僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

みんなと同じは嫌

夜に散歩をしていて、「そういえば長野って星綺麗だったよな」と思って空を見上げた。ほぼ360度に星星星。青少年科学館で見た嘘の星空も綺麗だけど、田舎の星空はリアルで尊い。見える星に1つも星座を関連づけられないけどどうでもいい。札幌の暗さは電灯が少ない暗さで、長野暗さは宇宙の暗さそのもの。混じりっけなしの天然100パーセント。深夜は車も来ないしコンビニも無いから、人の寝息もきこえてきそうなないくらい静か。思い出すのはBUMOOFCHICKENのプラネタリウム。「消えそうなくらい輝いてて、触れようと手を伸ばしてみた」

星も人もたくさんたくさんあって、いつか燃え尽きる。ただそれだけのことなんだけど、どれくらいきれいか、幸せなんだ!なんて競い合うのよね。今見えない星もきっと見えたらきれいだし、見えなくても輝いているはず。というポエムチックなことを書く。

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1.個性

学校の成績はいつも中の上だった。偏差値52-57くらい。それ相応の高校に行って相応の大学に行って、転がり落ちるように大学院に行った。

普通の偏差値に普通の身長に特徴の無い顔。学生時代の知り合い同士が、思い出話をする時、スポーツができる人や変わった人が最初に思い出されて、その次はイケてない奴を「あいつどうしてんのかな〜笑」って話題にする。僕はイケてるとイケてないの中間にいたから、誰の話にもなっていないと思う。

皆大人になって、子供がいたり謎のビジネスを始めたりしていて、ちゃんと世の中の中で生きている。

僕は同じにはなれなかったし、同じになろうとしてもプライドとか色んなものが邪魔をして、できなかった。唯一の支えは、僕は人とは違うっていう自負。競争は嫌だし、それに負けるのはもっと嫌。

 

2.同じは嫌

変わっているねと言われるのが嬉しいという人が結構いる。すごく分かる。人とは違う自分の存在を認めてくれて嬉しくなる。

「皆と同じは嫌」なのも分かる。黒髪にリクルートスーツを着て紺色のネクタイを締めるなんてできなかった。

ただ、変わっているも、同じが嫌も、「他の人とは」という前提が付いちゃうと、話が変わってくる。日本人は皆一緒にお手手繋いでゴールインが至高って思いがちな民族なのかもしれないけど、違いは自分が起点じゃないと嘘になる。もっと言うと、皆が出来ていることが出来ていない自分が嫌だけ。日本人が〜とかシューカツが〜って言うのは詭弁。定まらないのが嫌な自分と、世間に翻弄されている自分がいるだけ。分かるけどね。めっちゃ。

個性は個性でしか無くて、人を非難する材料じゃないし、他人と全く一緒が良いって人もいる。そういう人が好きかと言われたら困るけど、変わっていることや自分発信じゃない裏返しの個性っぽい人も同じくらい付き合いづらい。

最近読んでいる漫画で「逸脱せよ」というセリフがあった。すんごい強い敵に立ち向かう主人公に対して師匠が言った言葉。

同じが嫌も、普通が嫌も、周りへの敗北感だと普通ができないんだけの人。それも良いんだけどね。もし本当の意味で変わっているなら自分こそが普通って絶対思っている。

そういう意味で、僕は普通に片足突っ込んでいる変な人。普通も諦めきれないけど、もう戻れないよなーって感じ。

 

3.幸せはいずこ

そもそもを考えると「自分にとって何が幸せなのか」を自分で考えることが、変な人への道だし「普通に変な人」への道程。

それで、最近気がついたんだけど幸せは幸せだし、ポジティブはポジティブなんだよ。ホームレスはホームレスなりの幸せがあるし、タワーマンションに住んでいる人の幸せも幸せ。当たり前のように十人十色なんだけど、やっぱり家族と仲良くお金はたくさんあった方が幸せだと思う。明日どうなるか分からない不安よりも、安心して眠る方が幸せ。夜型よりも朝型の方がより良い。色んな形があることはあるけど、手に入らないから諦めた!じゃないものの方がより幸せ。自分の領分を弁えることも大事だけど、領分の無い、絶対的な幸せっぽいものはあると思うのよ。

どこまでもいっても、個性なのか幸せなのかは分からないけど幸せの共通した形はきっとある。人は1人だし、人の生き方に口は出せないから誰も教えてくれないきっとある。幸せの形。

 

言葉は伝えるためのもの

言葉について考えてみる。

伝える手段の言葉。人が人たる理由だからか本心はなかなか伝わらない。そんなことを考えている人に読んでほしい。

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1.はしがき

我ながら言葉が好きで、言葉に依存している。その証左に毎日毒にも薬にもならない長文を認めては、ネット空間に置いている。僕の家は「なんで言葉にしないの!!??」という家庭だった。言語化訓練道場。伝えたいことは口にする、ということでもあるんだけど、多くの場合僕を懲らしめるために使われていた。「なんでそんなことしたの!!??」「なんでいつもこうなの!!??」って。言葉で説明して伝えられるのであれば、それが一番楽。ただ全部を説明なんてできない。ちょうどこのブログがそうなように、恣意的な部分を更に恣意的に切り取って言語化している。言葉なんてその程度のもの。

思えば小学生くらいから、大学生までほとんど全ての行動に対して「なぜ今僕はこれをしているんだろう」と問うて、言語化する癖ができていた。

漢字を習い始めた頃、画数に異様な程執着していた。八島は12画。愛は13画みたいに、言葉の総画数が偶数でないと気持ち悪くなる強迫性障害っぽいものもあった。ほとんど全部の漢字の画数を知っていて、テレビや看板を見ては総画数をかぞえ、奇数だ、偶数だとやっていた。きっと「なんで」に対する思考の逃げ道だったのかなーなんて思う。

