僕を考える

八島遼三郎です。心の言語化の場所としてブログを書いています。

さようなら自分

31歳である。

去年は全部手放してみた年だった。仕事も物も、趣味も。これ以上ないくらいに手放した。

唯一持っていたロレックスは、換金価値高かった。

 

 

無駄に持っているから、とか好きじゃないことをやっているから、とか理由を探しているけど、理由なんて本当はどうでもよくて、ただ自分を愛せていないんだって思う。

 

どうやら、自分に虚栄じゃない自信がある状態って、心地よいらしい。自分に耽溺して体が軽くて、周りが良い意味で見えてない状態。

なったことが無いから、わかんない。

貧者は窮するようにできていて、焦って焦って、とりあえずを繰り返してみてるけども、心が定着しない。愛せない。

 

全てが良くなることも無いし、一瞬で苦しみが消えることも無いし、全てが一瞬でよくなることはもっと無い。

それは分かっているんだけど、今が苦しすぎて、それを望むことが避けられない状態。

これを外から見たら何て名前を付けるんだろうか。

愛着性障害、境界性パーソナリティ障害アダルトチルドレン 全部当てはまるなぁ。

親に、お前が悪いんだ!って言えば終わるんだろうか。

妻を罵倒すれば終わるんだろうか。

 

その前に、力尽きそうである。

 

理解なんてできない

明日は誕生日。友達が、前祝いとして大好きな中華料理屋さんに連れて行ってくれた。

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去年に引き続き、餃子31個。

友達とここの店主の話になる。美味しいお店なのに、すごく流行っているわけではないし、ものすごく儲かっているわけではない。味はすごく美味しい。多分餃子の王将の10万倍美味しい。

でも毎日ウィスキーやワンカップを飲んで、必死に現実から目を背けようとしているように見える。

友達は言う「彼らは不満を含めて楽しんでいる。経済とか将来とか諸々込めて今を楽しんでいるんだよ」と。

納得した。店はボロだし、めっちゃ休みがち。本人がそれで良いなら、それで良い。他人が自分の基準で、勝手に評価することのほうがよっぽど無粋で不幸せ。

たとえ辛そうに見えても、死にそうでも他人ができることはない。マメにお店に行くことくらい。

 

 

漫画ブリーチの藍染隊長の能力「鏡花水月」は、完全催眠。催眠はかかっている本人は気づけないが故に催眠である。因みに藍染隊長はこのチート能力で、ソウルソサエティ(霊界的なところ)の転覆と支配を手中に収めそうになる(でも主人公に阻止される)。

催眠と同じように、潜在的にある欲求やトラウマってきっと分かれない。

母がこうだったとか、イジメが〜とか要因と思われるものはあるけども証明はできない。何となく不安とか、不完全感とかになって現れてくる。

理解できないかもしれないけど、少なくとも、自分だけは自分を理解することを試み続けていきたいと思う所存。

 

 

やりたいことの正体

雨が降っている。梅雨ってこんなに長いんだっけと思うけど、去年のことを思い出せない。

やだなぁ、雨。

こんな天気だから、本をよんでいた。加藤諦三さんの「自立と孤独の心理学 不安の正体が分かれば心はラクになる」。

不安や焦燥感などその他諸々の、不完全感は、幼少期に母親との愛着欲求が満たされていないからであると書いてある。

淡々と○○であったから○○な心理状態となり不安が襲う。と書いてあって、そのどれもが僕に当てはまる。

 

「過剰な虚偽の愛」という言葉がでてくる。ちょっと長い引用。

「自分の心の冷たさを隠して過度の愛情をあるふりをするということもしばしば起きる。(中略)子供の方も自分が愛されていると思い込もうとする。親の方が愛していると思い込み、子供が愛されていると思い込み、いつまでも親子関係が深くかつ閉じこめられていることがある」

「つまりは子供は愛情豊かな親に育てられ、愛情豊かな家庭に育っていることを感謝しなければならないということになる。(中略)これは子供にとって地獄である。しかも天国にいると信じ込まなければならないのである。」

母も僕も愛情を注いだ(注がれた)と思っている。でも、母はその母からの愛着欲求が満たされていないから、愛し方を知らないんだと思う。

本書では「欺瞞に満ちた親子関係」とショッキングな言葉を用いて書かれている。けどショッキングな事象なのにも関わらず、当人達はそれに気がつけないのが、厳しい問題だと思う。

