僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

頑張るを考えてみた

日々忙しい。沢山の雑事と雑談に対応していて、自分の時間が取れない。朝起きて、なんか色々やってたら、あ、あなたそんな風に僕を巻き込むの?僕とやりたいの?そうなんだ〜?あーれーという間に1日が終わる。濃厚接触エブリデイ。

それでも、それでも自分の好きなことをやって、成し遂げるにはどうしたらいいんだろう。と考えた。脳内googleがページの先頭に出した答えは「頑張る」。

あれ、頑張るってなんだろう。考えてみる。

 

 

1.頑張るの古典

「頑張る」って、汗水を長時間&長期間垂れ流すっていうイメージ。部活もそうだし、板前修業もそうだと思う。(実際はやったことが無いから分からない)

夜なべして手袋を編んだ母さんは、きっと頑張っていると思う。僕の中の「頑張る」の一種類。その中でも古めかしいイメージを構成に貢献している。

小学生の頃、亡くなった祖父が読んでいた巨人の星。汗にまみれ、涙を流しながら、それでも立ち上がるシーンはきっと僕の「頑張る」を組み立てたと思う。

さっきこれを書く前、「⚪︎⚪︎するためには頑張らなきゃな」と思った。言葉が出てくると同時に自分の行動がイメージとなって現れる。最初はwork hard、古典的な、長時間猛烈ファイアー頑張る姿が出てくる。ただ、僕の頭の中には、これらのイメージがあるのと同時に、それらを否定したいという感覚である「効率的」も一瞬遅れて現れる。

話は逸れるのだけど、言葉を想起した最初のイメージを経験が覆すっていうことない?僕は年齢を重ねるにつれて重層的になってきている。友達が男性の大きい声に委縮するらしい。何故か聞くと「小さい頃父親に怒鳴られていたからだ」「パブロフの犬のようにこれは反応だから変えられない」と言う。その感覚は彼にしか分からないもので

簡単に共感なんてできない。だけども、きっとその恐怖感を層を違うもう一個の層で塗りつぶせたら楽になるのかな、なんて考えていた。

 

2.自分のために効率良く頑張る、他人のために見栄えよく頑張る

前項の頑張る、は「とにかく目の前のものをやり遂げる」と目に炎を蓄えてやるタイプ。大リーグ養成ギブスのインパクトは強烈。20年以上、僕のイメージに巣食うって並大抵のことじゃない。

ただ、目がメラメラし始めたと同時に「こりゃ違う」と「もっと効率的に」が脳裏を過る。もっと違うやりかたはないか、苦しい思いを出来るだけ少なく済ませる方法無いのか、なんていう思考回路が働く。この思考過程は、僕の見てきた世の中の範囲ではあまり人気が無い。と思う。あくまで僕の世界の中でなんだけど、土埃にまみれて!泥をすするように(これは言われたことがある)!!這いずって!!が僕を含めた日本の多くの人にとって好ましい。

 知り合いの大学スキー部の話。童貞の1年生を4年生の女性が公衆の面前で色々イジメるらしい。羨ましい・・・とおじさんになった僕なら思えるけど、大学1年生だったら童貞であろうと童貞じゃなかろうとしんどすぎる。

それは(恐らく)部内の年齢や学年などの序列による支配を受けているのが問題だと思う。後輩は当然、スキーが下手で年齢も下。だから、辱められて良いという考え方とは距離を置きたいと思う所存。

ただ、その部活を支配する人にとっても、言い分はあるはず。「これをやるからこそ社会で生きていける」「辛いことがあったから幸せを感じられる」等々。基本的に間違っていないと思う。僕だってこれらの頑張る論理は、真実の側面があると思う。

ただ、ただ、そのやり方だと思うのよ。頑張るは当たり前、だけど頑張るのは部活や技術の範囲までであって、その他人間関係の理不尽を特定の人間が受け続ける構図は、イカれてるとしか思えない。

少々脱線した。頑張るのはなんなのかだった。

5年前のサッカー業界は、運動量が重視されていた。だから、豊富なスタミナ、肺を4つ持つ男という異名の選手が沢山いた。同時に、距離を走れば、という誤解も生まれたと思う。ガムシャラに攻撃に参加した後、守備に戻る、ボールを奪いに体を投げ出す。美しい、と思う。人が奮闘する姿は誰の心も動かす。スポーツの醍醐味。ただ、心を打つのは観客。心を打つ観客の姿を見て、自分も心を打つ連鎖反応もあるけど、ひとまず置いておく。誰のためにやるのか、自分のためでしょ、違うの?少なくとも誰かのため「だけ」には人は動けないと思う。