言葉で伝えることを考えて、言葉の凄さと、その使い道はどうするのがベターなのか書いていきたい。

 

2.言葉はすごい

大学生の頃ゼミの時間に「動物と人間では何が違うか」という問いが教授から出された。多分答えは「道具使う」だと思うんだけど、出された答えは「言葉を使う」が多かった。すると教授は「イルカだって言葉に近いものを持っているし、犬だって鳴き声でコミュニケーションをとっているよ」と言う。ただ、生徒たちがそう答えるのも頷ける気がする。こんなに複雑で、多種多様な意味を持つ音を使うというのは、動物が使えるとは想像がつかない。

小説「人間失格」だって、文章と文章の間に太宰治の言いたいことが隠れている。もし彼の伝えたい「答え」を伝えたいだけなら何百ページも書き連ねる必要は無い。「マジで自分ダメなやつっすわ」で終わり。本人が言いたいことと、それを受け取る側との齟齬そのものが魅力になる言葉の使い方なんて、イルカにはできそうも無い。

言葉は投げっぱなしで、齟齬ありきのものだと思う。僕にとって「働く」という言葉のイメージは「マルクス、派遣労働、長時間労働、好きなことをしたい」というこれまで考えてきたことや、経験してきたことを総称して「働く」という言葉になる。一方で日清工業を50年勤めあげたAさんにとっての「労働」は「給料をもらう 、コツコツと、耐えるところは耐える」だとしたら、噛み合うわけが無い。

でも言葉がすごいのは、その齟齬すら表現できて、それを取りなすことだってできちゃう可能性を持っていること。ほんとにすごい。

 

3.イメージはどこにあるのか

言葉は自分の思いを形にしてくれる。はてなブログのトップには「思いを形に」と書いてある。

イメージとして持っていたものを、現実化する最初の手段が言葉。その素晴らしさたるや、それこそ言い表せ無い。

言葉がイメージを伝えるものだとすると、そのイメージがどんなものによってできているのかが重要。僕の例で言うと、昔から言葉にしろ!って怒られていた。その僕に向けられた言葉は、どういうイメージによって作られたんだろうか。言葉にできないことは、やっぱり不便でコミュニケーションの不全をきたすと思う。だけど、そもそもが意思を疎通させたくない、相手を否定したいというイメージが乗った言葉だったらどうだろうか。本当にコミュニケーションを取りたいのであれば、強く言ったり、威圧するような言葉は、逆効果。だから、僕がぶつけられた言葉の真意は「お前だけ弱虫でいるんじゃねえ!こっちだって辛いんだ!」だと思う。

 

4.だからこその技術

僕の小さい頃の話を例にして、言葉の真意はどこにあるのかということを考えた。

僕としては、大変な時期だったなぁと思う。毎日言葉責め。ドMなら喜ぶのかもしれないけど、小学生特有の超時間を持て余しているときに、際限無く行われていたら、生粋のドMおじさんでも嫌になっちゃうだろう。あくまでお遊びとしてドMになったりドSになるのがいいのであって、本気の本気だと疲れちゃう。

僕ばっかり被害者ヅラしてもしようがないので、兄達の観点からも。きっとすぐ泣いて、すぐ失敗する奴が家にいたら煩わしいと思う。母が仕事でいない間、「この家と家族を少しでもよくする」という責任感を抱え込んでいたんだと思う。だからもう必死だったと思う。こいつはなんでできないんだ!もっと強い言葉で、もっと長い時間をかけなくちゃ!!ってなるのは自然。でも今なら技術が大事だってわかる。

言葉はイメージの産物を相手に伝えるためのもの。伝えたいイメージが「憎らしい」なら罵詈雑言でいい。もしそうじゃないなら、相手に伝わるように形を変えていくことが言葉の大事さ。言い回しとか、態度だって大事。もし愛を伝えたいのに、相手にはそう伝わってないなら言葉を変えなきゃいけない。

その言い回しや表現の多様さこそが言葉の技術だし、それを変えられるのが言葉のうまさだと思う。

 

5.伝えるべきは

言葉はイメージを相手に伝えるものだからこそ、伝わるように変化させるのが技術だよなと書いた。

本当であればここで終わろうと思っていたんだけど、もう少し踏み込みたい。

何度も言うけど言葉はイメージを伝える手段。2節ではイメージが作られた経験などが人によって必ず違うから、違うって言う前提が大事だよねと書いた。それもその通りだと思うんだけど、もう一個掘り下げると「イメージを作りあげた経験などをその人がどう捉えるか」という側面も非常に大きい。同じ事象を経験しても、肯定的に捉えるか否定的に捉えるか。僕が挙げた「労働」のイメージは概ねネガティヴ。でもマルクス自由主義者には嫌われているだろうけど、結論は「人が発達していくこと」だと思っていて、そこを捉えるとすごくポジティブ。自民党の人だって「発達しちゃいかん」とは言わないはず。コンビニだって24時間営業は大変だろうけど、深夜に働きたい人の受け皿になっている側面だってある。要は捉え方。

ようやく結論にいけるんだけど、その肯定的、否定的な捉え方の大元を辿ると、愛に繋がっていくと思う。また愛かよってがっかりしないでね。

愛された人は、より肯定的に物事捉えられるし、相手によって言葉を変えられる。その逆は否定的に捉えて、硬直的でだから対立を生むよね。強い言葉vs泣きじゃくる僕みたいに。

言葉はイメージを伝えるためのもの、だからどうイメージが作られたかが重要で、肯定的なイメージは愛によって作られる。ということ。

逆に言うと、言葉は愛を伝えるためのものだよな、とも思う。

愛は相手を認めて、受容するもの。それによって育まれたイメージは肯定的なものになる。そのイメージは、他者へ愛を与えることとなる。みんなハッピーじゃん。

 

 