愛するって難しい。愛もお金も交換だから、最初が肝心。初期装備で愛情を持っていたら、それは見えない無敵の鎧であり、剣。

お金であれば、「被害者」であるとか、「何も持っていない」というのは見えやすいストーリーとなって、逆にインプレッシブなこと。

でも愛は、どれくらい持っているかは自分にも他人にも見えづらく気づけない。そして、自分に対して「自分は愛されていたのか」と問うのは、自分で自分の存在価値をはかるもので、多くの場合疑いになる。

「なんかうまくいかない」「気持ちがふさぐ」って気持ちは、本来自分の価値とは関係ない。けど、「どうしてだろう」と、起きたことに検証をして、次起こさないようにするのは必然であり、止めようがない。

 

本書で「欺瞞に満ちた親子関係」が子供にもたらす結果を以下のように書いている。

「このような人たちは社会的に孤立する。淋しい。働くことを嫌がる。何をするのも楽しくない。敵意を抑圧しているから他人の不幸だけが楽しみになる。いつも不機嫌に苦しむ。いつも重苦しい気持ちでやりきれない。したいことができないで、したくないことをせざるを得なくなる。会いたい人と会えないで、いつも一緒にいたくない人といつも一緒にいることになる。とにかく全てが矛盾してくる。」

これ僕じゃん!となった。全部当てはまるし、最後の「とにかく全てが矛盾してくる。」なんて、心臓を打たれたような衝撃。

こんな本を読むのも、心を検証するのも、辛いからであって、辛くなければ必要が無い。

そうして要因を理解したところで、万事うまくいくわけでもない。

でもやめられないし、せざるを得ないし、やりたい。

だから、やる。今の状況も辛いし、検証作業もしないで済むならやりたくないけど、しないではいられない。これが努力のあるべき姿。

辛いけど、何なら嫌いだけど、やっていること。やりたいことの正体。

 

唐揚げは崇高なり

父親から電話が来た。妻との関係や僕の状況などを話す。

あくまで湿っぽくならずに、お互いの境界線を越えないようにしながら。

「寂しいけど、他の生活はAランクだからな!アッハッハ!」とのたまう。

父も母と離婚して、ずっと独身。父は彼の母とずっと暮らしている。

それが父の生涯で成し遂げたいことなんだろう。きっと母(僕からすると祖母)と両想い。

 

そして父になる

そして父になる

 



父は、祖父の仕事を継いで(というか財産を受け継いで)、ずっと生きている。お金に困ったことはないだろうけど、自己効力感は低いだろう。それを癒すためには祖母と一緒じゃなきゃダメなんだろう。色んな生き方がある。

じゃあ、僕が自己効力感を持てるような、「やりたいこと」って何だろうって、ずっと考えてきた。

それさえやれば、自由になって、素晴らしい人間になって、賞賛されて、女性にチヤホヤされる。そんな類のもの。

 

遠い未来を想像して、今の自分とのギャップに辟易とする。よくある。

そして、そのギャップに苦しんでもっと動けなくなっちゃう。しんどい。

そんな人は、「夢よりも目標よりも、唐揚げ食べよう!」が今の僕の答え。一見むちゃくちゃだけど、論理的整合性があると思っている。

 

心って、未来も過去も想像する機能がついていないんだと思う。とにかく目先。心は子供だし、めっちゃバカ。

 

よく、マインドフルネスとか瞑想とかで、「今」に集中するって言われている。

それらは、今どんなことしたいかなーとか、何が不満かなーとか自分の感覚を感じる作業だと思っている。

僕もそうだけど、普通に生きていると社会通念とか、常識とか、他人とかすごく気になる。

でも、おしっこしたいとかも「今の自分」が求めていることで、そういった形の無い一般論では測れない。会議中だけどトイレ行きたいから行きたいには変わりが無い。これが大事だと思う。

 

自分以外のものに、おしっこしたいなんて分かってもらう必要が無いし、トイレ行きたきゃ自分で行く。

おしっこ我慢してたら、プレゼンなんて集中できないし、心はプレゼンの成功よりトイレを優先してくれ!って言っているはず。

とにかく目先のことしか、心は感じてくれない。

 

