僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

キャバクラに行きたい理由

昨日は僕の目にするところで、色々な諍いが起きていた。

時々覗くブログでは、いわゆるアンチみたいな人に書き主がばっちり同じ土俵に立って(厳密には著者と読者でしかないけど)怒りをぶつける記事を書いていた。アンチもそれはそれは大興奮してそれに反応していた。

 

もうひとつは、兄のツイッター。インド料理を生業にしていて、その情報発信の場所にしている。その中の一言にとあるカレー業界の人が反応していて、兄に心ない言葉を吐きかける。

兄は兄で社会でどう生きるか苦しんだ末に今の立ち位置を見つけて、それなりのことをやっていると思う。

彼が今まで頑張ってこられたのは、ある意味普通の世界では生きていけないから。普通の人が普通に働いて、普通にお酒飲んで愚痴言って、又朝起きて電車に揺られて、という世界にはもう戻れないし戻らないって不退転の覚悟で操業している。

沢山苦しんででも、肚を決めてでも彼が入り込んだ世界でくらい、貶す人とか馬鹿にする人はゼロであって欲しいって勝手に思っていた。

昨日はそればっかり気にして日が暮れた。僕も兄もそのアンチも暇なんだ。

 

兄は否定的な人とはもう関わらないと呟いていた。それにはもうアンチからリプライはない。

 

きっとだけど、アンチと兄は近い部屋の人。兄が遠回しに対象が見えない相手に対して吐いた毒を、アンチの彼はセンサーに引っかかって気づいた。

あるもの下らなさに気づいて馬鹿にする人と、馬鹿にしていることに気づけて、腹を立てられる人は考え方が近い。だからそういうリプライをしている時点でアンチの彼は、同じ様に考えているし、きっと疑問にも思っている。タイミングや時期や言い回しが違えば、「同じこと思っていたよ!」って言い合える。

 

断絶されているのは、馬鹿にされていることも気づかないで、いいね!ってボタン押している人。その人達よりよっぽど考え方が似ている。

 

それにお互い気づければ良い提供者と受領者になれる。

けど気が付かない。あくまで欲しいのは、全てを無条件にYES言ってくれる人だから。これを書いている間にも、兄は又、反撃の様なことを発信し始めている。

 

よく芸能人が「コメントで面白くない!って言われた!だったらやってみろよ!」って言っているのを見る。(この記憶は、ゆりやんだ)

何も間違っていない、全くの正論だと思う。

プロの世界はやった人が偉いし、やってない人は存在さえ認知されない。

 

大人も同じシステムで回っていると思う。子供は生まれ落ちているだけで加護の対象で、何をやっても誰かが見ていてくれる。だけど大人はどんな社会に所属しても、やることやってないと存在を肯定されない。

僕も兄もゆりやんも、自分の存在を肯定だけしてくれる世界とか社会がきっとあるって思って生きている。この世界なら、これだけやれば、とか。

 

だからおじさんは、キャバクラが好きだと思う。お金さえ払えば肯定してくれるから。どんな見た目でも入場券さえ買えれば肯定が安定的に供給されるし、批判の恐怖にも晒されない。

 

そう、プロになる人は世界をキャバクラで満たすことを目指しているのかもしれない。

 

脱線した。「だったらやってみろ」の話。カレー屋には客がいないとできない。芸人もお客さんありき。

美味しいカレーとお金。一時の笑いとお金。それらを交換。

 

当たり前だけど、役割がある。

学生の頃かなり変わり者の先生が、女性を連れて歩いていた時はびっくりした。それも先生と旦那という役割。

 

サービスを批判をすることはお客さんの越権行為なのだろうか。

 

私見だけど、対価を払っているかどうかと、やり方がスマートであるかが越権行為かどうかを分けるポイントだと思う。

 

対価を支払わないでお客さんにはなれない。ゆりやんの例で言うと、ツイッターとテレビって直接はお金を払わない。

じゃあ普段から「いいね」をしてる人は批判できるのだろうか。

なんかマイケル・サンデルの【これからの「正義」の話しをしよう】みたくなった。

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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もう疲れちゃったからサンデル先生にお願いしよう。