命なんてもの

今日はいつもと違う感じになっちゃう。

おじさんがしんどいのをポエムにしてダラダラ書いているだけだからスルーした方が良い。

それでも読むよという人は、以下をご覧あれ。

 

 

 

 

 

鬱症状がひどい。朝方3時4時まで起きていて、眠るためにストロング系チューハイを飲む。ヘロヘロになって意識が遠のいた時が一日で一番状態が良い。

何をするにもやる気が起きない。食欲も無いし性欲も全然無い。ブログだけでも書こうと思ってパソコンを開いても、全く進まない。普段なら笑えるラジオも全く面白くない。というか興味がなくなっていて、何も見るものが無い。

1時間に1回くらい希死念慮が猛烈に襲ってくる。もうそんな感情もハイハイいつものやつね、と思うんだけど体がだる

くなって、寝込んじゃう。

疲れたなー、死んじゃいたいなーと思うけどいざバイクに乗っても青の炎の主人公のようにうまくいかない。だから無理矢理出かけて無理矢理帰ってくる。

こりゃやばいね。うん、どうにでもしてくれって思うけど、そんな労力を割いてくれる人は僕にはいない。

自分のせいなのかーって思うけど、もしそうならもうどうしようもない。でも他人のせいでもない。そんな思考をぐるぐる行ったり来たり。

これがちゃんとした大人になる通過儀礼なら厳しすぎる。フルメタルジャケットの教官に絞られるより断然しんどい。教官は隊員に興味があるし、教えようって気概がある。

少しだけ窓のある独房にいるみたい。

窓から見える普通の人たちは、楽しそうに見えている。周りの人は1人の僕を小さい窓からちょっとだけ覗く。でも僕が落ち込んでいることなんて知らないから、素通り。自己完結の世界に入らざるを得ない生活。生きることは曖昧に保証されているけど、無明の世界に時折見える、ちょっとの希望には手が届かない。見えたそれを必ず掴もうとして虚空を握りしめるけど、手には垢しかたまらない。

お金である程度解決する。3億円あったらこの孤独も希死念慮も、心の端の方に追いやれる。そういう意味でお金は大切。苦しみを麻痺させるのがお金であり、それを使って買える商品。

お金とかサービスはずっとずっと流れ続けていて、動きを止めない。昨日の夜見に行った川は、深夜でもジャバジャバ動いていた。僕の血管中にある血液だって流れがあって、1秒も止まっていない。ただ世界から置いていかれているのは僕の心だけ。想像の産物。止まりようが無いはずなのに、止まっているって誤認する。

昨日、近くの美術館に行った。両腕を失った画家。紹介されている新聞記事には必ず「幼い頃高圧電線に触れて両腕を失う」と書かれている。不具だから、カタワだからっていうパーソナリティ。そんな悲しみを乗り越えてこんな絵を描いている不屈の精神。そんなハートフルなストーリー。羨ましかった。僕には語るべき大変なことも、パッと見える不具も無い。人生においての礎石になるような、転換になるような、印象的なことがない。何も起こらないことが何よりの恐怖。死んだ川は流れを止めているし、命を落とした人の血液はもう動かない。生きているのに、体のほとんどが壊死しているんじゃないかって想像する。でも素足で履いたスニーカーはちゃんと臭くなるし、トイレにだって行く。その事象をもって生きているって感じる。

命について考えちゃうと、あんまりよろしくない。こち亀でも「まず生きるって決めてから判断するんだ」って両さんが言っていた。ただ、僕の心はやっぱり死んでいて、体が動いているだけだって思う。頭が働かなくて、論理的な思考もできなくて、AだからBをするっていう単純な様式さえもままならない。ただただ西友で買った鶏胸肉を材料にして、骨髄が作られた血液を、心臓が律儀に動いて巡らせているだけ。心臓が血液を循環させるように、心も毎日毎日ネガティブなことを吐き出してポジティブに替えて欲しい。心は胸の真ん中には無くて、何なら体の中にも無い。

生きたい、じゃなくて死んでない。それが命の本質。生きているという究極の結論の前には、死にたいも辛いも卑小なこと。部屋に落ちている一個のチリを見つけて世界が終わるかのような大騒ぎをしているみたい。でも、だから、形にしたい。生きているから、死にたくなったり辛くなったりする。戦争に赴いた人だって生きようと思って、銃を握りしめたんだと思う。前提からは逃れられないんだけど、前提だから語ったり問いただしたりしちゃいけないんだ。生きているから、人だから、男だから、女だから、ゲイだから、そんな前提は話さなくていい、気にしなくていい。そんな前提を持ち出すと、全くもってつまらない。命があって、生きているそれが前提。その前提の話も、想像もしたくない。だって当たり前のように生きているから。今この時を生きていて、これを書いているから。

誰が何のために、生の矛盾に僕を産み落としたんだろうか。生きている前提と生を問い詰める矛盾。

生きているのに、生きることを問い詰める。カレーを食べてるのにカレーなんて嫌いって言うみたい。まず自分が食べていることを受け入れろという話。ネクロフィリアみたいな生き方。生きているのに死んだ人しか愛せない。死姦愛好者。

 

こうやっている間にも、嫌いなあいつは世の中が求めるステキなことを言って、自分がステキだって確認してる。悠長に美味いものを食んで悠々と自己肯定感を高めている。クーラーが室内を冷やして、室外機が外に熱を放出するみたいな食い違い。汚染されているゆえに汚染が進む。ひとつのステキはひとつの不幸せを生んで、ポジション別に割り振られる。幸せなところにステキを。不幸せなところに呪いを。実にくだらない。素晴らしくくだらなきかな、命なんてもの。生きることも死ぬことも愛することも、全て言葉にするには惜しいほどに当たり前で、脈々と存在して、コツコツ続いている。

