僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

母について② どうして生まれた

今日は土曜日。土曜日だから妻はウキウキで出かけて行った。僕は一緒に行きたかったけど、行かないことにした。

 

今、妻との関係は落ち着いている。落ち着いたり、ダメになったりを繰り返している。お金が無かったり、要因は色々だと思うけど、僕ができることは自分がやることを淡々とやるだけ。妻のせいにしない。それだけ。

 

出かけるのに本当は行きたかったと書いたけど、出かけておしゃべりしている間に、つい僕は自分の否定されたら嫌な部分まで話してしまう。その話の反応が悪いと、不機嫌になる。それでまた喋らない期間が出来て僕は落ち込む。

それは、もう流石に駄目で過去から学ばなきゃいけないと思って、今日は一緒に出掛けないことにした。

僕らは、近い将来別れるからここで半端に仲良くしていたら、お互いに良くない。ただ今は助けてもらっている、それで満足しよう。そうしよう。

 

昨日はフットサルの練習があって、人が少なかった。そのせいか、普段は口数が少ないことが多いのに結構ワイワイやった。鳥かごみたいなことをして、2対2をやって、結構ハードだった。

帰りの車で、お金が無いんだよ僕は、って悲しくなって色々妻に話した。〇〇という経験があったから僕は動けないんじゃないか云々、××という教育を受けたからこだわりができちゃって云々、姦しいというかなんというか、まぁベラベラと喋った。

途中僕は、ごめんしゃべりすぎたというと「いいんだよ、しゃべることが必要なんだと思うよ」と言ってくれた。

そしたらさらにターボが掛かって、また喋っている時に気が付いた。あれ、これハムスターのかごを回しているだけじゃない!?って。宗教に憑りつかれた人が拝み方が足らなかったから私は不幸なんだって思うことと一緒じゃんって。

なんで僕は悪かったんだろう、何がいけなかったんだろうっていう考え方は、時に良いけどやりすぎは絶対精神衛生に良くない。

 

そう、母の話の続きを書こうと思っていた。前回は、最後に会った時の話を書いた。端的に言うと品川で会って、上手く気持ちを伝えられなくて泣いてネットカフェに泊まった。

 

母の記憶の最初は、仙台にいた頃。僕の家族は、父と母が僕が7歳の頃に離婚して仙台から札幌に移ってきた。その時の話を面白可笑しく書いているのが母のブログであるから探してみて。

仙台にいた頃は、母は専業主婦で、父は祖父が始めた不動産会社の跡継ぎ。と言っても多分そんなに働いていないと思う。正直よくわかんないけど、お金は沢山あったんだと思う。

父と母は、好き合って結婚したというよりは、誰かと結婚したかった父と、お金持ってそうだから良いか、って結婚した2人。

今思えば、だけど2人共子供だったんだと思う。子供が子供を産み育てるって難しいよね。

母は北海道北見市出身のちょっとしたお嬢で、世間知らずで、読書好き。父も単に祖父がお金持ちだったというだけの、世間知らず。そういえば2人共全然働いてねぇな。

 

 

一般的にうまいことやっていける夫婦の類型って、僕が知る限りでは

 

例えば、趣味が合ってそれを一緒にやる友人みたいなタイプの夫婦。

子供が欲しくて、いわゆる世間一般の大人となるために結婚したタイプの夫婦。

お金とか生活が互いに独立していて、結婚をすることで生活費が節約になる、パートナータイプ。

どちらかがどちらかに甘えることで相互依存が成立するタイプ。

まぁ色々あるだろうし、兼ね備えた夫婦もいると思う。

 

健全な対人関係が成り立つ要素は絶対にあって、互いのにニーズに応えられるかというのが、夫婦だけじゃなくて人間関係のコツだと思う。(僕は下手だし、殆どできないけど)

2人が結婚して子供を産み育てて、生活を営んでいく原動力というか、大義名分は祖父の会社の「跡継ぎの育成」だったと思う。

父親は、女性としての母のことは最初好きだったと思う。母は結構見た目が良いし、従順そうに見える。だから、付き合うのには良かったと思う。

母親には、お金があったこと、父親の見た目がそんなに悪い訳じゃないことで付き合ったと昔言っていた。

 

そんな「付き合うには良い」という理由で付き合った人と、「お金があるから付き合った」という人の間に、「跡継ぎ」として生まれた、長男。

そして僕達、弟2人。実際のところ僕と双子の兄に関しては跡継ぎという理由はなかったと思う。だからより難解。多分、子供は3人くらいかなーみたいな、父と母としては彼と彼女が持っていた、一般的な家庭への憧れを実現するために僕らは生まれたんだと思う。

 

だけど、夫婦をやっていく理由が薄弱なこともあるし、そもそも2人共互いが求めることをできていない。それに加えて30年近く昔のことだから、父は母に暴力をふるったり、育児に全く関わらずキャバクラに行ったりしていた。

そうして、ゴタゴタが続いて、7歳の時に離婚。

 

ここまでは聞いた話。

 

記憶にあるのは、いつも泣いている僕。父が怒って、それに対して母も怒って。怒鳴り合うのを何度も見た気がする。上手くいかない矛先は子供にも向かっていて、マンションの廊下に出されて泣きじゃくっている記憶がある。父親に叩かれたことも覚えているなぁ。

良い父と母であったこともあると思う。きっとその時間の方が長くあったんだと思うけど、いざ思い出してみると鮮烈な記憶として出てくるのは、そういうネガティブなことが多い。

 

母は、「このままここで(最低な)父と暮らしているより貧乏になろうと、母子家庭になろうと絶対私と暮らしていた方が、この子達にとって良い」と思ったと言っていた。

僕もそう思う。暴力は絶対ダメ。育児に協力しないのもダメ。

母は、ここで言葉にできないほどの絶望を結婚生活で味わったと思うけど、離婚するにしてもしないにしてもどちらにせよ、子供が自己尊厳を健全に育んでいく環境は用意することができなかったんだろうな、と思う。

 

そうして札幌に移り、祖母の協力のもと新しい生活が始まった。

最初は、祖母の家に住み、母はデパートで働いていた。そのうち、市営団地に引っ越すことになった。お風呂が無くて、狭い家だった。隣の住人は時々廊下で暴れて火をつけるぞって怒鳴る人だった。

 

だけど、僕は守られていた。母のできる限りで、甘えて弱い僕を守ってくれていたと思う。毎日、兄弟ケンカに負けて大泣きしていた。よく覚えていないけど、母は慰めてくれていたと思う。

 

兄弟が素晴らしいレゴの乗り物を作る中で、うまく作れないと言って泣く僕に、車と車をホースのようなものでくっ付けて、僕の車を作ってくれた。

沢山食べて、吐く僕をしからずにいてくれた。

母はきっと必死で僕を育ててくれた。

 

けど、僕はそれに気付かないで、足りない、足りないって泣いていた。

それは誰にも咎められない気質の問題だと思っていて、僕には母子家庭で母が家にいない状況では、足りなかったんだと思う。

 

「なんで産んだんだよ」っていうワードは中学生の頃に卒業しておかなきゃならないワードで、大人がやっていいことではないと思う。

まぁでも責められるとしたら、なぜ僕を不完全な夫婦で子供を産んだんだろうということ。 

だけど僕は、双子で産まれた。しかも弟。そう、もちろん双子になる確率はあるけど、そうなるなんて思わないじゃない。そう、偶然。

 

ほとんどの人が偶然の産物として生まれてきていると思うけど、僕のを言語化するとこんな感じになった。