僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

妻について⑤ 他人から見た僕って

TSUTAYAの話を昨日書いた。素敵なTSUTAYAで、昨日妻と行ったし最近は毎日のように言っている。

その帰りに、食材の買い出しをしようということになって買い物をした。一軒目のスーパーでは白菜とネギ。地元のじじいとかばばあが作った野菜が売っているスーパーだから、地産地消的な気持ちになる。

もう一軒スーパーに行って、もやしと鶏むね肉を買った。お金が本当に無いから、もやしを4袋買おうとしたら「りょうずは本当に、節約っていう気持ちないよね」って言われた。もやしって節約の化身だと思っていたけど、彼女としたはそうじゃないらしく1袋19円のもやしを2つ返そうと思って、売り場を戻る。

そしたら、肩を掴まれて「あなたは間違ってないよ」と。でも、買いたくないって思ったのは、本当なんだから返そうと思ってそのまま返す。もやしを置いた後、彼女を探したら、もうどこかに行っていた。

僕の心は、もう動かない。クイーンの歌を聞きながら、歩いて30分くらいかけて家まで戻った。

 

 

前回までは、同棲して彼女が出て行って、帰ってきてというところまでを書いた。

 

過去の僕を、振り返るのは面白いというか、何事でも、自分の記憶についてどう整理をつけるかっていうのは大事だと思っている。この思い出は、黒色、この思い出は、黄色みたいにラベリングすることで、過去に囚われなくて済む。

それをどういう風に纏めるか、どういうものとして記号化していくか、っていう作業をすると、昔の出来事について「もしかしてこういう風にも考えられる?」って逡巡が生まれなくなる。

この迷いは、人を動けなくする原因に成り得るものだし、言い訳になるものだと思う。「親のこういう育て方が~」とか「妻のこういう態度が~」とか、まさにそれが僕だと思う。

だから、このブログのは、気持ち悪いこととかわがままなこととか、沢山出てくる。

それが終わったら、もっと明るいものを書いていこうとしている。だから、今現在色々書いているけど、基本的には救いの無い話になると思う。だって、これまでの僕は救いようのない僕だし、多分現在進行形で救いようのない人間。

だけど、もっとまともに、前向きに生きていくために、書いていく。

 

どうやって意見を伝えるかって本当に難しい。

れが、僕と彼女の間の核心部分だと思うんだけど、僕が家族に求めるものは「価値観の共有」。

だけど、彼女はそうじゃない。もともとその機能がついていないんだと思う。言葉にする力がなくて、共感する力が無いが故に、相手は気兼ねなく話せる。その力をセッションという仕事に活かしているんだと思う。

 

これって、距離感の問題だとも思う。僕の人付き合いの距離は近い。僕が自己肯定感が低いゆえなのかもしれないけど、家族とも、友達とも、価値観を共有したいし、それを確かめたいって思っている。

それを近いと思うか、重すぎると思うか。

距離感の問題。距離感の問題だし、相手がどういう人かっていう問題。

 

ようやっと、過去の話。前置きが長い。 

実家で、母の恋人が「あいつは、やばいぞ。あぁいう奴は親に責任をとってもらうやつなんだ。」という話を聞いていたころ、彼女からメールが来た。「明日は燃えるゴミの日だから、忘れなかったらだしておいてね。」って。

このことは、母にも話したし、兄弟にも話した。兄弟とか母については、別稿で書きたいと思っているから詳細は書かないけれど、兄は僕より弁が立つ。

だから、こういう時はどう考えるものか、いつも教えてくれる。「出ていったんだから、鍵を替えられても文句は言えないんだよ」とか、「なんでごみの日を出ていった人に言われなきゃいけないの」って。

 

なんやかんやで、帰ってきた妻に、僕は借り物の言葉で罵倒する。罵倒したって状況は変わらないのに、自分の意志で決めないで始めた同棲で、自分の言葉じゃない言葉で、彼女を非難する。

どうしようもないと思う。ほんとにどうしようもない僕だと思うし、どうしようもない状況だと思う。 なんでだろうって今の僕でも思う。

 

なんでしたくもない同棲をしたのか、なんで借り物の言葉で人を傷つけるのか、なんで大切な人が心配してくれているのに耳に入れられないのか。

自分の人生に、自分がいるようでいない。

この時の僕は、どう見られていたかって書いてみると

 

彼女からは、「若い男性で、同棲・結婚をする人」

母からは「自分の子どもで守るべき人」

兄からは「自分の弟で、自分より馬鹿で手が掛かるし手を掛けたい人」

 

どれも僕だけど、僕の全体を捉えていない。与えられた「役割」であって、僕そのものでない。僕だけなの、僕の全体を捉えてほしいって思うの。

 

他人からそう見えるってことは、本当に僕という存在は、中身というか芯というか、そういう一貫したものが無い。

 

次の記事は、今いる長野県に来た時のことを書こうと思っている。