どう人に見られるか、見栄えを追い求めるのは、誰にだってできることじゃない。

まず、自分。自分がなぜそれをやっているのか、それをやって得たいものは何なのか、それに辿り着くまでの最短距離はどこにあるのか、模索するのは悪いことじゃない。

但し、他人からの見栄えは悪いかもしれないよ。「ガンバの遠藤はちんたらしてる」と泥臭いのしか好きじゃない人はいる。

 

3.言葉としての頑張る

 僕は頑張る、頑張れの言葉を使う。現在のベストを尽くしてみて、という意味で使う。もっと努力しろ、じゃなく、当人の心を奮い立たせるために頑張って、を使う。

今現在のベストを尽くすのは、とっても大事。大抵は、今現在のベストって大したことない。ただ、理想の姿になるにはベストを積み重ねるしかなくて、その今できたことを認めるしかないと思っている。そう思っているから、ベストをまで促すことはする。2回くらいまでは「もうちょっとできるんじゃない」って言う。だけど3回目くらいからは、今日はここまでだよねと思う。嘘でも仮病でも、本人の申告ならそれが本当でベスト。

自分にかける言葉としても「頑張ろう」を使う。

知り合いのリンゴ農家を営むおばあちゃんは、「今日も頑張ろう」と下半身は四股を踏む前の体勢、両のこぶしを握り上に突き出して言う。

人は弱いから、いつもこれくらいでいいやって思っちゃう。毎日思うし、2時間に1回は思う。それがベストなのか怠けなのかは誰にも分からない。自分にもわからない。だから、鼓舞する。そうしてベストと怠け、表裏一体の基準値を少しでも上げようとする。

 元々、頑張れって言うなよと思う方だった。自分の弱さを認めることと、自分の中の理想を追い求めるのは相矛盾する。そりゃ頑張れなんて意味が無い、他人の言葉は雑音。両極のどちらを選んでも良いんだけど、その行為が終わったあと気分が良いのはきっと少しだけでも理想をギリギリまで追い求めた時なんだと思う。それゆえの頑張れ。

りんごを沢山頂いた。とりあえずカウンターの上に置いておく。りんごの模様は目を凝らして見ると結構奇抜。派手な赤色を下敷きに薄黄色の筋模様や斑点。人が着る服に採用したら、草間彌生くらいのビックアーティストでないと似合わない。シマウマのゼブラ柄は、承知の通りライオンなどの捕食者に狙われないようにするため、風景に馴染むようにできているらしい。奇抜なのに、目に馴染む。面白い。リンゴやシマウマは数が沢山あるから目に馴染むのか。それとも「自然のものは体に馴染む」というネットワークビジネスの人が喜びそうなワードで解決するのか。

量でも、自然派志向であっても、「脳内で起きていること」という視点が加わると僕にとって納得しやすい。脳が一定量に達すると馴染むと判断するらしいよ、脳は自然のものが馴染みやすいらしいよ、というと途端に真実味が増す(僕にとって)。脳大好きマンの僕が、脳の働きに、人のほとんど全てが詰まっている。そんなことを書いてみる。

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1・はしがき

このブログを始めた頃、「自分とは」という疑問を持って書いていた。(決して今だって解決したわけではないけれど。)熊沢さんが書いている、ティーンエージャーに有りがちな「アイデンティティとは」みたいな問題。そうなんだけど、僕にとっては何か違うなとは感じていた。長い間、自分とはという疑問を持ちながら、何となく、流されるまま大学に入って、大学院に行って、就職をして、長野に来て、結婚して、離婚して、引きこもり状態になって、家族から見放されて、ホームレス状態になって、死にかけてまでして、ようやく辿り着いた。「僕の前頭前野は機能をしていないんじゃないか」

 

2.人間たるには

「自分とは」という疑問は生の苦しみで、哲学であり、心理学でもある。何なら全人類が抱える永遠の課題。人生只々生まれて死んでいくんだと悟りを啓けたのであれば、自分に対する呼称は必要は無いのかもしれない。ただ、ほとんどの凡人にとって、自らを紹介する枠組みみたいなものは欲しい。少なくとも僕は。大学生である。とか、こういうことが得意である。とか。その区切りが無いと、病床に伏せるまで自己紹介で語る言葉も無く死んでいくことになる。それって結構辛い。「自己紹介が出来ない」を地でいっているのが、●●ちゃんママ(パパ)とか、どこどこの奥さんみたいな人。子供や夫(妻)の所有物にされることが、自分を紹介する唯一の言語。共依存とも近い関係性。