平等・比較・違い

とある人に、心に貴賤は無いと言われた。全く同感。僕としては、僕の方が話している内容について詳しいと思っているから、教えてあげようみたいな気持ちだったんだけど、受け取る方はそうでなかったらしく、貴賤と言う言葉を言わせてしまった。自分が偉いなんて思ったことは無いし、もし偉いという言葉を使うとしたらこんなに大変なことがあっても、現在も生き続けているだけで偉いな、と思っている。

平等とか、比較とかそういうものっていつも人を苦しめると思う。

でも平等や比較で苦しむって、僕が今からサニブラウンに100m走で勝てなくて、苦しんでいることとほとんど同じような気がする。そんなことを書く。お付き合いください。

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1.はしがき

インド料理屋さんに行った。短髪で前歯にすき間がある優しそうな店主。カウンターに座ると話しかけられる。元々、岐阜にあった祖父のインド料理屋さんを手伝いにきて20年以上。日本人女性と結婚をして、子供もいる。

ゆくゆくは子供に店を継がせたいと言う。長男はサッカーに夢中で、長女はダンスをやっているけど「お父さんの店私がやる!」と言ってくれているらしい。

従業員は、店主の兄弟や親戚関係者。他の同じような店よりも雰囲気がポップ。

インドではカースト制が未だに存在していて、両親の職業を引き継ぐという慣習が幅を利かせているらしい。そのせいなのか分からないけれど、店主は祖父と同じ業種。手伝いに来ている親戚らはずっと店員のままなよう。

このケースとカースト制を同列には語れないと思うけど、その話を聞いて身分とか平等ってなんだっけ。となった。

 

 

2.平等の在り方

「みんな違ってみんないい」金子みすゞ。中学生の時にこの言葉を聞いて、なんて素敵な考え方なんだろうと思った。ただ、今は「良いってお前が判断するんじゃねえ」と思う。人はみな違う。それだけだと思う。

平等を考えるにあたって、3つの階層があると考えている。

①命であること、今ここに存在していること②心や愛などの目に見えない概念的な部分や、自分では物理的に変えられないようなもの③行動、お金、社会的なものなど目に見える部分。

①は、全ての人が平等であると思っている。貴賤や良い悪いの判断とは一線を画すもの。Aさんの命が尊くて、Bさんの命が卑しいということは、「命そのもの」で考えるとあり得ない。心臓の拍動にも、虫にも動物にも命の優劣が無いように「生きていること」としか捉えきれない。そもそもが比較する対象とならない、というのが正確であると思う。

②について。愛や心についてとなると、多少他人と比べる度合いが生じてくる。

僕の個人的な話だけど、母や兄に対して純粋な愛に近いものを注いだようと思っている。兄の心の内側がどうなっているかは分からないけど、僕からすると「なんで兄ばっかり」という気持ちになる。

愛を注がれた人は、やはり自分に自信があるだろうし、自分の存在を疑うことが無い。それが無かった人とは比べ物にならない程の差がある。

ただ、証明の仕様が無い。愛の多寡、心の崇高度合い、なんて受け取り方や、その人本人の言葉で判断するしかない。だから、侵すことのできない部分であるという意味で、比較することができない。

 ③について。フットサルがすごく上手な選手がいる。毎試合ドリブルで相手をかわして点を獲る。その選手とまともにドリブルが出来ない僕。スポーツとして競技として行うのであれば、前者が試合に多く出ることは必至。

父は高級外車に乗っている。その車で高速道路に入ると、追い越し車線から軽自動車に抜かれるらしい。この例は稀だろうけど、きっと純粋に速度が出るのは父の車。

そう、技術や性能の違いというのは、全く平等でない。フットサルで褒められるのは、僕じゃないし、煽られやすいのは軽自動車。

ただ、平等か否かというと存在そのものを区別するやり方。フットサルは上手いことだけが全てじゃない。エンジョイするというやりかたもある。航続距離は軽自動車が優れている。そこにあるのは、単純な違いでしかない。

フットサルが上手なのは、上手くやれるメソッドを知って、それを試合で活用できるように長い時間をかけて訓練したもの。僕はメソッドも知らないし、それを知っていたとしても体現できるほどフットサルに時間を費やしていない。

お金があるかないかも、今の世の中では貴賤になりがち。僕もお金持ちは偉いって思っちゃう節がある。だけど、そのお金持ちは、お金を稼ぐという面において優れている人であって、稼いでいない人とは違う。そう、違いでしかない。

 

3.「不平等」の大元は

大学院の頃、学生同士で性役割についての話合いをしたことがある。

最初はいわゆる女性らしさ(昔ながらの男性が求めるような)を求めてはいけないよね、みたいな論調。左よりの学校だったせいもあるだろうけど、フェミニストらしいフェミニスト女性専用車両について滔々と語っていた。

そこに割って入ったのが同級生の会社社長。40代。「男女が全く同じは変だよね、だから今まで通り男性には男性、女性には女性の役割があるよね。以上!」みたいなことを言って議論が終わった。

その人は浮気マンで、家事負担は自分が少ないものの、絶妙なバランスでお互いにやっているという主張をする人だった。浮気はともかく、少ない方が言う絶妙なバランスってと家事においては妻が負担しているから絶妙って言葉になるんだろうと思う。

僕だって女性が履くスカートが大好き。ひらひらしすぎていても嫌だし、しなさすぎるのも違う。ちょうど良いひらり具合が重要。

スカートを履いている女性に、素敵ですねと褒めたら「女性の役割が●●で~!!」って怒られたとしたらどうだろうか。いや、別に今そんなこと話していないし、どうしたんだろう。となると思う。 

人が、平等とか、違いとか考える時、もう既に何らかの不満があってのこと。

「あいつばっかり」「なんの努力もせずに」「男のくせに」「おじさんなのに」とか。

「あれ、なんか自分が見下されている気がする」っていうのがスタート。そこから始まって「自分が女だからだ」っていう結論が出てくると、「やっぱり男性は女性を差別しているんだ!」っていう思考になる。

