと思う。自分の身の置き所が定まらないから、他人が入って来ちゃう。そして疲れる。力強く自分の力だけでいきたいなんて思ってない。疲れたくない。あわよくばちょっと幸せになりたい。それだけ。流行の波にも、世間の目線にも従うから、それくらい許して欲しい。

その触りの部分を知り合いに言うと、みんなそうだって言う。言わないだけで、みんな苦しんでるんだって。正論というか、教科書論。みんなが好きな歌謡曲では、誰しも愛し合おうって歌う。その通りだ。だけどそれは上澄みで、世界の美しいところを切り取ったやつ。透明な鶏ガラスープを作るために、鶏の足が沢山青いゴミ箱に捨てられてるみたいに、美しすぎる言葉に僕は事実を感じられない。いつもいつも曖昧で混濁してる。混ざりすぎると、スープを作ることがどうでも良くなって、直接排水溝に流しても同じでしょって極論に辿り着く。

自転車が出来上がった。悪くない。万全じゃないけど、走ればいいんだもんね、とおじさん。そうだ、その通りだ。生きていくことに美醜なんて殆どない。ただ地面とタイヤの摩擦が起きて、進めればいい。おじさんの店先はレンチやら何やらが散乱している。利便性と見た目の間にある妥協点。
生きるってそういうことだって思う。

あっで始まるセンシティブな何か

あっ、という文頭の言葉をよく使う。

あっありがとうございます、や、あっそうなんだね、って。

この「あっ」は、クッション。言いたいことが正しいか、自負があるかを自分に問うたまま音を発しているから、緩衝材をつけたくなる。ありがとうございます、の含む傲慢さに耐えられなくて、尊大な自分をみたくなくて、傲岸不遜な奴を軽蔑する意味で「あっ」をつける。

 

今日は朝から、あっ、ごめんね。と言った。僕の自己卑下みたいな言葉の4秒前に、ごめんね、を僕は聞いた。

 

悟った。意思が中空に舞って、感情を俯瞰した。この言葉は言葉としての言葉じゃなくて、意思の表明なんだと。言葉をそのままに、悪うございましたの意味じゃなく、仲良くする気持ち。大人の世界では、音は大事じゃなく、態度がそれよりも重要。社会はそっちを見る。だから、言葉はけじめだし、踏み絵なんだと思う。心臓を掴まれるような嘘を吐くストレスをこらえて、宣言ができるのかどうか。

恐らく、人はノーリターンのものに対して強くできてない。ストレスしかかからない、かつ手元に戻るものの無いであろうものには、ストレスを自らに強いることができない。そう、人は神の偶像を足蹴にできない。

だから、社会のエンパワーメントの中で最も大きいものの一つであろう、序列付けを使うんだと思う。おじさんが、取引先に頭を下げられるのは大事な家族がいるから。チャラい男が華やいだ誉め言葉で女性を口説けるのは、他にも狙っている人がいるから。2番目以降なら捨てられる。賭けの対象にできるから、大胆になれる。

その大胆さは、人並み外れないと出来ないものだと思っていて、その豪快さに人はグッと引き込まれる。痺れる憧れる、だ。

一方で、人は自分の一番をベットすることを躊躇う。大事がゆえに失いたくないから。

 

その時に、気が付いた。あ、ベットされなかった。って。ジンバブエドルの札束が落ちても気に留めないみたいな、音としてのごめんね。

知ってる。そんな扱いの方が嬉しいって見方もある。序列の最高峰にいる時、人の感情は得てして揺らぎやすい。一番じゃないの?ってなる。大事だから憎いのアンビバレントな思いは、人を揺らがせて、簡単に死にたくさせる。

 

「あっ」の後、ハグをした。右肩と左肩が触れ合うだけの、本来のそれとは程遠い、握手よりも遠いハグ。

 

ラテ

ブルーボトルコーヒーのラテが異常な美味しさだと思う。さっき、セブンイレブンのラテを買った時、おじさんが「ラテ美味しいもんねぇ、外で飲むより美味しいってみんな言っているよ」とこちらを見ないで、へらへら言っていた。値段と比較すると美味しい。ただ、ブルーボトルのそれとはまったく違う。そんなことを考えていたら、ふと思った。いつからラテなんて飲むようになったんだろう。コーヒーはカフェインか熱を取るためだけのもので、ミルクは要らないと思っていた。でも最近はラテラテもしくはタピオカ。前の妻と車で出かける時、コンビニでコーヒーをしばしば買った。僕はホットコーヒーのLサイズ。彼女はラテの小さいサイズ。内心、ラテかつ小さいサイズって何の意味があるんだろうって言わないけど考えていた。