脱線した。その「自分とは」に欠かせない脳の働きが、理性、客観性、報酬系統などを司る前頭前野にあるらしい。詳しくはない。そこの働きの強さというか、神経回路が出来ているかどうかが、ヒトを人間たらしめる理由になっている気がする。

最近の子育てで重要視されているのが、非認知能力というもの。これは「目的に向かって忍耐強く行動を出来たか」「感情のコントロール」「社会性」といった、テストの点数のような数字で表せない能力のことを言う。詳しくないので(2度目)、断定めいたことは言えないのだけれど、この非認知能力と前頭前野の関係はかなり強力にあると思う。更に言うと、LSDとかADHDなどの発達障害と呼ばれるものも、前頭前野の働きが深く関わっていると思う。(特にADHDの人の特長として「自己理解」が弱いというのもあるらしい!)

よく、男は18歳になったら親元をでるんだと言う。「親との関係性だけに固執せずに、社会を個人の肌で感じ、自分の能力を発揮させることに注力する準備をしてくださいね」ということだと思う。それを短くまとめると親にいつまでも甘えてるんじゃないよ、とか実家暮らし!とかの簡単に他人を謗る言葉ができあがる。

僕の場合、前頭前野の発達に少々の遅さがあって、それゆえに親や兄弟は「手のかかる奴だ」となっていたと思う。恐らくなんだけど、スポーツも前頭前野を鍛えるにはうってつけ。スポーツは、思考と体を一致、フィールド全体を把握、他人と協調などの前頭前野を使うことばかり。あんまりしてきてない。上述のものに加えて、母子家庭、末っ子、親の趣向・形質など諸々の条件が複雑に絡み合って、今の僕が成り立っていると思うようになった。

 

3.おすすめは瞑想

それで、前頭前野を発達させるためにはどうしたら良いのか。スポーツも良いし、読書も良い。一番のおすすめは瞑想。僕ら悩みやすい人間は、思考はそもそもが「なぜ」とか「どうなるだろう」「どうしてこうだったんだろう」というものがほとんどで、疑問の占めるパーセンテージが多いと思う。なので、思考をする=疑問となるので、思考を始めてしまうと、ネガティブに世界が支配される。千葉雅也さんは「意味の無い無意味」で、全てのものが無限に意味を持っているので、無限に思考できる。だから行動をするのには、思考を一旦でも止めなければならない。と書いている。ネガティブな人間にとって思考を止めることは、社会で生きていく必須要件。それが出来ないと、誰とも会わずに栄養だけ点滴で送ってもらって、永遠に映画と読書を繰り返す人間になってしまう。その疑問発進の思考を止めるのが、瞑想であり、瞑想による前頭前野の発達であるように思っている。あらゆる情報が駆け巡っている世の中だから、反応せずにはいられないのが本当のところ。だからこそ、反応をしない、思考を介在させない訓練が、僕にとって生きやすさにつながりそう。

思考停止した人間になるな、現状に甘んじた人間になるなと自分に言い聞かせている。思考を止めずに、常に新しいものを生み出し続ける。そういう人間が素晴らしく、そうでない人間は駄目。そう絵本作家のあの人も、色々な会社をやっている社長さんがそう言っていたから。ただ、この年齢まで生きてきて「思考停止」すらできないのが僕なのか、という答えに至った。気が付いたから、思考停止も出来るようにしていく。大事なのは思考と思考停止のバランス。

生きているだけで

冬がやってくる。上田市はピカピカに晴れていて、さも冬なんてありもしないかのよう。当たり前なんだけど、春が来て夏が来て秋が来た後に冬が来る。春夏秋冬よね。四季が明確な日本に産まれて30年以上経ったけど、これまで季節を感じたことが無かった。どういうことかと言うと「何か寒くなくなったな」(春)「何か暑いなおい」(夏)「寒くなってきやがった」(秋)「まじくそ寒いじゃん」(冬)という具合に、その時の気温等は感じてはいるんだけど、一個前の季節を覚えていない。季節を感じるというのは、数か月前の気温や緑の色に思いを馳せること。Tシャツを着た自分を、ダッフルコートを羽織る自分を思い出す。その俯瞰が出来ずに、場当たり的な肌感覚だけで生きてきた。

 

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1.自分

哲学や心理学が好き。その大元にあるのが、自分を分かりたい。っていう思い。数年前までは、他人を理解したいって思っていたけど、どうやら他人を理解するには自分を理解する必要があるらしい。じゃあ自分を知るのってどうやるんだろう、ってグーグルで調べてもみた。とにかく沢山の映画や本を体に入れれば、変化するのかなとやってみた。一匹狼で気難しい店主がいるどら焼き屋さんを舞台にした映画を観ては、小さい店を出せばいいのかと本気で思う。児童虐待の映画では、恫喝された子供に自分を重ねてしまう。そんな風に一個の映画に対して、一個の自分が浮き出てくる。幾度となく自分を投影しては、見えない自分を見つけた気持ちになって、沢尻よろしくハイに。数時間後にはそうじゃないのかもしれないって疑い始めて、ダウンする。そんな毎日。