我慢はしなくていいって母がいつも言っていた。子供の頃は、シングルマザーとして生活を成り立たせるために我慢して働いていた母がそう言っていたから、「我慢はするもんなんだな」と受け取っていた。

 

けど違うのね。我慢はしなくていい。これが金科玉条であり、人の1番すべきこと。おしっこは我慢しない。唐揚げは食べる。

 

今したいことをする、というと世界一周!とか、貧しい子供を救いたい!って崇高で漠然としてて壮大なやつが出てきがちだけど、きっと心はそんなことよりも、10分後の美味しいものを食べるのが優先。

崇高なのがダメなんじゃなくて、まず今の自分を満たそうよってこと。

 

今できることを頑張ってやろう!じゃなくて、今頑張らなくても、我慢しなくてもできること。それをやらないと、心は満たされない。

 

だから今日、唐揚げを食べた。お金ないけど、いいや!まず満たしてみよう!って食べてみたら、「夢を叶えるためにやらなきゃ」と思っていたことが、すんなりできた。

毎日、「今日も出来なかった」とゲロ吐きそうになっていたけど、すんなり出来た。これ快感。

 

今日やったそのことも、目先の利益のため。明日美味しい唐揚げを食べるために、少しやってみよ!って自然とできた。

目先の満足に流されるなって僕も思うけど、それに流されなきゃ、心からクレームが来る。クレーム処理を怠ったら、僕はどうしようも出来なくなって、泣いて寝るしか出来ない。

それは嫌。

 

 



 

 

唐揚げの先に、思い描く未来が待っている。

 

 

責任なんてくそくらえ

 

漫画暗殺教室で、好きなシーンがある。無謀なケンカに挑もうとする生徒に、殺せんせーが「プライドの刃は捨てなくていい。一度置くだけです。」というシーン。そう言われた生徒は、頭を下げて、ケンカを回避する。

 

 

好きな言葉や共感した言い回しって、量が必要だと思う。自分1人だと心許ないから、近い考えの言葉を探す。それが積み重なっていったら、それは自信であり、いちいち訴えることのない自分の中の正義になると思う。

 

そんな本の1つ。ドルフィニスト篤さんの「悟りハンドブック:<私>を思い出すこと、それが悟りです!」を読んだ。

 

仏教でいう、悟りの境地とは、目に見える全てが自分が発端となったものであり、自らが神であることを自覚することらしい。

「悟り」というと、何ものにも干渉されないみたいな超越したイメージ。

 

 この本では、自分を自覚することが悟りであり、よく言われるような仙人的なイメージのものではないと。

因みにこの本、イルカが表紙に書いてあるから、ふざけた内容なのかなと思ったけど、すごく良い。お暇のある方はぜひ読んでほしい。

 

悟りとは違うのかもしれないけれど、ふと、「あ、自分のせいじゃないな!」と思った。

あれもこれも、うまくいかないのも、バスの順番を平気で抜かす赤いマフラーをしたあいつに好きな女の子をとられたのも。

大人は責任だし、自由も責任だって以前書いたことがある。論理上はその通りだけど、抜け道を見つけた。

というより、責任はどう果たすのか、果たされることはあるのか、という疑問がわいてきた。

 

どういうことかっていうと、犯罪をした人が、刑務所に入れられて更生を促すために労役に着く。

刑務所に入った人の再犯率ってもの凄い高いってどこかで聞いたけど、要は心根が変わっていないってことなんだと思う。

だから、労役刑につかされたところで変わらない人の心を、人が変えるなんてそもそもが難しい。それが前提。

 

それで、「責任」ってどうとろうか。車をぶつけちゃった人は、お金を相手に払って修理したり、病院にいったりする。でも、それってあくまで代替であって、そのものじゃない。

やっぱり「責任はとれない」。がそもそもだと思う。

コーヒーをこぼしてしまったら、クリーニング代をだしたり、新しいコーヒーを買えば済む。でも、気持ちは変えられない。いい意味でも悪い意味でも、起きた現象は変えられない。こぼれたミルクを悔やんでもしょうがないよね、みたいな英語のことわざがあるように。

こぼれたコーヒーという事象は、起きてしまっているがゆえに、取り返しが絶対につかない。

 