ラテ問題は、恐らく苦みとかに弱くなっているのが原因。熱いものも、冷たいものも、辛いものも、刺激全般に対して繊細になっている。

自分の中にいる、女性がタピオカとラテを求むのが分かる。いや、恐らくは女性というか子供心みたいなやつだと思う。甘くて、飲みやすくて、見た目がかわいい。ラテとタピオカ。

ある女性と出会った。彼女はラテもタピオカも好きで、繊細でうるさくてすぐhateとかkillとか強くて汚い言葉を使う。自分が中心にいたくて、のけ者にされたくなくて、頑張っちゃうから、そういう片意地の張り方をしちゃう。その人間関係にリラックスできない人は、そこから排除されがちで、彼女も例外じゃない。一気に仲良くなって、急転直下、嫌われて、泣いてを繰り返している。それは分かっていても「i dont care」「it dosent matter」だってやかましく言う。

札幌にいた時も、そういう人がいた。私は人懐っこいから、と言って受け止めてくれそうな人に、甘えて、その人が一端拒絶の意志を示すともう二度と話さない。そんな感じの関係性しか作れない。ブログ「シロクマの屑籠」のくましろさんが著書で、人間関係の妙は、雨降って地固まるを繰り返すことだと言っていた。人は衝突するし、誤解をし合う。もう、それは諦めよう。歩いていたら虫がまとわりつくみたいに、時折不機嫌な店員に対応されるみたいに、自分じゃあどうしようもできないやつ。不具合は起きるのが前提、だから新しいバージョンが生まれるし、そもそも完璧なシステムはこの世に存在しない。だからこそ、もう一回やってみる。嫌いなのは、きっと相手じゃなくて自分の中にある、自分の嫌なところ。それが見えているだけ、簡単に相手がそれをやっちゃうから羨ましいだけ。

きっと僕は遊ばれている。まずいことに多分相手も同じことを僕に思っている。ヤシマはチャラいと何度も言う。僕がちょっとシリアスに聞くと「ちょっとチャラい」って言う。

なんで、遊びが悪いんだろうって100回くらい思う。真剣って何?真剣じゃないのが悪い?そうじゃなくて、僕の想いみたいなものが全然叶わない。小さい頃、母親を泣きながら呼んでも来てもらえなかったみたいな気持ちになる。僕の中にある、こういう子供心というか、未熟な部分が彼女といると刺激される。信じてもらえないと思うけど、性欲の対象じゃない。つまるところ、僕はまだ僕の中にいる、子供の部分を覗いて、どうにかしたいって傲慢にも思っている。この心臓をがっしり掴まれるような寂しい気持ちと、子供で可愛いなってジーンとする感覚を行き来しながら、前者が勝っている。いや、正確に言うと85%と15パーセントくらいの割合。

他の友達に、careはloveじゃないぞヤシマと言われた。分かる、けどちょっと誤解なの、お前らがいた優しいお母さんとお父さんのいる思い出に残らない程の透明で幸せな家庭は、僕と彼女にはなかったやつ。だから、僕じゃなきゃ分かりようがないんだってめっちゃ強く言いたい。でも友達にそんなことを叫んでも何も変わらないから、言わないでおく。

僕が前の妻と一緒にいた時、結構この寂しい気持ちが満たされる瞬間があった。でも、僕はアホだから、9割じゃ満足しなくて、みちみちの、ぎゅうぎゅうに押し込まれるくらいの安心感と、自由を欲しがった。今の僕なら、9割ならいいじゃん、と思う。ただね、心はパズルみたいなもので、ちゃんとフィットしないとその穴は埋まらないんだと思う。だから、僕は女性とコンタクトするのがやっぱり苦手だ。ただでさえ、痛い胸をその人のために形を変えようとして、がちゃがちゃやる。多くの場合はまらないし、近くにはまりそうな何かがあると、胸がもっともっと柔らかく、繊細になる。

宇多田ヒカルが好きだと言うと、あなたは悲しい人ね、と言われた。違う、とも言えない。けどそうそうとも言えない。あなたの前だからよ。きっと僕と彼女の間に起こるなにかは、悲しいって知っているからそんな僕が必ず彼女の前に現れる。彼女もまた悲しみにフォーカスしちゃうから。

そんな意味で恐らくパーフェクト。セックスしたいとか、そういう僕の戯言のような要望は二の次で、もっと心の深いところにあるような何かを満たすために、彼女と会えたんだと思う。

随分前に、ラテを飲みにブルーボトルコーヒーに行こうと誘ってOKを貰ったのに、彼女は初めて会った国人女性と出かけるという。僕だけの中にだけ雨が降って、自分で地を固める作業してる。