自分がいないって、何でだろうって一日8時間は考えた。きっと世界記録。自分って何なんだろう種目の日本代表になれる。

 

2.疑い

長野に来てから、何も考えないで喋ることを身に着けた。どうやらその方が上手くいく。最初は「何も考えていない自分」を演じる方に気を注いでしまったせいか「何も考えていないでしょ」と指摘された。よくやりがちなミス。なりたい姿そのものでなく、なりたい姿を演じている自分になってしまう。

とある知り合いとの話。その人は地元のサッカークラブが好きで、それが生きがい。生きがいであるのどうかを疑ったことが無いし、そもそも疑う理由が無い。自分がそれを好きだから、以上の理由を自分に対してする理由がどこにあるんだろうかという話。

他人を納得させるためには「郷土愛」とか「サッカーを如何にして愛しているか」を、論理的に説明する必要がある。ただ、それを説明する機会は全く無い。好きなものに対して、なぜそれが好きなのかと問う他人は、殆どの場合敵意を持っているだろう。

その知り合いが、子供が産まれるらしい。僕は聞く。「決して疑いとか非難とか否定でないんだけど、もしどうして子供を持つのって聞かれたら何て答える?」と。彼は「どうしてって、別にそういうものだと思っているから」と言う。そうだよねと言って、彼が生まれていない子供に対して愛情を注ごうとしているかの決意を聞いた。小さい子供を見ると「かわいい~!」となると。男性もホルモンバランスが変わるのかもしれない。

「ヤシマさんは、きっと疑ってしまうんだよね。例え宗教に入ったとしてもそれ自体を疑ってしまうからどうにも苦しくなるだと思う」と彼に言われた。全くもってその通りだと思う。

 

3.生きているだけで

世の中で数少ない、尊敬している人と話す機会があった。その方の家に数日泊まって、どれだけ迷惑をかけただろうかと、恐怖に近い感情を覚えながら家を後にした。そうすると、その人からメールが来た。「ヤシマさんが家に来たことは、客観的に見て僕と妻に迷惑を掛けていないわけではない」と。やはり、となって背筋にびりびりと怖気が走った。恐れながら下にスクロールすると「一方で、ヤシマさんの知的好奇心の旺盛さは、過去の悩んだ僕の時間を肯定した。人は皆生きているだけで罪人であり、功労者である」と綴られていた。肯定でも無く、否定でも無くただこの世の理を書いただけなのかもしれないけれど、その言葉が僕にとっては響いた。

生きているだけで人は二酸化炭素を排出して、南極の氷を溶かす手伝いをしているらしい。中学生の時にビデオで見た。その一方で自分の存在が、意図しないところで誰かに感謝される。飛行機に乗って氷にドライヤーを当てに行ったんでもなければ、感謝されようと思ったのでもない。ただそうしたいからそうしただけ。お得感がすごい。

変化の一過

台風が来た。昨晩は雨が降っていたけれど、大したことない。風はそれなりに存在を主張する強さ。携帯電話から警報が何度も鳴って「警戒レベル5です」と言う。周りは静か。「冷静に避難をしてください」と言うテレビと携帯電話だけがうるさい。それらに没頭すると体と心が分離する。近くで戦争が起きているのに、めっちゃ平和。日常が壊れそうなのに、壊れてほしいくらい嫌になっているのに壊れてくれない。ゴジラの足が、僕の家だけを避けて通った気分。日常にパルプンテが起きるんじゃないか、そんな高揚感と、その魔法は起きてくれない現実を直視する絶望感。揺さぶられる。

 

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1.終点を見に

日が昇って、暮れての毎日。先に人生のゴールに辿り着いたって思っているジジイ共は、朝起きて野菜の様子を見て、ラジオを聞いて心拍数と感情の揺れが無いように生きる。人の全ては日常にある。そう、絶対。日々の暮らしの中にその人の全てが詰まっていて、それを楽しんだり喜んだり悲しんだりする。そういう入れ物の中に入れられている。じゃあ、夜には心地良いギターを聞いて、美味しいご飯を食べて眠る。それ以外に何があるんだろうか。きっと何もないんだろうけど、自分の目で確かめてない。脳が高速で演算した結果だとしても、この目で見てはいない。だから、一度人のいなくなった終着駅にまで行きたいんだと思う。寒々しい駅舎まで行って「やっぱ違ったなははは」って嘲るまでがワンパターン。

