僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

対象となる人物像と、責任の所在

今日は快晴だそうだ。外が明るい。盗聴疑惑のあるアレクサが言っていた。僕は何を盗聴されていても何ら気にならない。

 

このブログのコンテンツって何だろうって考えた。こんなただの30歳の心の中身をぶちまけただけの文章、僕なら読まない。そう、対外的には何も無いだろうという結論がすぐ出てきた。

だから、しばらくの間このブログは、僕が主張したいことを少しずつ明確にしていくために、僕が対象にしたい人を言語化していく作業の場にしていこうと思う。 きっと一つのエントリじゃ収まらないので、何回かに分けて書く予定。

 

 

 

1.対象とする人物像 の類型

ブログのタイトルには「若い人辛い人繊細な人」と書いている。この意図は何なんだろうか。

僕が関わっていきたいと思っているのは、すごく抽象的だけど確かに存在している。

要は、大人との対義語としての子供っぽさがある人であって、今の社会に合致できない人を指している。これを一言でまとめる言葉を僕はまだ知らない。

 

僕が思う、その要素を列挙すると(これをA群とする)

A群

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若い 甘えている 子供っぽい 自分の意見が無い やりたいことが無い 周りに左右されやすい 周りの目が気になる 自分と他人の線引きが無い

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と言ったところだろうか。

 

じゃあその対義語は何だろうかと考えてみた。(これをB群とする)

B群

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 大人 理性的 大人の振舞い 自分の意見を言える やりたいことが明確 自分を持っている 周りなんてどうでも良い 自分のできる範囲を知っている

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要は僕が関わりたいと思っているのは、自らをA群にいると把握しつつも、何とかできないか模索している人が対象

きっと把握できるからしんどいし、繊細になるんだと思う。そういう人達、もうちょっと待っていてくれ!

 

 2.責任の所在

何となくA群よりB群が良さそうなのは分かる。じゃあA群には無くて、B群にあるのはなんだろうか。ものすごく抽象的になってしまうのだけれど、責任かもしれない。

責任って何だろうってことで、デジタル大辞泉で責任を調べてみると

 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」
 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の責任をとる」「責任転嫁」

 

 とある。自分の行為の結果やそのものに対して、人は果たすべき義務を行わなくてはならない。それはそう思う。トイレに行ったら尻を拭かなきゃいけない。

よく、大人と子供の違いは責任だって言う。その通りだと思うけど、AとBの違いは責任なのか。自己責任なのか。何か腑に落ちないし、理不尽さがぬぐえない。

この気持ち悪さを何故そう感じるのか、僕に問いかけまくったら仮説が浮かんだ。

 

 

Ⅰ.生命があるかどうかその責任は自分になく、親がそれを保有していた(る)。

 

当ブログではこれをⅠとする

反抗期の骨頂みたいな文章で恥ずかしい限りなんですが、事実だと思う。

 

実際僕も親になんで産んだのって聞いたことがある。そしたら「大変な責任を負うことになったな、とその時思った。」と返された。回答になっていないけど、言わないことが答えというやつだと思う。

 

例示をする。A群に属しているYさんがコンビニで万引きをしたとする。犯罪行為に手を染めたのは紛れもなくYさんが悪い。責任がある。では、万引きができる環境に(店員が少なかったり、棚が死角になったり)あったことはYさんの責任だろうか。

また、Yさんはお金が無くて万引きに及んだ。大分長い間、仕事をしていないからで、食うに困ってやったようだ。じゃあ働けないYさんの性格は彼個人だけによるものだろうか。

僕は、Yさんだけに責任があるとは(≠処罰されるべきでない)とは思わない。

要はどんな行動にも様々なものに要因はあるよね、ということが言いたい。

そしてそれを突き詰めると、命に辿り着く。Yさん万引き→お金が無い→仕事してない→働くに向いていない→親の性格が悪かったのか→なんで産んだんだ!

という具合にネガティブに捉えられることは、論理上親の所為にすることができると思う。

ここでいったんまとめると

AとBの違いは「責任」である。でも「責任」は突き詰めると命の誕生に戻り、生まれてきた子供には責任はなく親に所在する。

 

(※引っ掛る人にはむかつく文章だと思うけど、あくまで論理上ということを承知下さい。)

 

親の裁量が100%あるなかで生まれた子供の受け身タイムはまだまだ続く。

そう、教育。子供は親から学んで生きる術を身に着ける。でも、その親がちゃらんぽらんだったら?子供はそれに抗う術はほとんど持っていない。ゆえに

 

Ⅱ.教育などの環境について子供の選択権はほぼ無い

 

となる。ここではそれをⅡとする。

ⅠとⅡを合わせると、「子供は命の有無も選べないし、家庭環境も選べない。」という何とも芳しい香りのする文章が答えとして出てくる。

 

ここでまたA群とB群の話に戻る。

じゃあこの命と家庭環境での違いはA群B群で違いはあるだろうか。ほぼ無いというのが僕の考え。子供が欲しいからとか、赤ちゃんを育ててみたいとか色々理由はあっても、それは子供は選択権がないから産む側の理由。

もし子供が「生まれたくなかった!」と言った時に、親は「だって育ててみたかった!」では議論にならない。覆水盆に返らず。精液精巣に返らず。

 

そう、A群とB群への決定的な違いが生まれるのはⅡの生育段階で起こると思う。

AとBを分かつ決定的な違いは、親などの人格形成に影響を与えた人物によるものが大きいと思う。

もう一回最初に戻ってまとめると、「AとBの違いは「責任」である。でも「責任」は突き詰めると命の誕生に戻り、生まれてきた子供に責任はなく親に所在する。そしてその生育環境についても責任は子供になく親に影響されることが大きい。

 

となる。

3.本投稿のまとめ

もしこのブログを読んでいるしんどい人は、今日のところは親が悪いで良いと思う。怒って良いと思う。努力じゃどうしようもない部分ってあって、それが命があることだったり生育環境だと思う。

勝手に産んで、勝手に育てて、挙句の果てには社会に通用するように育てなかったことの責任の多くは親にあると思う。

 

だから、自分の責任だって今は思えなくて当たり前だと思う。けど、それだけが正解じゃないのは何となく理解できるはず。僕は当たり前を言語化して、これを読んでふむふむとなった人と一緒にもう一歩進みたい。