勝手な罪悪感というか被害者意識みたいなので人と関わると、全ての人と対立が出来ちゃう。だって被害者なのは決まっているから、相手は必ず加害者。そもそもが対立しようとしている人に何を言っても、対立にしかならない。スカートの例で言うと、僕がスカートを褒めなくとも、いつかどこかで僕に対して怒りを「女性の権利」に変換してぶつけていたことだろう。

僕はジェンダー論についての専門家でないし、それについて研究する気もあんまりない。ただ、その人がどう捉えているか、というのは気になる。

女性は辛苦に耐えてこそ、魅力が際立つという価値観の人もいるだろうし、もっと奔放で自由を求める女性もいる。男女の性差やその役割の歴史がどうなっていたかを知っていた方がより良いとは思うけど、知らない人だって沢山いる。僕はフルートを一音もだせないのとほとんど変わらない。

なので、その人が「どういう人なのか」が重要であって「性差について学術的にどういう立場をとる」かはさほど重要でない。(当然今ある学説や立場を知っていた方が絶対楽というのは強調したい。)

このことを踏まえて言うと、スカート大好きおじさんは、やっぱりスカート大好きおじさん。「ジェンダー意識の欠片も無い時代錯誤人間」じゃなくて、スカート大好きおじさん。そう考えると、不平等感って減ると思う。

無知は罪だし、無知について無知なことも罪だとは思う。けど、それを人に求めるんだったら、自分が教える以外無い。面倒くさいよね、絶対。だからスカート大好きおじさんって思った方が楽。

 

4.達観したい

平等を求める時、人は不満があるからだよねと言う話と、それに対する考え方を書いた。

今節では、まとめに近いものを書く。1節で、階層の話をした。ざっくりと書くと①命とか②心とか愛とか③外側の部分に分けられていて、①と②は多くの場合、比較の対象とならないもの。優劣とか、そういう類のものじゃない。③については、優劣がつくものの、それってよくよく考えると違いでしかないんじゃない、ということを書いた。室伏広治ハンマー投げがすごい人。僕がやったらファウルになると思う。③の部分で、かつハンマー投げという小さい分野において像とミジンコ程の差があって、競技としては明確な優劣。

だからと言って、①や②の部分に関係があるかと言われたら殆ど無い。きっとこれが物事をより俯瞰してみること、達観みたいな境地なんだと思う。

 

孤独について

和を以て貴しとなす、が日本人のあるべき姿だとしたら、孤独でいることはもしかすると恥ずべきことなのかもしれない。

孤独→寂しい・怖い・辛い→誰かといてもそれを埋めるための付き合いかたになって上手くいかない→埋まらない孤独、というループが簡単に起こる。現実として凄く有りがちだけど、僕の知る限りは誰も言語化していないように思っている。なので今日は、孤独について考えていく。孤独が辛い、怖いという人に読んで欲しいと思う。

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1.はしがき

散歩を始めている。ご飯を食べて、真っ暗な田舎道を歩く。思えば最近はバイクにばかり乗っていたから歩いていない。

歩いている間、色々考えて捨てて、っていう繰り返し。浮かんできた考えは全部自分のもの。だから、正解とか不正解じゃない。出てきたどんな考えも感情も全部咀嚼しながら、スローに歩く。大体1時間。瞑想よりも散歩の方が脳に良いと思う。

僕が育った家庭は歩くのが速かった気がする。せせこましい性格ではないんだけどテレビで見た「歩くのが遅い人は知能指数が低い」というのを真に受けて、出来るだけ速く、速く、となっていた。今考えると、歩くのが速い=頭が良い=良いという考え方だったんだろう。競歩世界一の人が、世界で頭が一番良いみたいな単純な図式。それを単純に信じ込んでいるから歩くのが速いんじゃなくて、もっと複雑な回路がある。

「頭が良いのが良い」と本心からずっと思っているけど、そのことについて自信が無い。だから「頭が良いことが良い行動」(ここで言うと速く歩く)を無理やりしてアピールをする。そのアピールが本当に語りたいのは「私をわかってよ」もしくは「私のことをなんで受け入れてくれなかったの」。

なので「速く歩く」ことの動機が、本当は「わかってよ」なので、表情や佇まいが不審になっちゃう。スポーツの試合の時に、余計なことを考えない方が良いのと一緒。そうなると余計伝わらない。誰もあなたのことを頭悪いなんて思ってないのにね。

 

2.暗いは怖い、1人は怖い

部屋を暗くするのが怖くなったことがある。寝る準備をしようと、ドアとカーテンを閉じ、部屋の電気を消してベッドに横たわった途端、恐怖心でお腹が痛くなった。僕が感じる恐怖は、いつも閉塞感。閉じ込められて動けなくなるような感情。

知り合いが地震で停電した時のことを、ポエム調にインスタグラムに投稿した文章にも「暗いは怖い」と書いてあった。暗いは怖い。うん。怖い。人間は視覚情報に頼っているから、僕らの祖先が火を使って灯りをつけたように、物理的に見えないとやっぱり困る。暗がりから獣が襲ってくるかもしれないし、変態が待ち構えているかもしれない。

ただ、そんなことって滅多にない。特に自分の部屋の中で、一時的に暗くなっていることが怖いというのは、ほとんどイメージの世界。

きっと孤独が怖いんだと思う。1人だから、誰も助けてくれないから、1人だと生きられないって思っているから。精神的に誰かと離れると怖い。要は、心が子供のままで養育をしてくれる誰かを必要としている状態。

 

