僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

コピー品のコピー品

増税したらしい。タリーズでは半端な価格が目立ち、使い捨てカップに入れるからな、マグカップコスト高いからな、と宣う。それでも気の利くあの子はマグカップに入れますねと言って、並々と注がれたコーヒーを出してくれる。

万事変わっていく。いつも座る席が1人掛けから2人掛けに。物価が崩壊したようなあの中華料理屋も20円値上げしていた。

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1.はしがき

限界を知る。社会の歯車になる。高齢者になる。そういう言葉を避けて生きてきた。ネガティブワードを語るのなら明るい未来を。数秒先に死ぬかもしれないのだから、年老いた先のことを想像するのはナンセンス。そういう思考。NHKでやっていた、高齢夫婦が支え合って生きるみたいな特集を見ていて気が付いた。自分がいつまでも若くて、途方も無い成長曲線を描き続けて、キラキラと輝き続ける世界に居続けるんだって心のどこかで思っていたこと。そのキラキラした心は、子供なら誰しも持っているユートピアへの幻想であり、きっと母子同一ゆえの万能感。誇大妄想に近い夢を語るのは「俺はお母ちゃんとまだまだ一緒なんだぜえええ」と吠えていることに近い。夢があるなら既に動いている、一歩一歩でも近づこうとしている。それが、大人が夢を見るということなんだろう。そういう諦めに近いものを、排除して排除して生きていくと、チャールズブコウスキーの「死をポケットに入れて」の主人公みたいな、澄み切った偏屈老人になるんだと思う。

努力とか下積みとかそういう面倒なこと一切合切を無くして、でも悲劇的かつ喜劇的な努力エピソードは記憶している状態で夢を叶えたい。ジーニーの魔法のランプでもいけるか、この複雑な願望は。

 

2.ネガインパク

母と連絡がつかない。いや、お互いにお互いのことを嫌な風に妄想を練り込みすぎて、下手に触れられないんだと思う。仲の良い家族以外で起きる、勝手に想像しすぎ考えすぎからのケンカちっくな問答。あれ、僕の家だけか。家族って、長い時間一緒にいるから想像をする材料が沢山ある。良いことも悪いことも。もし全体的にポジティブなイメージを持てているなら「あんなことをしてもらったよな」って過去を振り返って涙ぐむこともあろう。逆だと悲惨。良い事が沢山あったとしても、ネガはポジにインパクトで敵わない。毎日素敵な朝ごはんを食べて、軽快な車で出かけていても、一度のバッドラック事故の記憶の方が圧倒的に記憶に残る。数の問題なのか。明らかに幸せっぽいことの方が溢れかえっている世の中では、不幸せに不寛容。いや、世の中が幸せである証拠として、不幸せの印象が強く残るって言った方が正確だろうか。ダークナイトのジョーカーみたいに。あいつの顔ってめっちゃ印象的だよね。

人が怒っているのが面白いのも、列車に接触した人を携帯でパシャパシャするのも、不幸が持つキャッチーさが起因していると思う。エンタメ性があるのよね。きっと。

当たり前は当たり前じゃない、と思うんだけど、当たり前は当たり前だから当たり前で、それが当たり前。ご飯があることも、道路がコンクリートで舗装されていることも、コンビニがある尊さも忘れちゃう。

 

3.コピー品

人はコピー製品だよなと思う。よく考えれば、父と母の複製品づくりの結果によってコピーの子供ができているんだから当たり前。子孫の繁栄は自分の遺伝子をいつまでも残り続けろよ、のコピー願望。河原にあるタンポポも、自分のコピーを何とか届けようと日々日光浴と種の放出を怠らない。ラカンが「人間の欲望は他者の欲望である」と言ったように人の「こうありたい」は「欲望」であって、他人から得てきた外部からの情報。よく言う「人間の欲望は際限が無い・・・。」みたいな言葉の意味は、欲望が無限に湧いて出てくるってことじゃなくて、「他者」が殆ど無限に見えるくらい沢山いるから、が正しい気がする。

「他者からの欲望」で、昔のことを思い出した。鬼気迫る顔で「距離感分かれよ」と詰められた。母に。今思えば、双子の兄が言った「あいつ距離感分かってないよな」発言を、母の従順な気持ちと、自分の気持ちのどこかで引っ掛る部分が掛け合わさって、「ちょっといい?」となったんだと思う。更には、どうやってか僕の非公開にしていたTwitterにそのことを書いたのを見つかって、余計に怒っていた。人って「何故その人がそれを言っているのか」ということに敏感なもので、それが純粋培養されたものかどうか、他人由来なのかどうかわかっちゃう。悲しかった。言われたことがグサリと来た、というのもあるんだけど、兄の言いなりになって、他人の言葉で僕を傷つけようとする意図に苦しんだ。イスラム国の原理を唱えた人は「異教徒をぶっ殺せ」とは言ってないと思う。だけど取り巻きの人が「俺の方が教えを分かってる」競争を始めちゃう。どんどん過激になって、教えを説いた人も「ふむふむ」と暴走を始めたことに満足しちゃう。だって自分の言葉が人を動かすって気持ちが良いものね。言葉によるコピーが暴走を始める。AIよりも先に言葉が先に暴走を始めているからね!!映画化必至!!

 

4.焼酎は評価しない

高齢者になると動きは緩慢に、思考は鈍重になる。内村さまぁ~ずで還暦を迎えた上島竜平が、焼酎の中身を水に替えられていても気が付かなかった。何となく飲んでいるんだと思う。きっと「焼酎の味を見極めるモード」で飲んだら気が付けはするだろう。でも、それをする意味ってあるだろうか。テイスティングだったら良いけど、見極めるっていうのは、良い事も悪い事も言語化すること。「この焼酎はすっきりしているけど、コクが無い」と言ったら、コクが無い焼酎なんだなってその言葉を聞いた人は思う。なぜならネガティブは強いから。美味しいのが普通だから。評価すること自体が既に評価をつけている、ってことよね。評価に値しない、じゃなくて、既に素晴らしいから評価そのものをしない。そんな論理だと思う。

前回のブログで「まずは自分が幸せであれ」と書いた。それは自分も家族も、どんな人もそう。というのは、欲望であろうと、考え方であろうと、焼酎であろうと、人は知らず知らずのうちに他人のことをインストールして自分のものにする生き物。かつ幸せは見え辛くて、不幸せの方がインパクトが強い。もし、その理屈が本当なら、目に映る全てがとりあえずは幸せっぽい方が良い。だから幸せであれ、幸せであれ、って思っている。家族も、近しい人も。その姿を見て、幸せをコピーできると思う。