僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

生きるとか死ぬとか感謝とか

昨日はフットサルがあった。個人参加のやつ。僕が競技としてフットサルを始めたきっかけとなった個人参加のフットサルで、月3回くらい行っている。

この個サルは雰囲気がいつも良い。個人技ギラギラでもないし、球際ガツガツじゃない。一生懸命に皆やっていて僕にはちょうどいい感じ。

けど昨日は駄目な回だった。個人技ドンドンやって球際はファールっぽくて、シーンとした中でやっている。面白くない。

僕のチームは、ほぼフットサルができないおじさん(アラレちゃんみたいなポーズでボールを蹴るしかできない)と、コネコネドリブラーとチームのコネコネさんと僕だった。

 

組み合わせの時点でもうダメだなと思っていたから、必死に声出したり走ったりしたけど、面白くならないまま終わった。

帰ってご飯食べようと思ったら、ご飯が手のひらで握れるくらいしかなかった。妻が食べてそれだけ残したみたい。僕が帰ってから食べるかもって。

いや、食べるならもっと要るだろ。圧力鍋でもう一回炊いて食べた。

 

簡単に書いたけど、僕はフットサルから帰ってくる時、自転車に乗りながらも泣いていたし、ご飯の量を見ても泣いた。

こんなに苦しいのはなんでだろうって、こんなに苦しまなきゃならない程僕は何かを犯したんだろうかって。

 

このブログを始めた頃は、希死念慮が無くなったと思ったから書き始めていたけど、そうじゃなくて、やっぱり死にたくなった。

暗くした部屋で、自分で自分に「ここまでよく頑張ったよね。お疲れさま」って言っていた。

そうやって僕に語りかける優しい僕もいたし、ボロボロ泣いて惨めで憐れな僕もいたし、そんな悲劇の主役をやっている僕を冷めた目で見ている僕もいた。

 

けどどうしても死ぬのは怖い。

人に迷惑をかけるのは最悪良い。けど失敗したらとか、色々考えちゃう。自分に傷1つつけられないほど臆病で、弱くて行動に移せない。

きっと僕が死んだら、母も妻も驚くだろう。後悔するだろう。

僕がこんなに追い込まれているのに、手を差し伸べなかったことを悔やむだろう。死は最強の無言のメッセージで、伝わらない相手には、それが一番効果的んんだって理解している。けど、自分がかわいい。

 

生きるか死ぬかでしか、自分本位になれない。自分の尊厳は生命がただあることでしか表現できない。

きっと生きているだけで素晴らしいって言う人はいると思う。それはきっと正しい。

でも人間だから理想があって、日々水と米と塩さえ食めていれば良いなんていうのは絶対に嘘。

望んだことが叶っているから、与えられたものが他人より優れているから、日々の些細なことに感謝できるのであって、そうじゃない人が生命に感謝なんてできない。生きながらえているだけ。

 

生きているってことにだけ関しては自分本位。その「生きている」という言葉の範囲に、僕が決定的に足りていないものがあると思う。

普通は、仕事をして家族があって、お金をもらって、それを使って。

それで満足したり、しなかったり。しない部分はお酒でなんとかカバーしたり。

 

後悔しても明日が来るから、朝起きて仕事をして、後悔を忘れて、少し尊厳を取り戻して。

サラリーマンを続けられる人は、他人より優っていると思う部分があって、その押し付け合いに勝てる人だけだと思う。「あいつよりはオレイケてるよな」みたいに。

僕はそれを生きているとは思えない。個性も優しさも、思いやりももっと全面に出して生きていきたい。

 

昨日僕は泣きながら、このブログを続けようと思った。いつか死ぬから嫌いなことはできない。本当はあと3秒後にお金持ちになっていたいし、社会的な地位も欲しい。けどそれは叶わない。

 

お金も名誉も死ぬことも叶わないなら、このブログだけやってみようって思った。

散文的だし、具体的じゃないこのブログだけど割と生命を賭けてやっているし、生命を続けさせている。

 

あ、こうやって1つの記事を書き終えたことにはありがたいなって思えているかも。状況にも自分自身にも。