僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

早く妥協した人間になりたいという話

四谷の自転車屋さんに行った。自転車が壊れたけど、治すとすると新しいのを買えるくらいの値段。知り合いのイギリス人が使わないやつを買おうとしたら2万円だと言われた。元値は25000くらい。誰が買うんだ。
いつも店先に座っている、パーマで長髪のおじさんの顔を覗くと、なに?どうしたの?と言われた。僕が困惑した顔をしながら、自転車壊れたみたいで、、というとちょっと優しくできる限り安くやってみるよ、と。
僕の世界は本当に移ろい易い。昨日まで好きだったあの娘も、今日は機嫌が悪いから話かけたくない。1ヶ月前まであった謎の自信は、膝の怪我で萎えた。
とある人から連絡が来る。嫌な内容。最近知り合った細くてアメリカ英語話す男前が、嫌なことって畳み掛けるよね、と大きい声で言っていた。まさにそんな感じで、ちょっといい事があっても、すぐ隙間にそいつらが入ってくる。なんとかジェントルな感じでかえすと、褒められる。そうしたら、その人が言いたい世の中の原理みたいなのを僕のためを思って言ってくれる。違うんだって思う。その原理は自分の中でだけのもので、人に求められてない時に言うと、その原理自体が意味をなさなくなる。でも違うって言えない。そう言うと、違うの歯車が回り始めちゃう。
その俯瞰したような、でも達観はしてない、居心地の悪い目線が、僕のソーシャルエナジーをゴリゴリ削る。その両方が半端なんだと思う。自分の身の置き所が定まらないから、他人が入って来ちゃう。そして疲れる。力強く自分の力だけでいきたいなんて思ってない。疲れたくない。あわよくばちょっと幸せになりたい。それだけ。流行の波にも、世間の目線にも従うから、それくらい許して欲しい。

その触りの部分を知り合いに言うと、みんなそうだって言う。言わないだけで、みんな苦しんでるんだって。正論というか、教科書論。みんなが好きな歌謡曲では、誰しも愛し合おうって歌う。その通りだ。だけどそれは上澄みで、世界の美しいところを切り取ったやつ。透明な鶏ガラスープを作るために、鶏の足が沢山青いゴミ箱に捨てられてるみたいに、美しすぎる言葉に僕は事実を感じられない。いつもいつも曖昧で混濁してる。混ざりすぎると、スープを作ることがどうでも良くなって、直接排水溝に流しても同じでしょって極論に辿り着く。

自転車が出来上がった。悪くない。万全じゃないけど、走ればいいんだもんね、とおじさん。そうだ、その通りだ。生きていくことに美醜なんて殆どない。ただ地面とタイヤの摩擦が起きて、進めればいい。おじさんの店先はレンチやら何やらが散乱している。利便性と見た目の間にある妥協点。
生きるってそういうことだって思う。