600文字も使って、「責任はとれない」を説明したけど何が言いたいのかって、責任はとれないんだから起きてしまったことを否定的に捉える意味は無いってこと。

 

コーヒーこぼした。以上。

車をぶつけた。以上

お金が無い。以上。

 

みたいに、それだけのこと。人がその事象にこれ以上言及する必要は、そんなに無い。

 

ただ、他人に迷惑をかけた場合は見た目上、「うわあすみません」とか言っておいた方が良い。相手がこの原理を知っているとは限らないから。

僕もコーヒーぶっかけられて「え、起きたからしょうがないじゃん」って態度だったら多分怒る。あくまで、心持ちとしてってことで考えてほしい。

「コーヒーこぼしたぁふえええ」ってクヨクヨしたって意味は無いし、辛い時間が長いだけ。クヨクヨも辛い時間も、それにすら自分に責任は無い。

少なくとも、僕はそう思っている。周りからしたらクズかもしれないけど、自分が良ければそれでいいんだと思う。

 

ただ、責任が無い≠自分事じゃないということは、気を付けている。

目の前に起きたことは、自分がいるから起きていて、感情も出来事もひっくるめて、僕が責任者。けど、責任を感じて、長い時間よくよする必要は無いってこと。

 

よく、自分の中のイメージが高すぎるから、苦しむという。色んな本にそう書いてある。

どんなイメージが正確かは誰にも分からない。僕だって、バロンドールを獲りたいしフィジークの大会に出て優勝したい。高い理想。

そういう自分もいるし、もっともっと意識の低い、クズな僕もいるなって思った。

ネット上には出せないようなことだっていっぱいしているし、〇〇だって行きたいし、〇〇〇だって〇〇したい。(伏字はご想像ください)

もっと、自分のふり幅を知って良いんだと思う。

子供に優しい笑顔を見せたあと、道路に唾吐いてしまう自分がいてもいいと思うし、沢山食べたあと甘いものを食べちゃう自分でもいいと思う。だってしたいんだもん。

 

自分を知って、自分ってこうなんだなーって思ったら、楽。

優しさは路頭に迷う

札幌にいた時の仕事は、公民館と子供館足して2で割ったような施設の人だった。

若者を育てようね!みたいなストーリーを作る施設。効果の程は分からなかった。今考えると効果測定はどうしていたんだろう。

その施設の利用者で、印象深い人がいる。年の頃は僕と近くて、繊細そうな表情をする演出家志望の人。

最初は仕事終わりに来ていたと思うけど、いつからか夕方頃来て楽器を弾いて、22時の閉館までいるようになった。

今思えば、無料で長時間居られる場所は貴重だったんだろう。来館した際は、必ず150円もするコーラを買って飲んでいた。彼なりの入場料。

トランペットを吹き始めた頃から、大丈夫かな、と思っていた。

できる楽器の種類が増えるごと、彼の表情は曇っていった。明らかに自分の命と向き合いすぎている。

「優しいって言われるけど、それって『何も無い』って意味だからなー」と彼は言う。

当時の僕も同じ様なことを考えていた。何も主張ができないから、受け止めざるを得なくて、結果優しいと思われる。

ある時、彼の友人から「○○さんが連絡つかないんです!」と訴えてきた。

権限としては微妙なラインだけど、電話をする。繋がらない。実家の番号も分からないから、どうしようもない。

友人が帰ったあと、これも怒られるやり方で住所を手に入れて、仕事終わりに彼の家に行ってみた。電気はついていないけど、生きているなって思った。ビビりでこれ以上何もできず帰路に着いた。

 

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地球上に「優しい」っていう行為は今のところ存在していないと思う。

何でも受け止めるとか、物腰が柔らかいじゃなくて、そうせざるを得ない優しさは、やればやるほど、その人の心に穴を開けると思う。

自分の中の自分というイメージがどんどん消失していく。視野というのは、真ん中が欠けているのが本当らしい。どういうことかわからんけども。

今日とある電車に乗った。向かいに「CIA」と入ったキャップを被ったおじさんがいる。目は大きく二重で離れていて、鼻も口も大きい。

その横にあるスペースから、車窓が見える。反射して鏡の様になっているから僕の姿が映っているのだけど、顔だけ見えない。誰かが顔をくっつけたせいで、油が皮膜となり、その部分だけ鏡の機能を失っている。