恐らく次は死ぬほど好きなことをやりまくっても、それだけが幸せじゃないことを知るデスロード。幸せも、悲しみも果ては何もないことを確かめたいのかもね。

 

2.調和

ほどほどにすれば良いって20年は心がけている。小さい頃は常にインスタント麺にゴマをかけすぎて怒られた。ナッツの様な風味とプチプチする食感が時々あるからアクセントになるのに、口の中が大量にかけられたゴマに支配されるとよろしくない。

足るを知るとか、バランスとか調和。言葉は知っているけど、どういうことか分かっていない。いや、料理なら分かる。トマト缶の酸っぱさと、青唐辛子の辛さが良きバランスのスープを昨日作った。分からないのは自分と他人の調和だ。

知り合いが「探り合いになったらつまんない」と言う。相手はどう考えているのか察して、行動する。そうすると相手も察する。そして察したんだろうか、って察する。そのまた察したのかどうかを・・・ああああああサッシサッシサッシ。際限が無い。永遠に辿り着かない惑星までのロケットに乗るくらいなら、宇宙に放流してほしい。石になりたい。それに捉われると、察するくらいなら、察されるくらいなら、そもそも話さない、行動しないことを選んでしまうのが問題。どこに行くんだよ、サッシの旅は。目的地は穏やかな毎日なのか。

 

3.感覚観測点

日常パルプンテも、終点へ行きたくなる欲望も、ここのままじゃいけない、今に満足できない感情で、人間の粗暴で野卑な部分だと思う。人の変化したい欲求は限りが無い。ハンターハンターのネテロ会長が人間の底知れぬ欲望をくらえ!と言って自爆したみたいに、そこが人間の怖いところ。以前にも書いたけど「欲望は他人のもの」というラカンの言葉を僕は採用している。他人をコピーして、元々のコピーしていたものの一部分を否定して、そうやって人が変わっていく。自分を知るには、一番近しい人の3人を足して割ったものが自分の像に近いとインターネットで誰かが書いていた。もしそれが本当だとしたら、孤高なる宇宙に輝く、キラ星のようなポイントが僕には2つくらいしかない。自分が模写している対称的な2つのイメージに引っ張られて、体が引きちぎれそう。彦星と織姫の間を流れる天の川を何度も何度も往復しようとしている。愛し合う2人が年に一度しか会えないと諦めているくらいには険しい川なはずなのに、びちょびちょになりながら週1くらいのペースで行き来している感じ。

 

4.神の不在

大人になることは、小さいウジウジを気に留めず日々を生きること。自分が何者かなんて考えもせず24時間を消費すること。分かっている。だけど、僕の中の何かが「満足するなよ」と囁く。小さなことに満足することでしか、人は大きい満足は得られない。って知っているから違うんだって分かっている。だけど、道に落ちている100円を拾わないように、ソースの付いた皿を指で拭わないように、高潔でかつ理想を持ち続けろと僕の中の誰かが言う。矛盾はしないんだろうけど、僕の中にいる僕のイメージを使うと、僕が確実に矛盾する。それが問題。「あちらを立てればこちらが立たず」が、自分の中で起きている。

今思えば、日本の宗教感って右往左往している。大陸から仏教が来たと思ったら密教になって、儒教になったり神道になったり。敗戦して天皇が象徴になって、神道が駄目よ、となったり。日本人にはそもそもそういう信じるものを変えていきたい、不安定でいたいという遺伝子が組み込まれているのかもしれない。

 

自明人間

 

 

上田の駅前。ロータリー添いに慎ましやかな数の店がある。地方都市は概ねこんな感じ。飲み屋数軒とスタバかタリーズ。東京の端っこでも、九州の方でもきっと同じ風景なはず。大型資本によって日本全体が均質化されてる!って批判することも出来るけど、僕はどこも駅前はこんなもんよね、って知った顔が出来て安心する。

 

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1.はしがき

物事は捉え様だって誰かが言っていた。否定も肯定も気持ち次第。ポジティブシンキング。結論だけ言うと気持ち次第だとは思う。ただ結論だけを言うのって、大抵は不親切。困っている人に「ポジティブになれば変わるよ!」。コンビニで「わかばひとつ!」。女子トーク中に「要はタピオカ飲んで、街をぶらついて楽しかったってこと?」と聞くのは情緒が無い。

結論の前にある、理由とか何でそう思ったのかが言われた方が納得するのには重要だと思う。

 