3.子供でいると怖い

子供や大人ってどう違うんだろうって考えた時に思い出すのがフロイト。エディプスコンプレックスという概念、僕は未だに何が言いたいのか分からない。

それでも心理学の巨頭ともいえるフロイト。無意識ってあるよねとか、発達段階についての言及したことうなずける。

フロムの著作「疑惑と行動」では、フロイトの「口唇的性格志向」を以下のように説明している。

「口唇的性格志向を持つひとは『すべての善の源泉』が外部にあると感じ、しかも自分が求めている、ものや情愛や愛や知識や喜びは、外部にある源泉からえられるのだと信じている。このようなひとは「愛されること」のみを考え、愛することを考えなくなる。このようなひとびとは愛の対象を無差別に選ぶ傾向がある。というのは、だれかに愛されるという体験があまりに大きいので、自分を愛してくれる人や愛してくれるようにみえるひとに、「溺れ」こんでしまうのである。そして自分を愛してくれるひとが、愛を撤回したり、拒絶したりすることに対して極端に敏感となる。』

この文言、岡田尊司さんの言う「愛着障害不安型」によく似ている。

年齢として子供の人も、成人を越えていても精神的に発達しきれていない人も、「口唇的性格」や「不安型」の傾向を抱えている。さも悪いことのように書いたけれど、これをポジティブに言い換えれば愛されて愛されてしょうがない人、とも言える。けど、その愛に気が付けずがゆえに愛せないと、殆どの人が辛いと思う。

前節で、暗いのは情報が見えなくて怖いんじゃないかって書いた。「口唇的性格」でいること「不安型」でいること「子供」でいること(この記事内では同列として扱う)は、愛されることや養育を必要とする人間であるということ。

それらは不確定で、いつ出てくるかいつ消えるのか分からないもの。3歳の子供だったら殆どの場合、養育者がいるけど、成人済みの人はそうでない。

ラブラブで付き合っていたのに、ある日突然タトゥーを入れた輩と浮気されることだってあるし、子供であれば突然両親が離婚してしまうことだってある。

要は他人は、自分でないがゆえに思う通りに動いてくれない。親だって自分の見えないところで実は闇金の取り立てにあっているかもしれないし、いつも機嫌の良い友人だって今日は妻とケンカしたてかもしれない。

「怖い」は、暗闇と同じように何が起こるか分からない状態。それって他人の心と一緒。どうにもできない、自分の外側の出来事。

 

4.孤独でいられること

1人で居られる人が、他人とも付き合うことができる、というのは真理だと思う。表面上の付き合いはできたとしても、自分が納得する形で自分が満足するためには、付き合いに対しても「行為者」であることが必要。それは、つまり「愛されるために」付き合うのではなくて「愛するために」付き合って、結果「愛されていた」という具合。

それに必要なのが、自分を愛すること。自分を認め、自分の役割を見出すことができるのであれば、人は他人を愛することが出来ると思う。

下重暁子さんの「極上の孤独」で、1人でいる時が本当の自分であると書いていたように、人は何にも邪魔されない、干渉されない状態が、人の基礎状態であると思う。

ただ、こう言ったところで「今寂しいから寂しいんだよ」っていう話だと思う。病気になって病院に来ているのに「生活習慣から変えていきましょうね」って言われているような。まず治療だろ、まずこれからじゃなくて今の話だろ、ってことだよね。

もし、どうしようもないくらいだったら誰かに話すしかない。でも、話せないから孤独なんだよね、というループ。そう、煮詰めていくとなべ底に残るのは、他人でも社会でも何でもなく自分。自分が、この孤独をどうするか、それだけ。

寂しいも、辛いも、孤独もそれを感じている自分を「そう感じているんだね」って受け止めることからスタートすると思う。それが辛い孤独な状態から抜け出す最短ルート。

 

得意と好きについて

好きなことをやれ、とか好きなことは仕事にするな、とか色々言われている。正直言って僕もどっちが正解かなんて分からない。

ただ、得意や好きという単語では説明が足らないと思っていて、行動の根拠になるには、もっともっと言語化が必要だと思っている。

なので、今日は「好き」や「得意」を言語化していこうと思う。

 

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1.はしがき

格闘技を始めたいと思っている。強いものへの憧れと、強さを知るということで自分の弱さと向き合えるかな、という理由。

幼稚園の頃夢はプロレスラーと言っていた。それに母の付き合っていた人がレスリングのオリンピック強化選手か何からしく、数回レスリングを練習したこともある。父は少しだけボクシングをやっていたことがあるらしく、格闘技にうるさい。

格闘技と一口に言っても立ち技から寝技、投げ技等々、色々な種類がある。僕が格闘技に望むものは、①護身術としてできるもの、②単にスポーツでなく心と向き合えるものの2点。

①については、結構難しい。空手は文字通り「手を空に」して行うもので、基本的には相手の攻撃を受けて立つ。護身において最強なのは戦わないことだと思う。もしその戦いが起きてしまったものであれば、一番は避ける。そう思っているから、空手は除外。護身となるのは、手だけでは何か違う。足も使いたい。そういう理由でボクシングも違う。

②は、武道と名のついているものが良いと思う。道で、それすなわち生きることだから。技術や体が成熟していくにつれて、如何に自分が弱いのかを認識が出来るようになると思う。強いというのは、弱さを知っていることだと思うし、弱くいられることが強いことの証明であると思う。

知り合いがテコンドーをやっている。僕の条件の①と②が概ね満たされているらしく、おすすめだという。やってみちゃう?テコンドー?