自分のイメージがこんな感じになっちゃうんだよな、って思った。

 

彼のような「優しい」人は、どこかのタイミングで行くあてが無くなる。冷静になれば、色んな手段があるのに。

きっとだけど、母親に優しくできなかった自分を罰しているんだって最近思った。一番愛している母親すらも優しくできない自分は、価値が無いって刷り込んじゃうから。

ただ、母と愛情の形がすれ違っただけなのに、原始的な欲求が満たされてないからその他の欲求も満たされない。マズローの三角のやつ。

僕は、母親と話すことから始めた。

 

 



 

 

子供の役割

カフェで読書中、目の前で高校生カップルがイチャついてる。

陸上部と思しき彼女は、ハーフパンツから日に焼けた大腿四頭筋をのぞかせる。

遅れて来た彼氏は、野球部のリュックを背負った坊主頭。顔が少し長くて、鼻にホクロがある。

彼氏は勉強する彼女の足に手を置いたり、いきなり顔を近づけたりまぁ要はイチャついてる。

周りの目が気になっていない訳じゃない。そうだったら、もっと濃厚になっているはずだから。

学生時代、帰り道にお洒落なカフェで勉強なんてしたことがない。それに彼女つきでなんてもってのほか。

この経験値は、社会人になってからは取り返せない。長い下り坂を2人乗りした自転車でゆっくり降るなんてことは、大人には起きない。せいぜい渋滞にハマった車内で、君を助手席に乗せて、ジワリジワリとアクセルを踏み込むくらいのものだ。

 

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人には役割があると思う。

前僕の部屋まで来たお巡りさんは、多少理不尽なことがあっても懐柔する役目。生活安全課の刑事は、事実を認識して事を運ぶ役割。

2人ともちゃんと全うして、家を出ていった。

僕の役割は何だろうかってつい考えてしまう。

今いるカフェでの僕は、高校生にとって「スパイス」であり「客A」である。

そういうんじゃなく、もっと素敵なのが欲しい。役割、やくわり、ヤクワリ、Yakuwari …。

 

とある女性がいて、あなたは明るいよ。と言う。ハッとした。僕はこの数年、自分を暗い人間だと勝手にイメージしていた。

そういうえば、女性の知り合いは暗い人が多い。あ、助けようとしてたんだ、って思った。

暗い女性は、悩んでいる。だから僕が肩代わりしてでも、全て投げ打っても、僕が何とかする。

冷静になれば、破茶滅茶な論理は何故僕に通じたかと言うと、母の存在だ。

母は明るい。でも悩んでいることも、寂しいことも表に出さないけど知っている。でも僕が実家にいる間は、その仮面を外させてあげることができなかった。親も人間で、母と息子いえど、男と女。誰にだって素顔見せるわけじゃ無い。

 

僕はそれが分からなかった。「なんで少し見えているのに、話してくれないの」「僕じゃあ話す相手じゃないの」ってずっと思っていた。

それが正直に言って、今も悲しい。僕だけが気づいていて、目の前にいる大事な人を助けられなかったから。

お付き合いがある女性は「助けがいのある女性」。母で出来なかったことを再履修するために。

 

傲慢と無知とヒーロー気取りとがごちゃまぜになって、「助けたい」が出来上がっていた。僕の子供としての役割。

そう、僕にとって子供の役割は「助けたい」。もっと言うと「ヘルプを出していいんだよ」。だと思う。

僕の正直さは、障害レベル。悲しいことは悲しい。だからあなたも表現していいんだと思う。僕が子供時代によく泣いたのは、このことを訴えていたんだと思う。僕は母の弱いところを見て、母は僕を甘え坊と見る。共依存の形。

 

助けてを求めて、感情をもっと出して、が僕の中にいる子供が他人に訴える、主な部分。主訴。

子供の役割を捨て切ろうとは思わない。

ただ、母に「助けたい」と思うのはもうしない。助けて欲しければ、助けてと言えるだろうし、僕も同じ。

だから、子供の僕に、今まで役割を頑張ってくれてありがとうって言う。

随分引っ張らせちゃった。

これからは大人の僕が引き継ぐから、見ていてね。

 

さっきのカップルの顔の距離が、だんだんと近づいていく。しようと思えばキスだってできる距離。

 

その調子。感情は出していい。