決断から怠惰を構築す

決断をしたいなーっていつも思う。考えて、決断の洪水の真ん中に僕らはいつもいて、事象の中じゃないんだよなって思う。人は自分の中にしかいられない。悲しいけど。その自分と、外界の接点には必ず決断があって、そしてそれには排除がセット。それに伴う感傷とかもひっくるめて全部無しにせにゃならん。

僕がこれまでしてきた決断は、恐らく本当の意味での決断でなかった。自分の領域が曖昧だから、流されてふわふわして、ここじゃない何かやどうストレスから逃げるか、が主眼にあったんだ。きっとそれは選択じゃなくて、逃避だ。逃げて、逃げて、僕が規定した端っこにいて、ブレイクスルーを筋トレしたり寝たりして待っている。僕の中の強い誰かが「待つんじゃなくて穿ちにいけ」と言う。一方で体はいやいや違うでしょ、と言う。誰だ、お僕の決断に干渉するのは。ただ、自分の領域は自分で規定できるもんじゃなくて、ふわふわという規定があるだけで、既にふわふわな自分は構築されている。

旅の目的はなんだって友達に聞いた。もっと視野を広げたいんだ、そしたらやりたいことが出てくると思うと彼は言う。そう、きっと彼も自分の着地点を探してる。落ち着いて、自分のしたいことに集中して、かつ進歩しながら生きられる場所やもの。きっとそれが旅だし旅人なんだと思う。どこにも無いって分かっているのに、自分の中にしか無いって分かっているのに、自分以外の全ての場所を探しても見つからないって知っているのに。「俺は日本が一番だって思うために何十か国も旅をしたんだと思う」。おじさん旅人の言葉。

高校生の時、座右の銘を聞かれた友達が「楽をして生きる」と答えたら鼻の尖った国語教員はもごもごけしからんみたいなことを言った。もっともっと近道をしたい。当然だ。命の到達点は死でしかないなら、楽をしたい。むしろ楽をするために生きている。これから長い間生きるって確信してるから、答えに辿り着くのは後でいいやって思っているんだと思う。RPGゲームの全クリを目前に、もうちょいレベル上げしておくかとか、前のステージを繰り返してみるとか、そんなんに近い。

決断と挑戦と慣れと怠惰はハムスターがくるくる回すあれみたいに、素早く回る。そういうもんだ、っておじさんだから知っているけど、次の展開に移るにはどうにも心臓が痛い。心地いいから、漂っていたいから、だからその感傷に浸るまえにさっと変えるほうが楽だ。でも、できない。後ろ髪どころか毛髪全部を持っていかれるような、顔の表面が蕩けるような人のぬくもりと、日ごとにアホになる脳みそを生理食塩水で浸すような感覚。これぞ、怠惰のできあがり。

 

引きこもりについて考える②

僕の知り合いが一日中ベッドにいる。台湾人なんだけど、コロナとか色々で参っている訳じゃない。それなのに一日一回も会わない。仕事とかビザとか住む場所など様々な決めるべきことはあるのだけど、それにはYESともNOとも言わない。ただ、決まったことには従うし、お金も払う。きっと彼は混乱しているんだと思う。状況が変化して、やりたいことがやりたいように出来ない。起きてしまった波をどうにかするために、彼は一日中パソコンを見続ける選択をしている。

引きこもりについて考えるの2回目は、どうして引きこもるという選択になるのか、を考えてみたいと思う。既に、友人について書いた文章で答えは出ているんだけど、いつものようにねちねち書いていく。

 

1.失敗の閾値

人は必ず報酬で動いていると思っている。利他的に見えても、必ず返ってくると思っているから利己的。それ以外だとどうやったって動けないと思う。利己が利他がベストって海外の子供を助けたいって目をキラキラさせている人が言っていた気もする。

指を動かすのも、水を飲むのも、何だっていつも報酬が発生していると思っていて、それがあるからこそ動ける。もし報酬が無ければ動く理由が無いって思ってる。もーーう全てのものが。むしろ、それをお金でやろうとしてるのが今の社会の在り方でしょ、実に狂っているけど、まぁ貝殻を使い始めた時にこの運命は決まっていたのかな。都庁があるすぐ脇に、ホームレスの家があるのを見てそう思った。

主題に戻ると基本的に失敗って、短期的に見ると報酬が無い。でもさ、赤ちゃんの頃って、ご飯引っ繰り返しても知らん顔でニコニコしてる。2歳3歳となっていくにつれて、お母さんが「こら!」と言い始める。子供がびくびくし始める。