これまでサッカーとフットサルくらいしかしてこなかったから知らなかったけど、格闘技というのはそもそも人気が無いから、比較的競技人口が少ない。ゆえに、身体能力でずば抜けた人が余りいないのだそう。

サッカーをやっている時、スピードなどの基礎能力が違いすぎて自分と比較するまでも無いという人を何人も見た。某Jリーグサイドアタッカーなんて、速すぎて僕がどうこうするレベルじゃなかった。一瞬で心をへし折られた記憶がある。

そのJリーグの選手だって、クリスティアーノ・ロナウドにはぶち抜かれると思う。世界最高峰に僕の身体能力だけで立ち向かうのは物理的に無理。

だから、足が短くても、腕が短くても生きていけそうな場所を探すほかない。もしかしたらそれが格闘技になるのかもしれない。わからんけどね。

 

1.生きる場所は

スポーツは残酷だよね。小さい頃からやっている人であれば、全く叶わないという経験を何度も繰り返して生きてきているんだと思う。かの有名な「大迫半端ないって」が良い例。強豪校のサッカー部の連中ですら、大迫選手の技術には全く歯が立たず涙を呑む。でもその大迫選手でも、世界トップクラスのレベルでは「ポストプレーが上手い」だけの選手。きっともっと沢山点を獲りたいだろうし、もっとドリブルだって上手くなりたいと感じていることと思う。

「大迫半端ないって」と言った彼が今何をしているか分からないけど、もしサラリーマンになっているとしたらその社会性とか、行動力みたいなものはきっと大迫選手にはできない異質のもので、単純に両者を比較したら彼がずば抜けていると思う。

フットサルで強豪チームに所属している人に、僕は簡単にあしらわれる。ひょうひょうと僕をかわしてゴールに迫っていく。すごく上手。だけど、僕がこうやって書いている文章が(ずば抜けているかどうかは別として)彼には全く想定外で異質なもの。比べるまでも無いものであると思う。

得意なこと、と一口に言ってしまえばそれに集約される。

その得意で、既に自分がやっていることで、他人にできないこと。それが自らが生きていく場所なんだと思う。

 

2.得意、好き

自分が何を得意なのか、なんて分からない。もっと些末なことにして言い換えると、好きなことである。好きなことが他人と比較して抜きんでているかは、別次元の問題でそれは分からない。分からないからこそ、試してみる他無い。

他人より抜きんでられるかどうか、試してみる動機になるのが「好き」だと思う。異性に対しての「好き」は性欲だと思っているけど、スポーツとか文化活動においての「好き」はきっと褒められた経験や、褒められそうなこと、そういう過去の経験に基づく未来への希望が、好きの根源だと思う。

僕も含めて「好き」となった要因となる経験がどんなものであったのか、記憶が無い。好きにも理由は必ずあって、それが思い出せないけど、何となく好ましい。「好きは理由が無い」と巷で言われているのは、宇宙からのメッセージじゃなくて「具体的な記憶な引き出せない」だと思う。

 

3.思考し試行す

得意は他人よりも優れていること。動機となる得る、「好き」というのは、褒められた(思い出せないようなものも含めた)ことのある物事だと書いた。

もし他人よりも抜きんでたい場合は、試す他無い。もしかするとそれは違ったねという結果になるかもしれないし、成果がすごく出る場合もある。失敗も成功も含めて、その結果が得られたことが結果であると思う。

ただ、目についたもの全てに挑んでみても、時間を浪費する一方。だからこそ、自分が何を好きか、どんなことをしたいか、思考することが大事だと思う。ひらめきとか、何となくも含めてそれに気が付くことがきっといい。

試してみよう。試してみないと、どうなるか分からない。それでしか答えは出ない。

 

 そうしていくうちに、もしかしたら「得意」が見つかって、それが自分そのものになる。そんな経験をもっと沢山沢山していきたい。

お金と愛

お金と愛の関係について書こうと思う。お金ってすごく大事。自尊心も、物欲も性欲もほぼなんでも満たしちゃう。

お金って元々貝殻だったらしい。物々交換の時代は、食物が腐ってしまうから、形が変わらない貝殻を媒介することで、交換がすごく便利になったらしい。すごい発想だよね。

貝殻を使い始めた瞬間に資本主義経済の成立や、それにまつわる色んな課題が起きる未来は決まっていたと思う。そんなことを大学院時代に話していた。

お金が全てだ!という価値観もすごくよく分かる。手段のひとつだったものが、目的になる倒錯。

だけども、愛は貝殻よりももうちょっと大きい概念。どっちか一方とかでなく、どちらにも役割がある。そのようなことを書いていこうと思う。

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関係無いけど、ユーロって見た目が派手で格好良い。

 

 

 

1.はしがき

髪が伸びてきた。前回切った時は、横と後ろを5ミリくらいにして、上から被せるような髪型。なので今は上の髪がやたらと長く、横はそんなに長くないという悪い意味で微妙な形。今日は、前髪を耳にかけて首にさわさわする部分を100均で買ったゴムでまとめてみた。変則ポニーテール。知り合いの白人女性に「今日髪型かっこいい」と言われて嬉しい。

基本的に長髪パーマが好き。美容室に行くのは得意でないし、毎日髪をセットするのも面倒と思う。長さがあってウェーブがかかっていれば、そんなにダサくはないはず。ポニーテールにしてもストレートのままよりはボリュームが出るので、衆人環視に耐えられないM字になった生え際も隠せる。

僕は小学生くらいの時、くせ毛でふわふわヘアーだった。そのウェーブをいかして、白人のような長髪にしていてそれが気に入っていた。

中学生くらいから、なぜか直毛になってきて今では、全くの真っすぐ。高校の頃には、くせ毛で悩む友達に「どうやって直毛になったの」と本気で相談されたこともある。

きっと二次性徴によって、ホルモンバランスなんかが変わって直毛になったんだろう。中学生くらいって男性が一番気持ちが悪い時。子供と大人の狭間にあって、羽化する蝶がグロテスクなのと同様な、変わりきる前の不気味さ。

 

2.愛はお金で換算できるか

愛されていたんだろうか、って日々思う。僕が生まれてきて、曲りなりにも大人になって、今に至る。それが何か不満なのよ。満足感が凄く足りないのよ。

もしかすると、子供だった頃から中学生になる男性の気持ち悪さみたいなのを目の当りにして(それも3人分)、もう気持ち悪いメーターが振り切れて元に戻らなくなったのかもしれない。