1.理由の断絶

じゃあみんな理由とかバックグラウンドをペラペラ喋ろう!が趣旨ではない。

理由を喋らないのにも理由がある。長くなる、女々しい、理由を言うこと自体がその主張に自信が無いことの理由になってしまう。等々。寿司屋の大将は今日も黙々と握り続けるし、大工は作務衣を着て玄能を打ち続ける。そんなもん。

じゃあ「言いたいこと」に対する自信、あるいは自明性はどうやって露わになるだろうか。会話であるという前提であれば、簡単なのが説明しないこと。理由はそのまた理由を生んで、その生まれた理由が理由を求む。辿り着く理由の終着点は必ず「何故生きているのか」になる。僕らは明らかに生きていて、その言葉を発している。だから理由は説明しない、が発生するんだと思う。

 

2.不一致

理由が語れ無いのは、理由が理由を生んでその又理由を説明しなきゃならなくなって際限の無い事由になるからと書いた。一方で、人は理由は知りたい生き物。納得がなによりも大事だとジャイロツェペリも言っていた。

深く深く掘っていくと、誰かが言う言葉に納得ができないことは「これまでの人生で自分が納得できていないこと」が内包されていると思う。一例を出すと「男は稼ぐもんだ!」って言説に僕はひどく拒否反応を示してきた。それは多分母親の父親批判。詰る理由が分かっていないから、その言葉に強く反発してきた。男尊女卑やフェミニズムなどのまとめられた言葉達を借りてきて、否定する材料にする。もっともらしいからね。その方が。

それで、理由を省いた言葉を使う人は、その内容について深く納得をしている。少なくとも「あってはならない」とは思っていない。だから敢えて理由を言わない。

とんでもない不一致が発生する構造。元を辿れば、小さな記憶の欠片が元なのに。

 

3.自明人間

存在は説明せずとも明らかであろうか。自分が自分でいることは説明せずにいられるだろうか。自明性はどうやら自信と密接に関わっている。弱い犬程良く吠えるのたとえじゃないけど、自分のことをペラペラ喋らなくなった時に自信があるように見えるものだと思う。だから、自明人間になりたい。存在を、自分を自分が問うことの無い存在。

コピー品のコピー品

増税したらしい。タリーズでは半端な価格が目立ち、使い捨てカップに入れるからな、マグカップコスト高いからな、と宣う。それでも気の利くあの子はマグカップに入れますねと言って、並々と注がれたコーヒーを出してくれる。

万事変わっていく。いつも座る席が1人掛けから2人掛けに。物価が崩壊したようなあの中華料理屋も20円値上げしていた。

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1.はしがき

限界を知る。社会の歯車になる。高齢者になる。そういう言葉を避けて生きてきた。ネガティブワードを語るのなら明るい未来を。数秒先に死ぬかもしれないのだから、年老いた先のことを想像するのはナンセンス。そういう思考。NHKでやっていた、高齢夫婦が支え合って生きるみたいな特集を見ていて気が付いた。自分がいつまでも若くて、途方も無い成長曲線を描き続けて、キラキラと輝き続ける世界に居続けるんだって心のどこかで思っていたこと。そのキラキラした心は、子供なら誰しも持っているユートピアへの幻想であり、きっと母子同一ゆえの万能感。誇大妄想に近い夢を語るのは「俺はお母ちゃんとまだまだ一緒なんだぜえええ」と吠えていることに近い。夢があるなら既に動いている、一歩一歩でも近づこうとしている。それが、大人が夢を見るということなんだろう。そういう諦めに近いものを、排除して排除して生きていくと、チャールズブコウスキーの「死をポケットに入れて」の主人公みたいな、澄み切った偏屈老人になるんだと思う。

努力とか下積みとかそういう面倒なこと一切合切を無くして、でも悲劇的かつ喜劇的な努力エピソードは記憶している状態で夢を叶えたい。ジーニーの魔法のランプでもいけるか、この複雑な願望は。

 

2.ネガインパク

母と連絡がつかない。いや、お互いにお互いのことを嫌な風に妄想を練り込みすぎて、下手に触れられないんだと思う。仲の良い家族以外で起きる、勝手に想像しすぎ考えすぎからのケンカちっくな問答。あれ、僕の家だけか。家族って、長い時間一緒にいるから想像をする材料が沢山ある。良いことも悪いことも。もし全体的にポジティブなイメージを持てているなら「あんなことをしてもらったよな」って過去を振り返って涙ぐむこともあろう。逆だと悲惨。良い事が沢山あったとしても、ネガはポジにインパクトで敵わない。毎日素敵な朝ごはんを食べて、軽快な車で出かけていても、一度のバッドラック事故の記憶の方が圧倒的に記憶に残る。数の問題なのか。明らかに幸せっぽいことの方が溢れかえっている世の中では、不幸せに不寛容。いや、世の中が幸せである証拠として、不幸せの印象が強く残るって言った方が正確だろうか。ダークナイトのジョーカーみたいに。あいつの顔ってめっちゃ印象的だよね。