基本的に構造は2歳3歳の頃に叱るお母さんと子供の関係と一緒なんだと思う。大人になってもそう。失敗を失敗として受け止めてもらえたか、その経験値が顕著に表れる。

教育批判をしたいんじゃなくて、こういう構造だよね、という話ね。それで、まぁそれなりに大人になった人でも失敗経験値が異様に低い人はいて(僕とか)、その人だって我慢はする。一回失敗して嫌な思いをしたからって、逃げ出したりしない。ただ、その失敗の敷居が異常に低い。だから、些細なことでも傷ついて、失敗ゲージが溜まる。元々失敗の閾値は低い、でも外界の人間は意外とずけずけ生きていて、自分と違う。どんどんたまる。そうして、物事から逃げ出す。それが引きこもりの始まりだと思っている。

 

2.甘えなのか

甘え、って言葉にずっと支配されてきたような気がする。

〇〇するのは甘えかな、〇〇したら甘えだと思われるかなとか。引きこもりは、甘えの総決算セールだと思われている。いや、僕もそう思っている。だって僕は働きもせず、何もせず、一応ご飯は食べてうんこして、果たすべき義務をこなしていない。

勤労の義務も労働の義務も納税の義務も怠っている。非国民か、いやそうじゃない。僕は憲法の方が間違っていると思っていて、義務を果たすためにはそれなりの教育が必要。その方法ってなんなん??となる。

そんでね、きっと甘えがもし非難されるものだとしたら、非難されるべきは関わった人全てに及ぶと思うのよ。だってそうじゃない?事件の被害者はかわいそうだね、ってなて、一方で引きこもりは個人責任、は違う。

 

3.コンフューズ

引きこもりの原因について、一言で言うとconfuseだと思う。どうにかしたい、どうにかできない、じゃあ次の手段、でも面倒臭い、でもなんとかしたい、その考えの連鎖が纏まりになって、頭を支配し、能動的に動くことを拒絶させる。

僕がずっとベッドにいた時、アイキュウは35くらいしか無かったと思う。ただ、元々低いというよりかは、フル稼働させすぎて壊れちゃったよね、って感じ。

もし、引きこもっている人が近くにいる時は、どうか強い言葉や、命令系で言葉をかけてあげないで欲しい。混乱しているから。混乱している時に、何か言われると余計混乱するでしょ。聞こえているけど、頭が処理できないのよ。ただ、見守ってあげてほしい。

悩み愛好

宇多田ヒカルのライブ映像がYouTubeにアップロードされている。むっちりした体に、横を刈り上げた髪型。「会場は見づらいかもしれないけど、こっちからはちゃんと見えているよ」と言う。一瞬の静寂の後のプリズナーオブラブ。最高にエモーショナブル。なんで惹かれるんだろう、と考えてみる。きっと感情の波がその原因。と考えに至る。

高齢者になると、他力本願になる。自転車で走っていると「僕が見てなかったらこのお爺さん死ぬな」と思うタイミングで飛び出してくる。他人を信じているからなんのか、自分を信じているからなのか、それとも信じる信じないのラインから逸脱した何かなのかは分からない。ちょっと話が飛ぶんだけど、生まれる前と死後って不可侵なのに絶対的。だから、それらの詳細がよく分からない僕らにとってのそれは、触れられない黒々とした一本の揺るぎの無い直線みたいだと思う。見上げられるけど、触れられない存在。高齢者は言わずもがな、死に近い存在。直線に向かって歩みを止められないから、日々着々と直線へと形を変えていっている。直線は絶対で、触れられなくて、変えられない。それに近い存在の飛び出すお爺さん。

何で苦しみに惹かれるのだろう、ってずっと考えていた。悩んでいる人がいたら、助けたくなるし、自分が悩んでいる時はストレスだし、変なホルモンが出てきっと寿命は縮んでいる。それでも悩んだり、苦しむのが好きなのは、生への畏敬の念だと思う。

お爺さんの例で、死は固定的で変われないことだって書いた。もし、死と生が逆の概念だとしたら、生は変動的で変わり続けること。揺れ動くことは、ほぼ例外なくストレスが伴う。よくビジネス書でコンフォートゾーンから脱却せよみたいなのあるでしょ。それに近い。あれは死ぬな、生き続けろって鼓舞だと思っている。

ジョジョの作者荒木飛呂彦さんは、ジョジョで生命賛歌を描きたいと言っていた。それに近いと思う。波への執着は生への好奇で、それは即ち生命への畏敬。

僕はずっと自分を生命を忌み嫌っていると思っていた。だから悩むのが好きだし、苦しむのも好きなんだと。多分それは逆で、命が好きで、生きることが好きで、それらへの絶対的な信頼感が、むしろ悩み愛好家を生むと思う。だから、悩みの中にいることは、生きていることそのものだし、生きていることへの信頼だよ。