理由はどうあれ、どう考えても愛が足りない、ゆえに愛が育まれない、ゆえに満たされない、という負のスパイラルが続いている感覚。

いつも困った時は、お金で解決して自分が埋められない心を、これでなんとか、って言いう風にする。父親も、母親も。金、金金。

父親は、お金がまぁまぁある。不動産の自営業。家賃収入とかそういうので食っているから、東京のエリートサラリーマンより自由になるお金と時間は膨大にある。

それでね、昔は何か買ってやるぞとかよく言う人だった。服とか、旅行とか。キャバクラ嬢に貢ぐおじさんが、ブランドものを買ってあげるのは自分の価値が、お金だと思っているから。そういうお店だったら、スマートなお金でしか関われないお互いの立場。なのでそれが恐らく正解。

父親は父親として、1人の人間として僕ら子供に関わる自信が無かったんだと思う。それを隠す為に、お金を使って僕らを満足させようとしていた。

母は、僕が長野に来るとき「引っ越し祝い」と言って包んでくれた。その時の僕らの親子関係は最悪。「あ、これは手切れ金なんだな」って思った。

幸いにして、そうはならず何とかかんとか(一応)関係は続いている。だけど、肝心な時にはお金。

そこじゃないの、と僕は思う。愛はお金に換算できるとけど、お金を愛には換算できないと思う。愛とお金の関係性は一方通行というか不可逆性のものだと思っていて、愛があるからその形の一部として「お金」がある。でも、自分には何もできない(と思っている)からお金で愛を表現するのは、ただのキャバクラだと思っている。

 

3.お金の役割

最初にも書いたけど、お金は交換手段。交換の間に腐ったり、壊れたりし辛いお金を入れることで、物々交換の煩雑さから解放されたと思う。

お金は偉大。お金があるから、自分が食う分の食べ物を誰かが作ってくれるし、自分が苦手だと思うことを誰かがやってくれる。得意なこと、合っていることを具体化してくれるのがお金だと思う。分業だよね。

分業は効率が良い。札幌での職場の裏庭で、施設の利用者と野菜を作ったことがある。

僕が雑草を抜いてスペースを作る。利用者はそのスペースにある石ころなどを取り除く作業をする。2人が2工程の作業を同時にするよりも、2人が違う作業することで練度が高まりスピードが上がる。そう、それが分業の効率の良さ。余談だけど、その利用者は強い日差しと作業後に飲んだアイスコーヒーで脱水症状になったらしく、病院に行ったらしい。

分業化することで、各人の専門性が高まって、その対価を支払う。世の中が、全て「作業」だけで構成されているなら、こんな素晴らしいことはないと思う。それがお金に対する倒錯的な思考の理由だと思っている。

ただ、お金だけで人は満たされない。ラクダのレースに興じる石油王は、暇を持て余しているだろうし、ベーリング海での蟹漁に勤しむ人達は、命を賭して得られる沢山のお金で満たされない何かを埋めようとしている。

お金はお金であるし、愛は愛。愛かお金か、じゃなくてどちらも存在していて、より汎用性があるのが愛だと思う。

 

4.カバーの範囲

お金で何でも買える。モンクレーの暖かくて軽い快適なダウンだって手に入るし、美人なトレーナーがトレーニングだってしてくれる。そこに貴賤や価値判断は無くて、ただお金を支払えるかどうか。交換できるだけの貝殻を持っているかどうか。

世の中金なんだよ!という人には伝わらないかもしれないけれど、愛についてはお金で換算できない部分がやっぱりある。

その理由は様々にあって、役割の違いにあると思っている。

愛については、お金よりももっと根源的な基礎的な欲求。人類がお金よりも普遍的に必要とするものだと思う。だから、どちらが尊いという話ではなくて、カバーする範囲の広さ。空気とランニングはどちらが尊いって比較するものではないけど、空気が無ければ人はランニングができない。そんな話。

ただ、人って思考を省略して生きるものだと思う。シャツを着る時に、一々「シャツというのは古代ローマ時代の身にまとう布切れが、今に至ったものだよな」とは思わない。それと同様に、愛が重要だよね。と事あるごとに確認はしない。逆にお金が大事だよねという趣旨の言葉は皆、納得する。札束を使ってシャンパンタワーを作ったほうがはっきりする。目に見えて、数字になっていてどれくらい持っているか分かりやすいものの方が、理解しやすいから。

昨日、帰り道の途中で会ったアメリカ人とブラジル人の宣教師は「神様の愛をうけて僕らは生きています」と僕に話してくれた。そんな素敵なことを言ってたけど、この後友達のところに遊びに行くと言っておきながら、僕の住むアパートに一軒一軒チャイムを鳴らして「神を信じますか」と布教活動をしていた。あれ、後ろめたいのかな。

愛があって、お金がより役立つ。愛があって人は満たされて、更にお金があってより満たされる。そんな関係だと思っている。

 

5.同質に近づいていくのか

僕が今ある全ての人間関係を断つ代わりに3億円貰えるとしたら、絶対貰う。

それくらい魅力的。だって、仕事しなくていいし、生活の不安なんてなくなる。でも、お金があったうえで、また誰かと繋がりを持って、愛を望むと思う。

これから全ての人間との関わりを断て、その代わり3億円。となったら多分貰わない。全てを断ってしまったら、商品が買えなくなってお金の意味が無いから。

それくらい、お金がカバーする範囲が人の生きることに密接になっていて、さもすれば愛と同じように感じてしまう。その良し悪しは置いておいて、今後もお金の性質はどんどん大きくなると思う。もしかすると「あなたに愛を贈ります」っていうサービスが成立するかもしれない。それを買えば、満たされなかった愛が満たされるサービス。そんなものがあったら、僕はそれを買うと思う。