人が怒っているのが面白いのも、列車に接触した人を携帯でパシャパシャするのも、不幸が持つキャッチーさが起因していると思う。エンタメ性があるのよね。きっと。

当たり前は当たり前じゃない、と思うんだけど、当たり前は当たり前だから当たり前で、それが当たり前。ご飯があることも、道路がコンクリートで舗装されていることも、コンビニがある尊さも忘れちゃう。

 

3.コピー品

人はコピー製品だよなと思う。よく考えれば、父と母の複製品づくりの結果によってコピーの子供ができているんだから当たり前。子孫の繁栄は自分の遺伝子をいつまでも残り続けろよ、のコピー願望。河原にあるタンポポも、自分のコピーを何とか届けようと日々日光浴と種の放出を怠らない。ラカンが「人間の欲望は他者の欲望である」と言ったように人の「こうありたい」は「欲望」であって、他人から得てきた外部からの情報。よく言う「人間の欲望は際限が無い・・・。」みたいな言葉の意味は、欲望が無限に湧いて出てくるってことじゃなくて、「他者」が殆ど無限に見えるくらい沢山いるから、が正しい気がする。

「他者からの欲望」で、昔のことを思い出した。鬼気迫る顔で「距離感分かれよ」と詰められた。母に。今思えば、双子の兄が言った「あいつ距離感分かってないよな」発言を、母の従順な気持ちと、自分の気持ちのどこかで引っ掛る部分が掛け合わさって、「ちょっといい?」となったんだと思う。更には、どうやってか僕の非公開にしていたTwitterにそのことを書いたのを見つかって、余計に怒っていた。人って「何故その人がそれを言っているのか」ということに敏感なもので、それが純粋培養されたものかどうか、他人由来なのかどうかわかっちゃう。悲しかった。言われたことがグサリと来た、というのもあるんだけど、兄の言いなりになって、他人の言葉で僕を傷つけようとする意図に苦しんだ。イスラム国の原理を唱えた人は「異教徒をぶっ殺せ」とは言ってないと思う。だけど取り巻きの人が「俺の方が教えを分かってる」競争を始めちゃう。どんどん過激になって、教えを説いた人も「ふむふむ」と暴走を始めたことに満足しちゃう。だって自分の言葉が人を動かすって気持ちが良いものね。言葉によるコピーが暴走を始める。AIよりも先に言葉が先に暴走を始めているからね!!映画化必至!!

 

4.焼酎は評価しない

高齢者になると動きは緩慢に、思考は鈍重になる。内村さまぁ~ずで還暦を迎えた上島竜平が、焼酎の中身を水に替えられていても気が付かなかった。何となく飲んでいるんだと思う。きっと「焼酎の味を見極めるモード」で飲んだら気が付けはするだろう。でも、それをする意味ってあるだろうか。テイスティングだったら良いけど、見極めるっていうのは、良い事も悪い事も言語化すること。「この焼酎はすっきりしているけど、コクが無い」と言ったら、コクが無い焼酎なんだなってその言葉を聞いた人は思う。なぜならネガティブは強いから。美味しいのが普通だから。評価すること自体が既に評価をつけている、ってことよね。評価に値しない、じゃなくて、既に素晴らしいから評価そのものをしない。そんな論理だと思う。

前回のブログで「まずは自分が幸せであれ」と書いた。それは自分も家族も、どんな人もそう。というのは、欲望であろうと、考え方であろうと、焼酎であろうと、人は知らず知らずのうちに他人のことをインストールして自分のものにする生き物。かつ幸せは見え辛くて、不幸せの方がインパクトが強い。もし、その理屈が本当なら、目に映る全てがとりあえずは幸せっぽい方が良い。だから幸せであれ、幸せであれ、って思っている。家族も、近しい人も。その姿を見て、幸せをコピーできると思う。

合わせ鏡

僕らの父親世代の人たちが20代~30代の頃って「カッコつける」が普通だったと思う。港にあるロープをかけるビットに足を置いて、ジャケット片手にきらりと笑うイメージ。石原裕次郎。僕の父親は若かりし頃、写真を撮る時だけ二重にして映っていたらしい。祖母の姉に意地悪く指摘されていたのを母親から聞いた。木村拓哉がどんな人を演じても木村拓哉でしかないというのと、昔の「格好つける」は似ている気がする。

 

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1.はしがき

有名人なら誰に似ているかと聞かれたので、合コンで使うようなアプリをダウンロードして判定してもらう。エレファントカシマシの宮本さんだった。もっさ具合と眉毛の色味と肌の色が近い。朝鏡を見てそんなことを思い出した。駐車場で誰かの車に反射した自分を歩きながら横眼で見るし、エスカレーターに乗ったら自動で動く自分の姿を凝視する。ナルシストなのか、と言われると否定はできない。僕としては、晴れた駐車場での自分は周りから見たらどういう風に映っているのか、この蛍光灯が煌めいているデパートにいる自分がどんな感じなのか確認したい。あれ、これがいわゆるナルシストか。

 

2.鏡像段階

人は自分を映す鏡であるとよく言う。自分の気分が良ければ目の前の人が素敵に見える。その逆も然りで、この人はどうしていつも機嫌が悪いんだろうと感じていたら、自分がそうだった。ってことはあると思う。人はどうやっても自分のフィルターを通してしか世界を見ていないし、その透明度は質的に変わることはあっても「前より綺麗になって世界が良く見える!」はハズキルーペをかけた舘ひろしの視野の中でしかあり得ない。これまでと違うフィルターが出来上がっただけのこと。神様がお創りなすった世界じゃなく、自分が見た世界があるだけ。デカルトはすごい。

子供が自我を確立する過程で、鏡像段階というのがあるらしい。鏡に映った自分を自分であるとみなすようになる時期。それまで母と自分の区別が無い母子同一。鏡に映った自分(らしきもの)を「これはあなただよ」と母親に教えられることで、自分が母親と区別のある存在であることに気が付き、自我が確立していく。

このようにまとめると「自分が自分である」ことは、簡単で自明のように見える。肉体として同一でないことは明らかだったとしても、精神的に独立独歩することは容易でないことのように感じる。というのも、母親は子供が大事。子供は母親が大事。であるがゆえに、世界中で誰が批判しようとも味方でありたいのが人情で、その思慕の感情が時として鏡に映った自分の像を歪めてしまうことに繋がると思っている。

 

3.ビューティフルワールド

家族は世界で一番大事。美しい価値観。僕もそう思っている。沢山いるハイタッチし合うブラザーよりも家族が大事。なぜなら一番近くの存在だから。今でもそう思っているし、これからもそう。

母親と子供が価値観を共有して、その世界の中で生きていける人はいる。幸せだと思う。一番の理解者であって欲しい母親を理解でき、自分も理解が出来る。ミニマムな幸せ。丁寧な暮らし。幸せって、いつの時も自分と他者との世界が出来上がった時に訪れる。自分と他人が融合し合う蕩けるような時間。いつまでも続けば良いなって思う。母親を求める子供と子供を求める母親のマッチング。何の疑いも無い美しき世界。

ただ、その美しさは万人に平等にとはならない。僕だってそのビューティフルワールドに住民票を移したいけれど、その資格が無い。切符は母親と「合うか合わないか」。

ビューティフルワールドに移り住みたい欲望は即ち、母子同一への欲望であると思う。おじさんが何を甘えたことをぬかしてるんだと憤りのことだろう。批判の気持ちをどうか静めて、もう少しお付き合いを。

僕から見ると、世の中の寂しそうな顔をしている人のほとんどが母子同一の欲望を解消できないから、かみ殺し見ない振りをして、日々の生活に埋没している。その原因となるのが、母子同一への欲望だと思う。寂しい目をしている人は、母親からの愛情が不安定であったなどの問題を抱えていて、母子同一から独り立ちが出来ずに、過去のことをひきずって苦しんでいるんだと思う。

 

4.醸す

この問題が簡単でないのは母親だって1人の人間であること。育児に専念できる精神的、物質的な環境が整っていて、子供がどうであったとしても受け止められる余裕がある状況にいる人はそんなにいない。むしろギリギリの中で育てている人の方が多いような気がする。だから、鏡が悲しみを帯びる。悲しみを帯びた鏡からは悲しみが噴出して、定着する。悲しい母親を僕が助けなきゃ、悲しい子供を私が助けなきゃ。合わせ鏡が無限に見えるほど連続してその姿を映し合うように「助けなきゃ」と「悲しみ」が連鎖する。

望むべきは母親が幸せで居続けること。幸せを見出す人であれば事態は変わる。まず、自分が幸せであろう。幸せだって口で言うのもいいけど、まず幸せだって雰囲気をぷんぷんさせたい。ネガティブの方が伝染力は強いけど、弱くともコツコツ幸せを醸し出していこう。それが始まりな気がする。